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「当世・商売往来」 別役 実 

2015年06月22日 00時04分07秒 | 雑学知識
 「当世・商売往来」 別役 実 岩波新書 1988年

 「あとがき」 

 かつて大阪の地下鉄に、個人で乗車券を売る婆さんがいた。たいていは地下鉄に降りる階段のところに立っていて、通りかかる客とそこで手早く取引をするのである。もちろん、公式に窓口を通じて買うより、その方が安かったわけではない。それでは商売にならないのである。つまり婆さんは、十一枚を十枚の料金で買える回数券を窓口で手に入れ、それを公式の値段で売るのだ。したがって十枚売れば、当然ながら一枚分のもうけが婆さんのものになる。
 私は大阪に出てこの婆さんから、しわくちゃになって「これで本当に通用するのか」と思えるような回数券を手渡される度に、ある種の不安と、スリルと、そして得体の知れない感動を覚えた。そのいささか非合法めいたたたずまいが、取引それ自体に何かしら内密なものを通わせているように、思わせたのかもしれない。そして、公式に窓口を通じて買うのと同じ値段であるにもかかわらず、多くの人々がその婆さんの手から乗車券を買ったのは、彼等もまたその取引にその種の感動を覚えていたからに違いないと、私はほとんど信じている。
 もちろん、いつのころからそんな婆さんはいなくなった。地下鉄公団の方で、その種の取引を禁止したのかもしれない。婆さんの方で、そのささやかなもうけでは暮らせなくなって、やめたのかもしれない。自動販売機が進出して、客の方でもその無味乾燥な、機械的な取引の方がわずらわしくないと考えはじめたのかもしれない。
 「残念だ」と思うほどのことでもないが、商売ということを考える時私はいつも、その婆さんのことを思い出す。十一枚を十枚分の料金で買える回数券を手に入れ、それを十一人に売り渡して一枚分のもうけを手に入れるという発明は、一見あまりにもささやかで、それだけに愚かしいもののように思えるが、にもかかわらず私はそこに、回数券というものの思想をくつがえす、あり得てしかるべきでない奇妙な精神が作用して入ることを、否定するわけにはいかないのである。

 後略