民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

新釈「ウサギとカメ」 マイ・エッセイ 26

2016年12月30日 00時03分41秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   新釈「ウサギとカメ」
                                                  
「ザブン」
 風呂に入り、浴槽に身を沈める。いい気持ちになって首をグルグル回すと、タイル壁にナメクジが貼りついているのが目に入る。何度かお目にかかっているヤツに違いない。あんまりまともに見たいヤツではないが、湯気のせいでそんなに抵抗なく見ていられる。  
 じっとしていて動かなければそのうち見るのに飽きてしまうのだろうが、もぞもぞ動いているからなんとなく気になる。どっちに行こうかな、と探りをいれるように首を左右に振りながら、頭をにゅーっと伸ばして、からだが三倍ほどの長さになると、しっぽを引き寄せて進む。ゆっくりな動きなのに、目を離すと思いがけないほど先に進んでいる。その動きは予測不可能で見ていて飽きない。

 去年、生涯学習センターの講座で足立則夫氏を講師に招いた。オイラよりひとつ年上の団塊世代、本業は新聞記者だが、趣味でナメクジを調べていて数年前に『ナメクジの言い分』を上梓している。講座のテーマは忘れてしまったが、雑談でのナメクジの話は知らないことばかりで好奇心をそそられ、それ以来、ナメクジが気になるようになった。
 ナメクジによく似ているのにカタツムリがいる。オイラはナメクジが先でカタツムリが後だと思っていたが、実際は逆で、カタツムリが先でその進化した形がナメクジというのが定説だという。カタツムリは体の一部の殻に栄養を与えなければならない。ところが、殻を脱ぎ捨ててしまえば、栄養をやる必要もなく、その分食べる量が少なくて済む。これが生存競争の激しい地球を生き抜いていく上で大きな利点となる 。
 ナメクジが動いた跡にはネバネバした銀のスジが残る。あれは人間の胃を胃酸で溶けないように保護している「ムチン」という粘性物質と同じだという話に、人間とナメクジの共通点を見い出して、地球の生命体の神秘に思いを馳せた。

 ナメクジの奇妙な動きを眺めているうち、ふと「ウサギとカメ」の寓話が頭に浮かんだ。
 ゴールまでの距離がどれくらいなのかわからないが、ウサギが居眠りするくらいだから、最低でもウサギが全力で走って、一時間くらいはかかる距離と考えられる。
「ヨーイ、ドン」の合図で、ウサギとカメの競争が始まった。ウサギはスタートから半分くらいまで走ると、カメのことが気になって後ろをふり返ってみるが、カメの姿は見えない。
 ウサギはのろまなカメがかけっこで挑戦してきたからには、なにか秘策でもあるのではないかと不安になって、カメの様子を見るために戻ったのではないか。そしてスタート地点からまだいくらも離れていないところを走っているカメを見つけて安心する。カメは必死になって手足を動かしているが、ウサギからすれば信じられない遅さだ。
 ウサギは呆れる。だが、このウサギは好奇心満々のウサギだった。自分とまったく違う動きをするカメに心を奪われた。前後左右からカメの動きを観察する。腹這いになってカメのように手足を動かしたかもしれない。
 だが、好奇心も長くは続かない。慣れない姿勢に腰も痛くなってきたろう。やがて、ウサギは単調な動きを見るのに飽きてきて、睡魔に襲われる。そして、いつしかコトンと眠りについてしまう。
「コクッ」。いかん。オイラも眠くなってきた。オイラもいつまでもナメクジなんか見てはいられない。そろそろ風呂から出るとするか。
「ザバーッ」

『悲しい酒』 美空ひばりの流す涙の理由

2016年12月28日 00時13分37秒 | 雑学知識
 「夢人生を奏でて」 古賀政男 生誕百年記念特別版  2004年

 『悲しい酒』 美空ひばりの流す涙の理由 P-134

 心に浸みる名曲の作詞者は石本美由起だ。1960(昭和35)年のある日、彼はコロンビアのディレクターから、『酒は涙か溜息か』の現代版を書いてほしいという依頼を受けた。ほぼ一ヶ月の間彼は悩み抜き、この重たい企画を胸に抱きながら、銀座や横浜の酒場を飲み歩いた。

 そんな難産の末にできあがった詩に古賀が曲をつけた。
 この歌は最初、新人歌手の北見沢惇に歌わせ、同年7月新譜として発売されたが、これといった反響もないままに消えてしまいそうになった。

 そこで歌手を変える話になり、アントニオ古賀と北島三郎の名前が挙がった。結局、北島がレコーディングするのだが、その直後、第七番目のレコード会社として誕生したばかりのクラウンへ移籍してしまい、発売中止にという結末。そのとき古賀は石本にこういっている。

「石本くん。この曲は何年でもあたためていて、これはと思う歌手が見つかったら、そのときにやりましょう」
 1966(昭和41)年になって、『悲しい酒』に、これはと思う歌手の中で、新たな生命が吹き込まれた。

 美空ひばりである。
 といっても、すぐに火がついたわけではなかった。
 ステージやテレビでひばりが何度も歌い重ね、ラジオで頻繁に流しているうちに、この歌は大衆の間に浸透していった。

 やがて、レコード売上は百万枚を突破し、ひばりの曲では『柔』と並ぶ大ヒットとなった。
 石本は次のように言った。
「これは、古賀先生と私のコンビで生まれた最大級のヒットソングであり、永遠の名曲だと思っている。この曲と巡り会えたことによって、作詞家として生きてきた自分の人生に、生き甲斐と安堵感を抱くことができた」

 一番と二番の間で語られるセリフは、石本の詩には書かれていない。だから、ひばりが最初にリコーディングしたときもそれはなかった。
 その後ひばり自身の発案により、あのセリフが作られたのだ。
 ひばりはこの歌を歌うとき、必ず涙をこぼす。
「歌いながら、つらい思い出ばかりの小さいころに戻るの。すると、ひとりでに涙が流れてくるの」
 と、その涙のわけをこう話していた。

 石本 美由起
 日本作詞家協会名誉会長。歌は詩心を歌うとモットーに音感の綺麗な言葉を使用、定型詩の美しさを重視した詩作りを行い歌謡界に一時代を築く。代表作に『憧れのハワイ航路』『悲しい酒』

「夢人生を奏でて」 古賀政男

2016年12月26日 00時04分28秒 | 雑学知識
 「夢人生を奏でて」 古賀政男 生誕百年記念特別版  2004年

 はじめに P-2

 平成16年11月18日―古賀政男生誕百年。古賀先生が亡くなられてから、既に27年の年月が流れたことに深い感慨を覚えます。先生との思い出は語り尽くせない程ありますが、中でも、私の音楽人生の指針となり、物の見方、考え方、生き方を決定づけた昭和20年2月12日、私が先生の内弟子として入門した日のことは、今も昨日のことのように強烈に、鮮明に蘇ってきます。

 その日の朝、私は正座して、古賀先生の前にいた。
「そこに座りなさい」先生の声は静かだった。温かかった。
「これから私が言う話をしっかりと聞きなさい。生涯をかけて音楽の道に進みたいと思うのなら、これから私の言うことを良く覚えておきなさい。この言葉がお前の心の中に生き続けている限り、この言葉を心で理解する努力をする限り、お前は音楽家としての豊かな人生に勝利するであろう」
 
 その年の冬は、例年になく雪の多い冬でした。そのなある日、外出先から帰ってきた私が感じた、そこはかとなく漂う温かい空気。何とも言えない良い香り。それは沈丁花の香りでした。
 まさにその時!先生の言葉が私の心に蘇ってきたのです。

 音楽する心 それは はっと驚く心。
 はっと驚く心 それは 素直に感動する心。
 素直に感動する心 それは あの少年の日の好奇心を持ち続けること。

 そうだ!春はもうそこまで来ている。「はっと驚く心」とは、このことなのだ。
 ついにこの心にたどり着いた!先生、有難うございます。
 
 先生は私にとって、かけがえのない恩師でした。そしてそれ以上に、人間として正しく、誠実に、生きる道を指し示し、支え、教え導いてくださった人生の師、そのものでありました。

 そんな先生の音楽への熱い思いを遺したいと願い、この度『古賀政男生誕百年記念特別版―夢人生を奏でて』を出版する運びとなりました。激動の昭和の時代に夢と希望を与えてくれた先生の歌の心を、ひとりでも多くの皆様に感じ取って頂けたら幸いに存じます。

 (中略)

 財団法人  古賀政男音楽文化振興財団 理事長 山本 丈晴


「声が生まれる」 話すことへ その4 竹内 敏晴

2016年12月24日 00時18分41秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 話すことへ――つかまり立ち その4 P-31

 息を吐かない人々③――アルコール依存症の人たちへのレッスン

 息の浅さは若い女の人ばかりではない。
 アルコール依存症の人たちになん年かレッスンをしてみて意外に思ったことは、男性、それも中年の力仕事――たとえば大工、トラック運送、建築現場(昔で言えばとび職)――をやってきた人たちで、上半身は驚くほどたくましく筋骨隆々としているのに、案外にハラに力が入らず腰が弱い人が多いことだった。つまりハラで息をしていない。大声は出すが、胸だけの息なので瞬発的で長く続かない。話しことばも、短いセンテンスで息をつぐのでせわしなかったり途切れたり、一般化するにはデータが少なすぎるけれども、男性は一般にハラで息をしているものと決めてかかっていると見当が違うようだと教えられたことだった。

 昔は田んぼの向こうの道をゆく人に呼びかける野良声とか、舟の上で波風の音に負けずに怒鳴る胴間声とか呼ばれる話し声があった。若い頃東北の農村で、家からやっこらしょと出てきた腰の曲がったお婆さんが、いきなり谷をへだてた向かいの崖に「ナニシテルダ、バカモン!ハヤクオリロ!」と怒鳴りつけた声にたまげたことがあった。孫息子が柿の木にのぼっていたのだった。柿の木は折れやすい、アブナイ!と見て取ったとたんに飛び出した大喝だった。その凄まじさ。谷向こうの孫息子はびっくりしてそろりそろりと降り始め、わたしは感嘆したまま婆さまの顔を見つめていた。こういう息の強さで人々は生きていたのだ。「話す」とは、声によって人に働きかけ、相手の行動=存在の仕方を変えることだ。とすれば、まっすぐ歯を開けて息を吐かなくては、声を生み出せず、ことばが芽生えるからだの内なる動きを外への流れへ作り出すことができない。ことばが相手に届く力を生み出せないことになる。

 ことばとは、まず自分の中で生まれるけれども、相手のからだ=存在の地点に至って、はじめて成り立つものだから。

 息が外へ、そして相手に向かっていかなければ話しことばは成り立たない。まっすぐ歯を開けて息を吐いた時、ここに「わたし」が現れるのだ(自分を露わにしないために歯を開けないという姿は先に見た通りだ)

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。


 

「声が生まれる」 話すことへ その3 竹内 敏晴

2016年12月21日 00時06分32秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 話すことへ――つかまり立ち その3 P-28

 息を吐かない人々②――若い女性たちのからだと声

 20代から30代前半にかけての若い女性の中には、人と向かいあうと声が出ない、うまく話せない、と訴える人が少なくない。相手のことばを聞き取るにも余裕がない、怖いのです、と言う。

 レッスンの場でその人たちに会ってみると、その姿勢の特徴の一つは、床に座る時はほとんどが三角座りすることだ。今から10数年前の大学生たちがその頂点だったと思うが、レッスンの場(教室)に入ったとたんわたしは棒立ちになったことがある。ほとんど全員がピタッと壁にくっついて両膝を抱えこみ、長い髪をぱらりと前に垂らしてまるで顔を見せず、俯向いたまま小首を傾けて小指で前髪を横にずらすとその陰からちらと斜めにこちらを見る。動こうとする気配も見せない。問いかけに答えて声を出すと、かぼそくカン高く頭のてっぺんから洩れてくるような声だ。

 (中略)

 膝をそろえて抱え込んだまま息を入れてみれば、腹部は圧迫されて動かせないから、息は胸郭だけを持ち上げてしなければならない。かぼそい息しか入ってこない。三角座りとは、手も足も出せず息さえひそめていなくてはならない。即ちあらゆる表現の可能性を封じ込めてしまう姿勢なのだ。これを無自覚に子どもたちに強制しているのが日本の公立学校教育の、公式に議論されることのない、学童のからだ操作の基盤になっている。

 幼稚園から数えれば15年ばかりもこの姿勢に馴染んだ若い人たち、特に女性には、こうしているのがいちばん落ち着くのですという人が少なくない。このまま立てば、話す時もおなかはペコン。胸は落ち込み背は曲がりっぱなしで、息が出入りしているとも見えない(もちろんこれは、勤める企業の上下関係における礼儀作法に始まる、さまざまな社会慣習に対するかの女の順応全体の姿なのだが、三角座りがその基盤をなしている有様はまざまざと見て取れると思う)

 まずは座り方から気づいてみよう。あぐらか正座(ただし古来の定法のように両膝の間をこぶし一つ空けて)をし、お臍の下に手を当ててぐいと押し、そこに力を入れて固くしてみる。そこをふくらませるように息を入れて、吐く。奥歯をひろげ前歯を開けて、息が、前に立つわたしまでとどくように。これがわたしの行う、息の勢いを取りもどす第一歩だ。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。