民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「一番はじめは一の宮」

2013年11月29日 00時45分48秒 | 雑学知識
 「一番はじめは一の宮」 明治後期~昭和にかけて歌われた 手まり歌、お手玉歌

一番はじめは一の宮(いちのみや) 
二は日光東照宮   
三は讃岐の金比羅さん( 佐倉の惣五郎)
四(し)は信濃の善光寺
五つ出雲の大社(おおやしろ)
六つ村々鎮守さま
七つ成田の不動さま
八つ八幡の八幡宮 (大和の東大寺/法隆寺)
九つ高野の弘法さん
十(とお)は東京招魂社 (東京泉岳寺/本願寺)

十一 心願 かけたなら
浪子の病も 治らぬか
ごうごうごう なる汽車は
武雄と浪子の 別れ汽車
二度と逢えない 汽車の窓
鳴いて血を吐く 不如帰(ほととぎす)

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「なぜ生の声には、作品の本質がのせられるか」 幸田 弘子

2013年11月27日 00時16分12秒 | 朗読・発声
 「朗読の楽しみ」 幸田 弘子 著   光文社  2002年

 「なぜ生の声には、作品の本質がのせられるか」 P-32

 生の声には、作品の本質が盛り込まれています。なぜでしょう。

 説明はしにくいのですが、生の声からは、作品そのものがもっているはずの微妙な息づかいや間、音色のこまかい綾のようなもの、そして何よりも、作品本来が生まれたときにあった、<生き生きとした感じ>が伝わるからではないか、と思うのです。
同時にそれは、作者がそれを書いたときの、生き生きとした感情なのではないかと思います。

 けれども、マイクを使うと、どうしてもそれらの多くが消されてしまう。
人間の耳はすごくて、たとえ数値にあらわされなくても、一目で(一聴で)、生の声と録音された声を聞き分けますね。
音楽が、いい例になるかもしれません。
生演奏とマイクを通したものとでは、どんなにいい装置を使っても、差がついてしまうそうです。

 もうひとつ、クラシック音楽とポピュラー音楽の違いを考えてみるのも、ヒントになるでしょう。
クラシックのリサイタルでは、基本的にマイクを使いません。
どんなに大きな会場でも、ナマの楽器、生の声で演奏するのが基本です。

 これに対してポピュラー音楽では、歌手や演奏者が装置を用い、音声処理を行ったものを聞かせます。
この違いはどこからくるのか。

 ポップスは聞くべきもの。クラシックは作品を聞くべきもの。

 想像にしかすぎませんが、ごくかんたんにいえば、この差が大きいのではないでしょうか。
クラシック音楽は、生の声、楽器を使うことによって、作曲家がその作品にこめた本質的な意味や感情を伝える。ポップスは、あくまで歌手中心・・・・・。

 私も、生の声で演じる自分の舞台で、ぐっと身を乗り出して聞いてくださる観客との一体化を、何度も味わっています。
それは同時に、作品そのものが聞き手にきちんと伝わったという一体感でもあるのです。

 読むものと聞くものの息がぴったり合い、共鳴する瞬間。
そこに作品そのものが出現する。
まだ理想には遠いのですが、つねにそうしたものが演じられるよう、心がけているつもりです。

よけいなことと言われるかもしれませんが、何かの司会やスピーチをなさる機会があったら、マイクなしでできる小さな会場では、生でおやりになることをおすすめします。

 生のほうが、伝わるものもずっと多いのです。
私は、最初からマイクの使用があたりまえになっている今の風潮は、少しおかしいと思います。
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「『声』はつむぐもの、『音声』はつくるもの」 幸田 弘子

2013年11月25日 00時34分04秒 | 朗読・発声
 「朗読の楽しみ」 幸田 弘子 著   光文社  2002年

 「『声』はつむぐもの、『音声』はつくるもの」 P-28

 「声」という字に「音」がつくと「音声」になります。
どちらも意味としてはほとんど同じでしょうが、私は、声と音声はべつのものではないかと思うのです。

 テレビの音声とはいうけれど、テレビの声とはいいませんね。
つまり音声とは、加工された声のこと。
マイクで拾い、電気的に大きくしたりしてスピーカーから出す、いわば物理的な音波です。

 それに対して、私たちは舞台などで使うものが「声」なのではないか。
声とは、生の声のことではないか。

 朗読、とくに聞き手を前にした朗読は、生の声でするものだと私は考えています。
このことを、初めに述べてみたいのです。

 私はNHKで育ち、ずっと放送の仕事をしてきました。
「声」ではなく、マイクを前にして「音声」を用いてきたわけです。
おそらくその反動があったのでしょう。
私はあるときから声で舞台をつとめようと考え始めました。
舞台は自分の声だけで、マイクなしに作品を伝える場所、そう思って、
これまで自分のリサイタルをやってきたのです。

 ふつう舞台の楽しみといえば、もちろん生身の人間が、
目の前でその役を演じてくれるところにあります。
つまり生の姿、生の声が基本ですね。
でも最近は、芝居にしてもそのほかの舞台にしても、マイクを使うものが増えてきたようです。
役者の声をマイクで拾って大きくする。効果音なども重ねて。

 その効果なのかどうか、声を大事にしない舞台が多いような気がします。
音量はやたら大きいのですが、かんじんのセリフが聞き取れない。
基礎的なトレーニングの問題もあるのでしょうが、
時代的に、声のもつ意味がないがしろにされていることの証明なのではないかとも思います。

 しかし芝居の世界では、「一、声。二、顔。三、姿」というくらいで、
本来、いちばん大切なのは「声」だったのです。
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「人の思い出は声に凝縮されている」 幸田 弘子

2013年11月23日 00時17分59秒 | 朗読・発声
 「朗読の楽しみ」 幸田 弘子 著   光文社  2002年

 「人の思い出は声に凝縮されている」 P-23

 前略

「かつての名優の記憶は、顔やしぐさなんかじゃなくて、声なのではないか」

 まったく同感です。
たとえば滝沢修さんの、渋い独特の声。
山本安英先生の、いつまでも若々しく、それでいて落ち着いた声。

 声の思い出に導かれて、顔や役や動作が次々に浮かんでくる。
人間の個性というのは、その声に凝縮されていると私は思います。

 日本だけでなく、たとえばパリで女優マドレーヌ・ルノーの芝居を見て、
たいへん感動したこともあります。
ルノーさんの人間、そして生きざまが全身から発散してこちらに伝わってきたのですが、
それはやはり、声を中心に生まれてくるとしか言いようのないものでした。

 芝居であっても、朗読のように作品を読むにしても、演じる者の生き方が問われる。
そうでなければ、人の心をうつことはむずかしい。
とくに朗読は、読む人の香り、匂いのようなものを表現できなければ、意味がないのではないか。
私はそう思って、ずっと朗読をやってきたのです。

 朗読は、声のもつそんなすばらしい喚起力を使った、人間の原点にいちばん近い芸術なのでは、
と思います。
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「マイクの声と生の声のちがい」 幸田 弘子

2013年11月21日 00時15分59秒 | 朗読・発声
 「朗読の楽しみ」 幸田 弘子 著   光文社  2002年

 「マイクの声と生の声のちがい」 P-18

 前略

 どうか日本語も、まず美しく読むことを意識していただきたいと、これは私の心からの願いです。
その第一歩として、とくに子供たちには、気に入った文章があったら暗記してほしい、そらんじてほしいのです。

 声で読まれた音の記憶が、どんなに大事なことかは、あとになってきっとわかります。
すぐ忘れてしまってもいい、感性の豊かな年齢なら、心のどこかにかならず残ってくれるはずです。

 その意味で、中学校くらいの生徒さんたちにお話しすることを、私はとても喜んでいます。
そういうときは、体育館などでの講演が多いので、お母様たちも含め、聞き手は千人以上になることがあります。

ほとんどの学校では静かに聞いてくれますが、たまにはそうでないこともあります。
そんなときは、校長先生が私を紹介するさいにマイクを使って、割れるような大声で話される。
声が届かないからです。
でも学校によっては、先生の話を誰も聞きません。

 私はそこで、マイクをはずして話をはじめます。
「聞こえますか」というと、最初はざわめいていたのが、やがて耳をそばだて、最後まで真剣に聞いてくれるようになるのです。

 ここで壇の上に立っている人は、どんなことをしゃべっているのだろう、なぜマイクをつかわないのだろう・・・・・。

 私は「生の声」にはとくべつのものがあると、つねづね考えています。
作者が命がけで書いた文章への思いが、そこに込められている。
作者の心は、生でなければ伝わらないと思っているのです。

 そうした私の気持ちがわかるのか、うるさかった生徒たちも、いつのまにか静かになって、耳をそばだて、最後まで話を聞いてくれるようになります。

 ここに朗読のコツの、最初にして最後のヒントが含まれていると、私は思っています。
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