民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「バッグがない・・・」 マイ・エッセイ 24

2016年09月29日 00時03分26秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   バッグがない・・・
                                                  
 仕事をリタイアしてから、バッグを持つようになった。大き目のポケットなら入るような小さいバッグで、携帯電話、手帳、筆記用具、老眼鏡などを入れている。両手は遊ばせておきたいので、手で持ち歩くことはほとんどない。ポケットに押し込んだり、カバンやリュックに入れて持ち運ぶことが多い。
 三月の第二土曜日、音楽の好みが似ていて、年も近いことから親しくなったK子さんに、
「明日、音楽の好きな連中が集まって演奏もできる店があるんだけど、行きませんか? 」と誘われた。 
 出不精のオイラとしてはちょっと渋ったけれど、車で送り迎えしてくれるというので、つきあうことにした。
 次の日の午後、K子さんの車で、音楽好きのマスターが定年退職後に開いたという店へ行った。住宅街の一画にひっそりと建っている、こじんまりとした喫茶店だった。知っている人も何人かいたので、初めての店にしてはくつろいで、みんなの演奏を聴いたり、オイラもギターを弾かせてもらったりして、楽しい時間を過ごした。
 夜の八時ごろ家に送ってもらい、玄関でコートを脱いだとき、ポケットに入れておいたバッグがないことに気がついた。
(店にでも置き忘れてきたんだろう)
 第一感、そう思った。K子さんが家に着くころを待って、電話をかけた。
「バッグを店に置き忘れてきたみたいなんだ。電話して聞いてもらえない? 」
 すぐかかって来るだろうと待っていたけれども、なかなかかかって来ない。待ちくたびれたころ、やっとかかって来た。
「何度も電話してみたけど出ないの。飲みにでも出かけたんじゃないかな」
 早くもやもやから開放されたいけど仕方がない。
「それじゃ、明日こっちからかけてみる」と、電話番号を教わった。
 次の日、十時になるのをそわそわと待って、店に電話すると、
「昨日店仕舞いしたときには、そんなバッグは見当たらなかったですね」
 そこ以外に考えられなかっただけに、がっくりしながら電話を切った。
 となると、車の乗り降りのときくらいか。ことの重大さがじわっじわっと押し寄せてきた。
 その日の午前中は歯医者の予約があった。雨が降っていたので、傘を差して歩いて行った。月の最初の治療の日には健康保険証の提示を求められる。それは診察カードと一緒にバッグの中だ。「あとで持ってくる」と説明して治療は受けられたが、早くもバッグがない不自由さを思い知らされる。
 十二時ごろ治療を終えて、交番に向かう。去年、七千円ほど入った財布を拾ったとき、届けた交番だ。誰かが届けていてくれてるかもしれない 。あのときいいことをしたんだから、今度はそのお返しがあってもいいんじゃないかとの淡い期待が浮かぶ。
 おまわりさんに事情を話す。まだ拾ったという届けは出ていないという。それではと遺失届けの手続きをした。物を拾って交番に届けたのは去年が初めてのことだったし、物を落して届けるのも今回が初めてのことだ。この年齢になってこんな「非日常」なことがたて続けにおこるとは・・・。
 警察の次は、携帯電話を使えなくする手続きをするために、電話会社に行く。待たされた時間の割には、あっけなく手続きは済んだ。ついでに、戻ってこなかった場合のことを聞いてみると、思ったよりはるかに、金も手続きもかかりそうだ。面倒なことになった。今更ながらバッグを失くしてしまった後悔にうちひしがれる。
 四時ごろ自宅に戻った。バッグの中の手帳にはオイラの住所と名前が書いてある。拾った人が直接家に電話してくれたかもしれないと、出かけている間ずっとそんな期待を持っていた。しかし、家人はそんな電話はなかった、と言った。
 手帳にはどんなことが書いてあったかなとか、健康保険証の再交付もしなくちゃならないかとか、いろいろ思いが巡る。
 電話の呼び出し音が鳴った。すかさず取るとK子さんからだった。
「バッグ、車の中にありました。ごめんね、昨日は暗くて気がつかなかったの」
(あぁ、よかった)
 ふっとからだの力が抜ける。
 彼女もいくらか責任を感じていたのか、これから届けてくれるというので、好意に甘えた。    
 さっそく警察に電話で、
「友だちのところにありました。今から届けてくれることになっています。遺失届けの取り下げをお願いします」と、見つかったことを報告すると、
「まだ手元には届いていないんですね。戻ったらまた電話してください」
「えっ」とオイラは絶句した。理不尽と思いながら、これ以上言ってもムダだろう。「わかりました」と、腹の中で舌打ちしながら、電話を切った。
 K子さんが「これでしょう」と、バッグを届けてくれた。オイラは今日一日あったいろいろなことをしゃべりたくてなって、近くのファミレスに誘った。
 歯医者の予約、健康保険証、交番に遺失届け、携帯電話の利用中断、今日一日振り回されたことを興奮気味に、だけど、バッグが戻った安心感があるから、笑い飛ばせる余裕を持ってしゃべった。
 最後に「これが一番言いたかったことなんだけどね」と、もったいつけて、さっき警察に電話したことを話した。
「そしたらね、間違いなく手元に戻ってから、もう一度電話してください、だって」
「ふぅーん、警察ってそういうところなんだ 」
 K子さんが呆れた顔でうなずいた。

「テキストの句読点は尊重して、しかもとらわれない」 鴨下 信一

2016年09月27日 00時29分32秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 「テキストの句読点は尊重して、しかもとらわれない」 P-24

 朗読・音読のレッスンをしていると、テキストに書いてある句読点に皆がとらわれていることに驚きます。そして句読点は大昔から存在していると思っている人が多いのにも、びっくりします。

 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へりされば天より人を生ずるにハ万人皆同じ位にして生まれながら貴賎上下の差別なく万物の(以下略)

 これはあの有名な福沢諭吉の『学問のすすめ』の初版本(明治5年)です。文語文ですが、とてもやさしい。それなのに、なんとも読みにくいのは、句読点が何もないからです。
 すべての人に読みやすく、と思って書いた福沢諭吉がこれですから、句読点が明治初頭の段階ではまだまだ普及してなかったことがわかります。
 それでも明治36年に出版され、翌37年から実際に学校で教えられた日本最初の国定教科書『尋常小学読本』は、

 タローハ、イマ、アサノアイサツヲシテイマス。

 とちゃんと句読点を打っています。
 句読点が言文一致体、口語普通文といっしょに普及していったのには意味があると思います。文語文のような「定型」が文章からなくなった。文章のどこがアタマで、どこがシッポなのかひと目でわからない。文章のパターンが増えて、構文も複雑になった。句読点を打たないと現代文はわからなくなった。
 しかも句読点はその発生から便利のために使われたもので、さしたる規則性がない。恣意的に打っても誰も文句をいわない。そしてここまでずっといってきたように、句読点はそのままでは<朗読・音読の区切り>にはならないのです。(中略)区切りの打ち直しは、台詞や文章を「音声化」する人の義務です。
 もっとも、作品の、文章の「解釈」に、作家の打った句読点は重要なガイド、指標になります。このことは後に何度か触れることになるでしょう。


「間と呼吸」 その2 鴨下 信一

2016年09月25日 00時23分05秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 「間と呼吸」 その2 P-21

 もう一歩、進みます。
 実は通常は「日本語は」の後で、そんなにゆっくり息なんか吸わない。ここでも短く息を吸う、つまり息を継いでいるだけです。それでもやはり「世界一」の後では間(ま)がある。
 それは「もっと短い」間(ま)です。間(ま)というよりは「意識の隙間」といったほうがいい。ここでは「息をほんの少し止めるけれども、吸わない」のです。この「ほんの少し」はほとんど無意識に近い短さで、だから意識のスキマといったのです。――ということは、例文の句読点を、

 日本語は、世界一美しい言葉です。

 としてもいいじゃありませんか。これはA②と同じですね。
 言葉を換えていえば、このいちばん短い間(ま)はこうして隠れていること多いのです。この序章の最初に、読点・区切れの一つもない①の型がありました。

 ①日本語は世界一美しい言葉です。

 もうおわかりでしょう。この①の型にも読点・区切れが隠れているのです。
 以上三つが日本語の間(ま)の<三つのタイプ)<三つの長さ>です。


「間と呼吸」 鴨下 信一

2016年09月23日 00時26分09秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 「間と呼吸」 P-21

 次は呼吸のことです。
 間(ま)は呼吸だ――こう教えられてきたし、人にもそう教えてきましたが、経験を積むうちに、これはどうも誤解を招く、もっと微妙な言い方をしたほうがいい、思うようになりました(このことはマイクなどの音声機器が発達、普及して、むやみと大きな声を出さずに朗読ができるようになったことと関係があります)。
 たしかに肺の中の空気を使い切ってしまうと、もう読めません(ここから後は実際にやってみてください)。ところが、肺いっぱいに息を吸っても同様に読めないのです。吸った息をちょっと吐き出すと、読める。
<肺の中にいつも適当な(必要な)量の空気が入っていればいい>のです。
 そのためにはどうすればいいか。
 長い間(ま)をとってもいい時に、ゆっくり、たっぷり息を吸うことは誰にだってできます。問題は、短い間(ま)のあいだに、すばやく、必要な量を吸えるかどうか。

 A③日本語は、a 世界一、b 美しい言葉です。

 この例文を、aは長く、bは短い型(パターン)で練習しましょう。「日本語は」の後のa「、」でゆっくりと息を吸っておきましょう。「世界一」の後のb「、」はサッと速く吸ってみましょう。意外と朗読のベテランの人でも、こうした基礎的(ベーシック)なことがうまくできない。
 コツがあります。それは「世界一」の語尾を「ちゃんと止める」ことです。語尾の音(つまり息)をちゃんと止めると、反射的にスッと空気が入ってくる。
 昔の人はうまいことをいいました。これを「息を継ぐ」というのです。


「句読点は長さがちがう」 鴨下 信一

2016年09月21日 00時01分59秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 平凡社新書 2009年

 「句読点は長さがちがう」 P-20

 もっと大事なことがあります。

 日本語は、a 世界一、b 美しい言葉です。

 こう区切った時、aとbの「長さがちがう」ことです。区切った時の「間(ま)」の長さ(時間)がちがう。声に出して読んでみるとわかります。ふつうはaが長く、bが短い。
 aとbを同じ休止の長さで読んでごらんなさい。ヘンです。
 でも、話の後の結論部分などで日本語の「美しさ」を本当に強調したい時にはbを長く(aを短く)することもある。要するに、日本語の句読点の休止の長さは、「可変」で「一定でない」のです。「。」はちゃんと休む、「、」はちょっと休む。こうした教え方も、どうもあいまいで、よくないことがわかります。