民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その5 伊藤 亜紗

2017年04月30日 00時19分46秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その5 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「自分にとっての『当たり前』を離れる」 P-26

 前略

 その、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、世界のとらえ方はどうなるのか?そう考えて、私は新しい身体論のための最初のリサーチの相手として、「見えない人」に白羽の矢を立てました。つまり、「見えない人」は、私にとって、そして従来の身体論にとって、ちょうど補色のような存在に思えたのです。ずいぶん長くなりましたが、これが、私が「視覚を使わない体に変身してみたい」と思った理由です。

 「見えないことと目をつぶること」 その1

 見えない体に変身したいなどと言うと、何を不謹慎な、と叱られるかもしれません。。もちろん見えない人の苦労や苦しみを軽んじるつもりはありません。

 でも見える人と見えない人が、お互いにきちんと好奇の目を向け合うことは、自分の盲目さを発見することにもつながります。美学的な関心から視覚障害者について研究するとは、まさにそのような「好奇の目」を向けることです。後に述べるように、そうした視点は障害者福祉のあり方にも一石を投じるものであると信じています。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その4 伊藤 亜紗

2017年04月28日 00時07分39秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その4 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 まえがき (その4)

 なお、本書では便宜上、「見えない人」とひとくくりに表現していますが、実際には「見えない」といってもその内実はさまざまです。

 見た記憶があるのかないのか、全く見えないのか、それとも少し見えるのか、視野が狭いのか、色が分かりづらいのか――。また、同じような「見えなさ」でも、聴覚を手がかりにしがちなのか、触覚を手がかりにしがちなのか、あるいはまた別の方法をとるのか――。「見方」は人によってさまざまです。

 個々のケースに寄り添いすぎたり一般化しすぎたりすると大切な論点が失われてしまいます。「個別」と「一般」のバランスをどこで取るのかはなかなか難しいですが、本書では、インタビューで得た具体的な言葉をなるべく引用しながら、それをもとに私が論として一般化させる、という手続きをとています。

 それでは早速、「見えない人」の世界を垣間見てみましょう。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その3 伊藤 亜紗

2017年04月26日 00時23分10秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その3 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 まえがき (その3)

 世界とのかかわりの中で体はどのように働いているのか。本書は、広い意味での身体論を構想しています。ただし、これはあまり前例のない身体論かもしれません。一般に身体論では健常者の標準的な体を使います。ところが本書では、「見えない」という特殊な体について考えようとしているわけですから。

 しかし、見えない体にフォーカスするからといって、必ずしもそこから得られるものが限定的だというわけではありません。障害者とは、健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人です。障害者の体を知ることで、これまでの身体論よりもむしろ広い、体の潜在的な可能性までとらえることができるのではないかと考えています。

 したがって、本書はいわゆる福祉関係の問題を扱った書物ではなく、あくまで身体論であり、見える人と見えない人の違いを丁寧に確認しようというものです。
 とはいえ、障害というフェイズを無視するわけではありません。助けるのではなく違いを面白がることから、障害に対して新しい社会的価値を生み出すことを目指しています。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その2 伊藤 亜紗

2017年04月24日 00時20分12秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その2 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 まえがき (その2)

 本書は、視覚障害者やその関係者6名に対して著者が行ったインタビュー、ともに行ったワークショップ、さらには日々の何気ないおしゃべりから、晴眼者である私なりにとらえた「世界の別の顔」の姿をまとめたものです。見えない世界しか知らない人にとっては、逆に目で見た世界が「別の顔」になります。「そっちの見える世界はどうなってるの?」「えーっと、こっちはねえ‥‥」。そんな感じでお互いの世界を言葉にしていきました。

 世界の別の顔を知ることは、同時に、自分の体の別の姿を知ることでもあります。手で「読ん」だり、耳で「眺め」たりと、通常は目で行っている仕事を、目以外の器官を使って行っているわけです。私たちは体が持っている可能性の本の一部分しか使っていません。見えない人の体のあり方を知ると、そのことを強く感じます。



「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その1 伊藤 亜紗 

2017年04月22日 00時48分18秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その1 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 まえがき (その1)

 人が得る情報の8割から9割は視覚に由来すると言われています。小皿に醤油を差すにも、文字盤の文字を確認するにも、まっすぐ道を歩くにも、流れる雲の動きを追うにも、私たちは目を使っています。
 しかし、これは裏を返せば目に依存しすぎているともいえます。そして、私たちはついつい目でとらえた世界がすべてだと思いこんでします。本当は、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界もあっていいはずです。物理的には同じ物や空間でも、目でアプローチするのと、目以外の手段でアプローチするのでは、全く異なる相貌が表れてきます。けれども私たちの多くは、目に頼るあまり、そうした「世界の別の顔」を見逃しています。

 この「世界の別の顔」を感知できるスペシャリストが、目が見えない人、つまり視覚障害者です。たとえば、足の裏の感触で畳の目の向きを知覚し、そこから部屋の壁がどちらに面しているのかを知る。あるいは、音の反響具合からカーテンが開いているかどうかを判断し、外から聞こえてくる車の交通量からおよその時間を推測する。人によっててがかりにする情報は違いますが、見えない人は、そうしたことを当たり前のように行っています。