民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「成高寺の天狗」 宇都宮の伝説

2013年12月08日 00時24分36秒 | 民話(笑い話・伝説)
 「成高寺の天狗」 宇都宮の伝説 ネットより

 明応9年(1500)第4代の住職に 天英祥禅(てんえいしょうぜん)という書の名人がいた。

 ある夜のこと、住職の夢枕に 一人の老人が 現われて、
「自分は今夜 高原山によじ登り,神仙と揮毫(きごう)する約束を結んだが まだ書法に通じていない。
師はその道の大家と聞いている。
そこで お願いだが、しばらくの間 その腕を貸してはもらえぬか。」と、言った。
貞禅は 最初 なにごとかと めんくらっていたが、なにか わけありげな様子に 承諾すると、
たちまち 右手がしびれて 動かなくなってしまった。

 右手が動かなくなって 不自由をしていたが,三日後の夜、老人が 再び 夢枕に立ち、
「この腕のおかげで 面目を保つことができた。お礼に この寺の守護をして この恩に 報いよう。」
と言って、姿を消すと、動かなかった右手は 再び もとのように 動くようになった。

 このお寺にある天狗の像は この老人の像を刻んだもので、
お寺の守護神として 大切にされているということだ。

「狐の詫び証文」 宇都宮の伝説

2013年12月06日 00時13分27秒 | 民話(笑い話・伝説)
 「狐の詫び証文」 宇都宮の伝説 ネットより

 この話も 成高寺 第4世 天英禅貞禅師の話です。

 当時の成高寺は 女人禁制で、寺男が 寺内の仕事を 全て 行っていましたが、
そのころ、新左衛門という寺男と 二人で 暮らしていました。

 ある時、檀家の法事に出かけ帰ってみると、いつも出向かえてくれる寺男の爺やが 見当たりません。
あちこち さがしまわると、竹やぶの中から 大きなイビキが聞こえるので 
不思議に思って 近づいてみました。
すると、年老いた大狐が 寺男の着物を着て 昼寝をしていました。

 和尚は 夕方に爺やを呼んで、
「爺や お前は 寺のため また わたしのために 大変よく働いてくれました。
しかし 今日 お前の正体を見てしまったので 今日限り 出ていって欲しい。」と、言うと、
狐は 驚いて 涙を流しながら
「今後は 絶対に 正体を見せるようなことはいたしません。
このお寺に仕えてから 私は,楽しい思い出でいっぱいです。
どうか 今まで以上に 一生懸命働きますので、終生 置いてください。」と、頼みました。

 和尚は かわいそうになり、
「それなら 今 言ったことを書いて出しなさい。」と、言って、証文を書かせました。
狐の新左衛門は.死ぬまで 寺のため,和尚のために よく働きました。
そこで 和尚は「新左衛門稲荷」として祀(まつ)り その恩に報いました。

 また その時に書かせた証文は 今でも 成高寺に残されています。

「啓磐禅師の不覚」 宇都宮の伝説

2013年12月02日 00時20分27秒 | 民話(笑い話・伝説)
 「啓磐禅師の不覚」 宇都宮の伝説 

 成高寺9世の啓磐(けいはん)禅師は 宇都宮城主の家臣である君島氏の子でしたが、
名僧として 多くの人々の信頼を受けていました。
禅師は 光明寺を開山する時に、その用材として 明神山の杉の木を伐採しました。
そこで 多くの人々は「明神様の怒りがあるのでは…。」と、言って、うわさしあいました。

 ある日、近くに住む 一人の老夫が、田を耕し 疲れがひどいので 田の畔のところで 
うたた寝をしていると、夢の中に 白衣をつけた社人一人が現われ、
「啓磐和尚は 神木を勝手に伐採しているので 神罰を下そうと思うが、
大変 学職の高い名僧なので、天帝に告げて 梵天王の許しを受けてから 処罰するつもりである。
そこで、今から 天まで使いに行くので 汝の白馬を貸して欲しい。」と、言って、
姿を消したので 急いで家に戻り 厩(うまや)を見ると、
白馬の姿はどこにも見当たりませんでした。

 翌朝、厩(うまや)に行ってみると、白馬が大汗をかいて 息づかいを荒くしていました。
この不思議な出来事を 啓磐禅師に告げると 老夫は気を失ってしまいました。
和尚は「こうなれば 仏の助けを借りる以外に道はない。」と、思って、
それから 昼夜を問わず 勤行に励みました。

 ある雨の日、茶の間で 茶を飲みながら お客さんと 話をしていると 
不覚にも うとうとと 寝入ってしまいました。
すると、その夢の中 装束した者が現われて、
「我は 梵天王の使いの 韋駄天である。汝 勝手に 二荒の神の木を伐り 不屈である。
汝の命を絶つようにと 勅命を受けて釆たが、
汝の身の内に 経文が満ちていて矢を射ることができなかった。今日こそ思い知れ。」と、言って、
一矢射ると その矢が足の甲に当たったところで、夢からさめました。
驚いて とび起き まわりを見回しましたが 誰もいません。
「ついに 心の中にすきをつくり、勤行を怠ってしまった。」と、言って、とても 残念がりました。
しかし そのまま 遷化(せんげ)することができたということです。

 遷化(せんげ)  高僧や隠者などが死ぬこと

「野底マーペー」 沖縄の民話

2012年12月12日 00時13分46秒 | 民話(笑い話・伝説)
 「野底マーペー」 沖縄の民話

 八重山は、沖縄本島から南へ およそ四百キロ、約20の島々からなり、
幾重にも折り重なって見える所から その名前がついたということです。

 今から250年程前、沖縄が琉球と呼ばれ、薩摩に支配されていた頃、
明和の大津波と呼ばれる大津波が押し寄せ、八重山に住む9000余の人々が
被害にあい 十村が半壊、その上 湿地帯の多い石垣島や西表島では マラリヤが発生して
住民のほとんどが亡くなりました。

 薩摩藩に税を差し出さなければならない首里の王府は非常に困ってしまい、
八重山に眠る広大な土地をなんとかせねばならないと思案にくれていました。
ちょうどその頃、石垣島から南に約17キロ離れた黒島では、
島の大きさの割に人口がどんどん増え、1300人余にもふくれあがっていました。

 周囲約12キロの隆起珊瑚礁で出来た山のないこの平らな島は、
水に乏しく稲は作れなかったため、人々は近くの西表島に渡って稲の出作りをして税を納め、
島中が一つになり助け合って暮らしていました。

 ある日、この島に首里王府の役人が急にやってきました。
役人は島の中央の十字路に杖を立て、「この杖で道切(みちきり)をする。
どの方角に倒れても、文句を言わずに石垣の野底に行け。」と命じました。
当時はこの道切の方法で島民を移住させたため、道を隔てて住んでいた仲の良い兄弟、
親子、愛し合う者を一度に引き裂いて、寄せ人として強制移住させられました。

 これまでにも島人は懸命に頼んだことがありましたが、取り合ってもらえず、
役人の命に背くことができませんでした。
村人は息を殺し、杖の倒れる方向を見守りました。
その中に、将来を固く約束しあった気立てのやさしい娘マーペーと
働き者の青年カニムイの姿もありました。

 共同作業の時も、西表への出作りの時も二人は片時も離れることなどありませんでした。
杖の倒れ具合で共に島に残れるか、さもなければどちらかが野底へ行かなければなりません。

 ところが、その杖はマーペーとカニムイとを引き裂くように道を挟んで
向かいあう二人の家の間の道の方に倒れました。
こうしてマーペーは島を離れなければならなくなりました。

 野底は石垣島の裏手にあり、水は豊富で土地は肥えているものの住む者もいない
密林地帯で、野底へ移った400人余の黒島の人々は、木を切り、家を建て、荒れた土地を耕しました。
目の前に見えるのは果てしなく広がる東シナ海、後ろには標高およそ280メートルの険しい野底岳、
黒島は山の陰となり見ることもできません。

 マーペーは、いつか黒島に帰れる、カニムイが迎えに来てくれる、
そう信じてくる日もくる日も一心に働き続けました。
しかし、寄せ人で移された者はどんなことがあっても決して元の島に帰ることができませんでした。

 七夕の夜には、ウヤキ星(彦星と織姫)でさえ会えるのにと、
マーペーは夜空を仰ぎながら、カニムイへの思いを募らせていました。
今まで誰も住んでいなかった野底は、緑豊かに作物もだんだん実りだしてきました。

 ところが、夏の暑さが激しくなり始めた頃から高熱と寒気が繰り返し襲い、
だんだん痩せ衰え死んでいく風土病マラリヤにかかる人が増えました。
そしてマーペーも発熱して倒れてしまいました。
なんとか悪い病気を振り払い、村を明るくしようと人々は、生まれ島黒島の歌を歌い、
祭りを行うことにしました。

 祭りの夜、三味線や歌が聞こえてくると、マーペーは幼い頃、
祭りの日に過ごしたカニムイとのことが思い出され、いてもたっていられず、
こっそり村を抜け出しました。
「あの野底岳に登ればカニムイの住む黒島が見える。」
マーペーは、熱で震える体を自ら励まし、転んでは起き、起きては転びながらも、
一歩一歩草に木に岩にしがみつき、必死に登りました。

 険しい岩山をやっとの思いで登りつめたマーペーは野底の頂に立ちました。
息を切らせ南の方に目をやったマーペーは、愕然として座り込みました。
目の前には標高520メートル、沖縄最高峰の大本岳(おもとだけ)がたちはだかり、
島影すら見えることはできません。マーペーは手を合わせ、ただ祈りつづけました。

 翌朝、村では姿の見えないマーペーに気づき、必死で探し回りました。
日頃、黒島が見たいと口癖のようにマーペーが言っていたので、
もしやと思い両親や村人は野底岳へ急ぎました。

 ちょうど山の頂に来た時、手を合わせ黒島を向いて祈るかのように立っている
不思議な石を見つけました。
それを見た村人たちは、「チィンダラサーマーペー(可哀相なマーペー)。
殿原と思い枝葉を伸ばして黒島を眺めよ。」とまるでマーペーに語るかのように
その石の隣に松を植えました。

 その松は殿原松と呼ばれ、大本岳より高く黒島の方へその枝を伸ばし、
それからこの山は野底マーペーと呼ばれるようになりました。
  
  とぅばらまとぅばんとぅや(あなたと私は)
  やらびから遊とぅら(幼い頃からの遊び友達でした)
  かぬしゃまとぅくりとぅや(おまえと私とは)
  いみしゃからむちりとぅら(幼い頃からの親しい仲でした)
  天からぬぴきめうるオヤキ星で(天上を渡るオヤキ星は)
  いそかやならぶれば定めうり(夫婦の仲が定められて)
  いかゆんでどしかりるとばらまと(一年に一度行き会う)
  ばんとやふれさたいかひみゆな(私達は会うこともできない)

  今もマーペーの故郷の黒島では、
この悲しいマーペーのことをチンダラ節として歌いつづけています。


 当民話は、沖縄国際大学文学部 遠藤庄治教授のご厚意により掲載させて頂いております。
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