民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「江戸しぐさから学ぼう」 第三巻 秋山 浩子

2013年10月28日 00時37分45秒 | 雑学知識
 江戸しぐさから学ぼう 第三巻 こころの中の思いやり 文・秋山 浩子 絵・伊藤 まさあき

 どんなリサイクルがあったの?

 「もったい大事」が当たり前だった江戸では、古いものやこわれたものも、かんたんに捨てたりしません。
リサイクルは江戸の一大産業で、専門業もたくさんあり、資源を有効利用していました。
不用品を回収する仕事、修理したり、別のものにつくりかえたりする仕事、またそれを売る仕事など、
さまざまなリサイクル業の一部を紹介しましょう。

 羅宇屋(らうや)
キセルの管を掃除したり取り替えたりする。

 鋳掛屋(いかけや)
鍋や釜の修理をする。

 たが屋
桶や樽をしばっている「たが」を取り替えたり修理する。

 下駄歯入れ
下駄のすりへった歯を取り替える。

 瀬戸物焼接(やきつぎ)
割れた瀬戸物を修繕する。

 提灯張り替え屋
提灯のまわりの紙を張り替える。文字なども書く。

 紙屑買(かみくずかい)
いらなくなった紙や衣類、金属、道具などを買い取る。

 灰買(はいかい)
台所のかまどに残った灰を買い取る。灰は肥料になった。

 蝋燭の流れ買(ろうそくのながれかい)
ろうそくを使ったあとに流れ落ちたロウを買う。集めたロウでまたろうそくを作った。

 落買(おちゃない)
「落ちはないか」(おちゃない)の呼び声とともに抜け落ちた髪の毛を買い集める。
女性の髪を結うときに添える毛(かもじ)になった。

 渋髪売(しぶかみうり)
いらなくなった紙を何枚か張り合わせて、柿の渋をぬって丈夫にして売る。

 還魂紙売(かんこんしうり)
紙くずをもう一度すいて、再生紙をつくって売る。

 三つ物売(みつものうり)
古着を売る。着物の表、裏、中綿の三つに分けて売ったのでこの名前になった。

 竹馬古着屋(たけうまふるぎや)
古着、古きれを売る。竹でできた天秤棒をかついで売ったのでこう呼ばれた。

 献残屋(けんざんや)
いらない贈り物を下取りして売る。

「まことの花」 梅若 六郎

2013年10月26日 00時05分36秒 | 雑学知識
 「まことの花」 五十六世 梅若 六郎(能楽師)著  世界文化社 2003年

 「祖父の稽古」P-10

 白州正子さんに「梅若 実 聞き書き」という著書があります。
祖父の芸談を聞き取って、随所に白州さんご自身の感想をはさみながら構成された本で、
刊行は昭和26年(1951年)。
祖父はこのとき73歳、私は3歳。
祖父は81歳まで生きましたが、私の知る祖父は、晩年の10年あまりですから、
その意味では祖父の人生の大半が知れるこの本は、私の初舞台がこの年だったこともあって、
とても興味深く、折に触れて親しんでいるものなのです。

 中略

 この項の終わりにあたり、「梅若 実 聞き書き」のなかでも、一番好きな一節があり、
その箇所に出会いたくて読むこともしばしばですので、ご紹介してみます。

 それは、いざ聞き書きを始めたものの、白洲さんの作業は「思ったほどすらすらと運ばな」かったようで、「その話は極めて断片的で漠然としてい、そこらの芸談にみるような闊達さはどこにも見られない。
そのかわりあの歯の浮くような名人らしい気取りもない。
まったく一介の隠居のおじいさんが語る昔話にすぎないのである」といった具合だったらしく、
思い余った白州さんは、世阿弥の「花伝書(風姿花伝)」を持って訪ね、
「先生、この本お読みになったことありますか。これこそほんとの芸術論というものです」
と問いかけられたのですが、それに対して祖父は、
「いえ、そういうけっこうな書物がある事は聞いておりましたが、未だ拝見したことはござんせん。
芸が出来上がるまで、決して見てはならないと父にかたく止められておりましたので。・・・・・
しかし、(ちょっと考えて)もういいかと思います。が、私なぞが拝見して解りますでしょうか」
と答えます。

 こういわれての白州さんの一行がまた、私は大好きなのです。
「私はいたく恥じいった。むろん本はそのまま持ち帰ったことはいうまでもない」

 祖父の「理屈より実践」を貫いたゆえの『芸』に対する揺るぎない自信と、
白州さんの『これぞ見識』としかいいようのない姿勢に、
私は読むたび、襟を正され、豊かな気持ちになるのです。

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」 中村 仁一 その3

2013年10月24日 00時26分56秒 | 健康・老いについて
 「大往生したけりゃ医療とかかわるな」自然死のすすめ  中村 仁一著  幻冬社新書 2012年1月

 介護の拷問を受けないと、死なせてもらえない P-53

 死に際の苦しみには医療による虐待ばかりではありません。
介護による拷問もあるのです。
それも、いい看取りを行っていると自負のある介護施設で起こりがちなのです。

 それは、医療者ができることはすべてやるのが使命と考えていることと、根は一つであるような気がします。
冒頭で「医療の鉄則」として、
「一、死にゆく自然の過程を邪魔しない」
「一、死にゆく人間に無用の苦痛を与えてはならない」と書きましたが、
これは「介護」に関しても同様だと思うのです。

 中略

 死に際には、飲み込む力も弱ってきます。
しかし、心優しい介護職員は一口でも人匙でも使命感に燃えて涙ぐましい努力をします。
その結果、のど元にものが溜まってゴロゴロと音がして苦しみます。
そうすると、鼻から管を入れて、それを吸い取る「吸引」という荒技を施さなくてはいけません。
これは、死にゆく人間を二重に苦しめることになっているのですが、
介護職員にはあまりその感覚はないようです。

 無理やり飲ませたり食べさせたりせず、穏やかな自然死コースにのせてやるのが本当に思いやりのある、
いい看取りのはずです。
時には介護においても、できることであっても控える方がよいこともあると考えなくてはいけません。

 中略

 本人が自力で食べられるように、調理は工夫して目の前に置くが、
手を出さなければそのまま下げてしまうという北欧式や、
「栄養をとらずに横たわる人を、水だけ与えて静かに看取る」という三宅島の先人の知恵を、
もう一度、噛みしめてみる必要があると思います。

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」 中村 仁一 その2 

2013年10月22日 00時09分02秒 | 健康・老いについて
 「大往生したけりゃ医療とかかわるな」自然死のすすめ  中村 仁一著  幻冬社新書 2012年1月

 「自然死」の年寄りはごくわずか P-49

 死に際は、何らの医療措置も行わなければ、夢うつつの気持ちのいい、
穏やかな状態になるということです。
これが、自然のしくみです。
自然はそんなに過酷ではないのです。
私たちのご先祖は、みんなこうして無事に死んでいったのです。

 ところが、ここ30~40年、死にかけるとすぐに病院に行くようになるなど、様相が一変しました。
病院は、できるだけのことをして延命を図るのが使命です。

 しかし「死」を、止めたり、治したりすることはできません。
しかるに、治せない「死」に対して、治すためのパターン化した医療措置を行います。
例えば、食べられなくなれば鼻から管を入れたり、
胃ろう(お腹に穴を開けて、そこからチューブを通じて水分、栄養を補給する手技)によって栄養を与えたり、
脱水なら点滴注射で水分補給を、貧血があれば輸血を、小便が出なければ利尿剤を、
血圧が下がれば昇圧剤というようなことです。

 これらは、せっかく自然が用意してくれている、ぼんやりとして不安も恐ろしさも寂しさも感じない
幸せムードの中で死んでいける過程を、ぶち壊しているのです。

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」 中村 仁一 その1

2013年10月20日 00時21分51秒 | 健康・老いについて
 「大往生したけりゃ医療とかかわるな」自然死のすすめ  中村 仁一著  幻冬社新書 2012年1月

 はじめに

 前略

 がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます。
以前から「死ぬのはがんに限る」と思っていましたが、年寄りのがんの自然死、60~70例を経験した今は、確信に変わりました。

 繁殖を終えた年寄りには、「がん死」が一番のお勧めです。
ただし、「手遅れの幸せ」満喫するためには、「がん検診」や「人間ドッグ」などは受けてはいけません。

 病院通いの年寄りが多いのは、私たちの同業者が、「健やかに老いなければいけない」
と脅し続けてきたせいもあります。
健康食品やサプリメントの売れ行きの凄さが、それを物語っているように思えます。

 本来、年寄りは、どこか具合の悪いのが正常なのです。
不具合のほとんどは老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、
すっかりよくなるわけはありません。
昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。

 ところが、「年のせい」を認めようとせず、「老い」と「病」にすり替えます。
なぜなら、「老い」は一方通行で、その先には、「死」がありますが、病気なら回復が期待できますから。

 人間は、生きものである以上、老いて死ぬという運命は免れません。
最先端医療といい、再生医療といい、所詮、「老いて死ぬ」という枠内での話です。
年寄りは、あまり近づかない方がいいと思います。

 あまり医療に依存しすぎず、老いには寄り添い、病には連れ添う、
これが年寄りの楽に生きる王道だと思います。

 年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。

 中略

 少し体調がすぐれなければ、すぐ「医者よ、薬よ、病院よ」と大騒ぎする人には、
「自然死」は高望みだということになります。

 後略