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「お先にどうぞ」という倫理的生き方 その3

2015年06月02日 01時45分03秒 | 健康・老いについて
 「おじさん」的思考  内田 樹(1950年生まれ)  晶文社 2002年

 「お先にどうぞ」という倫理的生き方 その3 P-92

 レヴィナス先生は、倫理の根源的形態とは「お先にどうぞ」という言葉に集約される、と書いている。
「そんなの簡単じゃないか」と言う人がいるかもしれない。たしかに、エスカレーターの前や、ドアの前で「お先にどうぞ」と言うことはそれほどむずかしくない。でも「タイタニック号、最後のボートの最後のシート」を前にして「お先にどうぞ」と言うのはそれほど簡単ではない。
 レヴィナス先生は、あらゆる場面で「お先にどうぞ」と言い切れること、それが倫理的に生きるということの具体的なかたちである、と論じている。これはむずかしい。なぜなら、「やり残したこと」がある人間は強い意志をもって欲望を抑制しないかぎり、その言葉を口にすることができないからだ。だが、「やり残したことのない」人間にはそれほどの克己心は要らない。だって、もう「やり残したことはない」からだ。「ま、いいすよ。おいらは。人生じゅうぶん愉しんだし」と心から思っているからである。
 人は幸福に生きるべきだ、と人は言う。私もそう思う。でも、たぶん「幸福」の定義が少し違う。そのつどつねに「死に臨んで悔いがない」状態、それを私は「幸福」と呼びたいと思う。幸福な人とは、快楽とは「いつか終わる」ものだということを知っていて、だからこそ、「終わり」までのすべての瞬間をていねいに生きる人のことである。そう私は思う。だから「終わりですよ」と言われたら。「あ、そうですか。はいはい」というふうに気楽なリアクションができるのが「幸福な人」である。「終わり」を告げられてもじたばたと「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を窮め尽くしたい」と騒ぎ立てる人は、そのあと長くいき続けても、結局あまり幸福になることのできない人だと思う。

 後略            
                                          2001年5月