民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「私の作文教育」 その6 宇佐美 寛

2017年05月31日 00時05分16秒 | 文章読本(作法)

 「私の作文教育」 その6 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 第二章 「過程作文(発想作文)」・「編集作文」 その4 P-38

 2 何について述べている文なのかを明確に書く。そのために有効ならば、できれば、いわゆる主語をあらわに書き込む。

 3 このような文相互の連絡関係を明瞭な形で表す。つまり、このような関係を示すための語句が入るところは入れる。「しかし、」・「だから、」・「そして、」・「例えば、」・「いいかえれば、」・「これを具体的に示せば、」・「このような、」・「さきに述べたように、」等である。

 4 必要な事柄を述べるべきであり、筆者の心理を書き表すべきではない。さきの作文例でいえば、「読んで感じたことは・・・」・「・・・と思う」のような、筆者の頭の働きぐあいを示す語句は明確な秩序を述べるのには妨げになるばかりである。思ったり感じたりした事柄だけを書けばいいのである。「思った」・「感じた」という働きは書いてはならない。

「私の作文教育」 その5 宇佐美 寛

2017年05月29日 00時03分53秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その5 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 第二章 「過程作文(発想作文)」・「編集作文」 その3 P-37

 文章を書くのは、もちろん考えて書くことである。意識を注ぎ正確・明瞭な文章を書こうとすることによって思考は論理的になる。
 自分で自分の意識を統御し、自らの書いている言葉を吟味し疑いながら書かねばならない。このような自己統御の思考を最も強く働かせるべき範囲は、文である。つまり、句点(。)で、区切られる長さの範囲である。

 では、どのような文を書くべきか。いいかえれば、どのような文で考えるべきか。
 私はすでにここまでにこの問いに対する答えをある程度述べた。あらためて、整理し補って論ずることにする。

 1 文をなるべく短く書く。(原稿用紙でいえば、一文を三行程度以内で書く。)いいかえれば、句点を早くつける。これは、内容についていえば、一つの文の中でいろいろな事柄を書くのを避けるということである。なるべく一つの文では一つのことだけを書くということである。つまり、「一文一義」である。また、その「一つのこと」に関係が無い語句を使わないように注意するということである。(「句点をはやくつける」とは。の数を多くすることである。私は受講生に「。」一つを五百円玉だと思って、なるべく多くかせぎなさい。」と言う。)


「私の作文教育」 その4 宇佐美 寛

2017年05月27日 00時39分53秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その4 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 第二章 「過程作文(発想作文)」・「編集作文」 その2 P-36

 こういう冗長な、進行が遅い文章を書こうとすると、一文(センテンス)は、自ら短くなる。一文一義になる。つまり、一文では、一つのことだけを言う文体になる。
 一文の中で、いろいろのことを、一緒に一気に言う長い文では、くどく、しつこく書くことは不可能である。ごちゃごちゃと混乱・錯綜し、何を言っているか不明になる。
 
 一文一義ならば、「なぜか。」「つまり、」「だから、」などと書いて原因・結果・目的・方法の関係を明確に示すことが出来る。「例えば、」と書いて、適合する事実を具体例として示すことも出来る。
 一文一義の短い文を書くのならば、当然、文章全体としては、句点(まる)を多くすることになる。


「私の作文教育」 その3 宇佐美 寛 

2017年05月25日 00時13分00秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その3 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 第二章 「過程作文(発想作文)」・「編集作文」 その1 P-36

 私は、「序章(導入)」に次のように書いた。

 文章は、他者に読ませてその人に影響を与えるために書くものである。

 書き手である私は、既に知っていること、既に考えていたことを材料の一部分として書くのである。
 しかし、その文章を読む者は、まだ知らないし、考えてもいない。だから、読ませて効果が得られるためには、簡単に手短かに書いたりしてはならない。いわば、少しずつ角度を変えながら、わからせるのである。少しずつ内容をずらして、多面的に知らしめるのである。

 こういうゆっくりと少しずつ移っていく文体ならば、読者は疲れない。どこかで、わからない所、読み落としや誤解が有っても、読み進むうちに解釈が成り立つ。修正される。
 この逆に簡潔でくり返しが無い文体では、ちょっと読み落としたり誤解したりすると、とたんn文章自体が理解できなくなる。これでは緊張しつづけねばならない。疲れて困る。
 つまり、進行の速度がゆるやかで、くどい反復も有る冗長な文体でなければならない。くどく、しつこく書くべきである。


「私の作文教育」 その2 宇佐美 寛 

2017年05月23日 00時28分23秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その2 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 序章(導入) その2 P-4

 作文は、読み手に影響を与える目的で書かれる。これは、まさにコミュニケーションである。コミュニケーションではない作文などというものは無い。有り得ない。(日記は、観念的に設定された別の自己に読ませるコミュニケーションである。)
 だから、国語教育界で「相手意識」がことさらに、とりたてて注目・重視されるのは、不自然で奇異な感じさえする。「相手意識」は当たり前のことであり、それ無しには、作文という学習は成り立たないのである。
 だから「コミュニケーション作文」などという用語は、なおさら奇妙である。全ての作文はコミュニケーションなのだから、「コミュニケーション作文」とは同義反復的(tautogical)な語である。つまり、「三つの辺が有る三角形」というような奇妙さである。三つの辺が無い三角形などというものが有るか。

 私のこの本は、どう作文されているのか。ここまでに論じたように、「作文は読み手に影響を与えるため」であるという原理を説き実証して読者に納得させるという影響を与える目的で作文されている本である。つまり、この本自体に私の作文原理を具体的に示させるつもりなのである。そのように思って読み進んでいただきたい。