民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「アフォリズムとは」 井上 俊夫

2017年01月31日 00時10分32秒 | 備忘録
 「アフォリズムとは」

 アフォリズムとは短く圧縮された簡潔な文章でもって、人生百般に対して鋭い批判や洞察をおこなうもので、好んで皮肉で奇抜で逆説的な表現を用い、時にはユーモアやペーソスで味つけをしたりする。

 「エッセー・随筆の本格的な書き方」所載 井上 俊夫 朝日カルチャーブックス 大阪書籍 1988年

「山が教えてくれた事」 堀 文子

2017年01月29日 00時02分52秒 | エッセイ(模範)
 命といふもの 「サライ」 2012年5月号 第148回 画と文 堀 文子 大正7年、東京麹町生まれ 93歳

 「山が教えてくれた事」 

 山を見ずに育った東京の街育ちの私が、誰に教えられた訳でもないのに、気が付くと山を崇めていた。東北や信州の山々を怖れも知らず、一人で歩く山好きの若者になっていた。高山に隠れ棲み、山気を吸って思索する仙人んも思想に憧れ、栄達の道を捨て、出家遁世を志し脱俗の生涯を生きた西行、芭蕉、良寛を師と仰いだ。

 そうした山中独居の生き方を志しながら、一切のしがらみを断ち切り、東京脱出を実現し、大磯の山裾に棲家を構えたのは50歳に近い春の事。古代日本を覆っていた照葉樹林の原生林の残る山裾に建つこの庵で、私は初めて本物の自然の中での驚きの日々を過ごす事になる。

 山の草木、季節毎に訪れる鳥や虫達の暮らし。遥かに広がる相模の海、東に房総半島、西に伊豆半島。晴れた日には南に伊豆の大島が姿を見せる。街育ちの私には想像も出来ぬ風景と向き合う毎日。物質まみれの都市生活で作られた私の細胞は、大磯の自然の中で力を失ったが、生物としての細胞が蘇った。50を過ぎて、やっと私の望む脱俗への旅の出発点に辿りついたのだ。

 それから10年後、60歳の時に本格的な自然を求めて軽井沢に仕事場を作り、以後30年、私は浅間山麓の広大な自然の中で、山の草木や鳥獣と呼吸を共にした。植物の芽吹き、花を咲かせ、実を結び、居座りもせず、次の命に席を譲る潔さ。自力で巣作りし、雛を育て、吾が子の巣立ちを見届けたあと、何千キロも離れた故郷に立ち去っていく鳥達。

 零下15度にもなる極寒の冬も過ごした軽井沢の山中独居は、私に生きものの掟を教え命の輪廻を見つめさせた修行の道場だった。

 全山の森が紅葉に燃える晩秋、一日の旅を終えた太陽が浅間山の裾に沈む時、浅間高原の大風景が茜に燃えさかる夕映えの、息を飲むあの一瞬を忘れる事は出来ない。夜の闇の中に姿を消して行く浅間の夕映えを描いた此の絵の高灯台草、芒、さらしなしょうま、浅間ふうろ、おみなえし。

 どれも私の好きな花達で、荘厳な落日の儀式に参加した、私の分身のように思えてきた。
 

「書く力は、読む力」 その6 鈴木 信一

2017年01月27日 00時21分31秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その6 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 文章を書くということの中には、「嘘をつく」ということがはじめから折り込まれています。にもかかわらず、事実に忠実になろうとするあまり、失敗する人は多いようです。とくにエッセーというと、見たり聞いたりしたこと、つまり事実を書くものと思っている人が多いのではないでしょうか。しかし、これは間違いです。虚構はあっていいのです。
 人に読んでもらう以上、事実を曲げ、装飾を加え、話を作り込んでいくことは、むしろ礼儀だということです。ラッピングをせず、リボンもかけず、むき出しのまま相手に渡す無礼――、これはぜひとも避けなくてはなりません。P-242

 同僚の美術の先生に聞いた話です。ギリシャ彫刻に躍動感はあるが、蝋人形にはそれないというのです。むしろ死人に見えると。なるほど、そういえば蝋人形はいかにも生彩を欠いています。

「蝋人形にはたとえばマリリン・モンローというモデルがあって、それと比較されてしまうからじゃないですか。その点ギリシャ彫刻はモデルと比べようがないからずるいですよね」

 私がいうと、美術の先生はそうではないといいます。いくら生彩を欠いているといっても、リアリティということでいうなら蝋人形のほうがまさっている。それにギリシャ彫刻のあの手足のバランスでは歩くことさえままならないだろう。にもかかわらず、ギリシャ彫刻のほうが生き生きしていて、蝋人形は死んでいる。
 抽象や捨象がないからだそうです。
 よくいわれることですが、日常会話を録音し、それをそのまま会話文として筆記しても、逆にリアリティは損なわれます。小説にそのまま用いることはできません。どうも、それを同じことのようです。
 大いに強調すべきところを強調し、省くところは省く。ときにはあらぬものをつけ加え、あるべきものを無視する。文章同様、彫刻にもそうした手入れ、いわゆるデフォルメが必要だということなのでしょう。P-243

 

「書く力は、読む力」 その5 鈴木 信一

2017年01月25日 00時04分49秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その5 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年


いい文章をひたすら肌で感じる経験が、一方ではどうしても必要です。文章には、呼吸とか間合いとかいうよりほかにない、測りがたいものがたしかにあるからです。P-186

 とくに書き手の「思い」が曲者です。出来事の描写をいくら精密におこなってもまだ許されますが、「思い」を書き過ぎたときには、人はもうその文章を読まなくなってしまいます。主観を押し付けられた気分になってしまうからです。P-193

「膨らみのある文章」とは、つまり「読み手が想像の世界に遊ぶ余地を残している文章」ということになります。
 書き過ぎれば、読み手の出る幕はなくなります。その文章は字面どおりの意味を表明して終わります。しかし、書かれていないことがあれば、そこには読み手が想像力で補うしかありません。文章は逆に多くのことを語りはじめます。膨らみが生まれるのです。P-201

(例文)今世紀に入って世界はますます混乱をきわめている。しかし、私たちは人類の全英知を集めてこれに立ち向かい、いつか必ず、世界平和を実現しなければならない。

 たとえばこうした文章は、子どもが書いたものというならともかく、大人の書き物としては認めるわけにはいきません。ここには、「書くに値すること」が何も書かれていないからです。
 何か読む以上、私たちはそこに発見を求めます。知らなかったこと、気づかなかったこと。つまり新しさを求めるわけです。だとすれば、書くべきことも決まってきます。自明のものではない、何か新しいこと。それしか書いてはならないのです。
 何を書こうと人の勝手じゃないか。もちろんそのとおりでしょう。手帳に書く。日記をつける。読書ノートをこしらえる。自由にやっていいのです。しかし、人に読んでもらうことを前提に何かを書くなら、話は違ってきます。「世界平和を実現しなければならない」というような、ある意味わかりきった、それでいてどこか絵空事のような話を書くわけにはいきません。P-214

 他人が書いたものを読むというのは、エネルギーの要る仕事です。文の長さ、文の運び、呼吸、言い回し、どれも自分のものと違うわけですから、それに合わせてこちらがチューニングし直さなければなりません。面倒な仕事なのです。
 したがって、よほどうまくやらないと、人に自分の文章を読んでもらうことはできません。


「書く力は、読む力」 その4 鈴木 信一

2017年01月23日 00時06分18秒 | 文章読本(作法)
 「書く力は、読む力」 その4 鈴木 信一(1962年生まれ、公立高等学校に勤務) 祥伝社新書 2014年

 人は誰でも固有の因果律を持っています。発想のパターンが一人ひとり違うのです。別の言い方をすれば、人は身の丈に合った発想しかできないということです。
 ところが、その因果律は破られるときがあります。他者に触れたときです。たとえば、予期せぬ言葉を友人から投げられ、私たちは発想のくびきからふいに解放されたりします。
 ものを読むときも同じです。表現こそは他者なのであって、その他者としての表現に接したとき、私たちはかえって発想の自由を得ます。ちなみに、ここでいう「自由」とは、何でもありの自由ではありません。「固定的な発想から抜け出る」という意味での自由です。(中略)
 私たちは「読み」を自分に都合よくおこないがちです。わかるところだけわかればいい。共感できるところだけ拾えばいい。しかし、これでは自身の因果律を破ることはできません。読書による成長は見込めません。「書きたいことを書くのではない」ということはすでに述べました。「読み」も同じです。読みたいことを読むのではないのです。P-166

 誰かに読んでもらいたい。気づいたことをいってほしい。しかし、その誰かが、しかも他人がちゃんと読んでくれるかはわかりませんし、読んでくれたとしても、正直なことはいってくれません。
 つまらない。日本語がそもそも変だ。そう心では思っても、本音は、二、三の褒め言葉に包んで遠慮がちに届けられるだけです。
 自分の文章は、やはり自分で読むしかないのです。
 純然たる「読者の目」を差し入れることはできないにしても、書いたものを精査することはできます。P-169