民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「私と小鳥と鈴と」 金子みすゞ 

2015年05月19日 00時43分02秒 | 名文(規範)
 「私と小鳥と鈴と」 金子みすゞ 1903年(明治36年)~1930年(昭和5年)満26歳没

 私が両手をひろげても、
 お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のように、
 地面(じべた)を速く走れない。

 私が体をゆすっても、
 きれいな音はでないけど、
 あの鳴る鈴は私のように、
 たくさんな唄は知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私、
 みんなちがって、みんないい。

「雨傘」 川端康成

2014年12月10日 09時28分55秒 | 名文(規範)
 「雨傘」  「掌の小説」より  川端康成  (昭和7年3月) 38~40頁

 濡れはしないが、なんとはなしに肌の湿(しめ)る、霧のような春雨だった。
表に駈け出した少女は、少年の傘を見てはじめて、
「あら。雨なのね?」
 少年は雨のためよりも、少女の坐っている店先きを通る恥かしさを隠すために、開いた雨傘だった。
 しかし、少年は黙って少女の体に傘をさしかけてやった。少女は片一方の肩だけを傘に入れた。少年は濡れながらおはいりと、少女に身を寄せることができなかった。少女は自分も片手を傘の柄に持ち添えたいと思いながら、しかも傘のなかから逃げ出しそうにばかりしていた。
 ふたりは写真屋へ入った。少年の父の官吏が遠く転任する。別れの写真だった。
「どうぞおふたりでここへお並びになって。」と、写真屋は長椅子を指したが、少年は少女と並んで坐ることができなかった。少年は少女のうしろに立って、二人の体がどこかで結ばれていると思いたいために、椅子を握った指を軽く少女の羽織に触れさせた。少女の体に触れた初めだった。その指に伝わるほのかな体温で、少年は少女を裸で抱きしめたようた温かさを感じた。
一生この写真を見る度に、彼女の体温を思いだすだろう。
「もう一枚いかがでしょう。お二人でお並びになったところを、上半身を大きく。」
 少年はただうなずいて、
「髪は?」と、少女に小声で言った。少女はひょいと少年を見上げて頬を染めると、明るい喜びに眼を輝かせて、子供のように、素直に、ばたばたと化粧室へ走って行った。
 少女は店先きを通る少年を見ると、髪を直す暇もなく飛び出して来たのだった。
海水帽を脱いだばかりのように乱れた髪が、少女は絶えず気になっていた。しかし、男の前では恥かしくて、後毛を掻き上げる化粧の真似もできない少女だった。
少年はまた髪を直せということは少女を辱めると思っていたのだった。
 化粧室へ行く少女の明るさは、少年をも明るくした。その明るさの後で、二人はあたりまえのことのように、身を寄せて長椅子に坐った。
 写真屋を出ようとして、少年は雨傘を捜した。ふと見ると、先きに出た少女がその傘を持って、表に立っていた。少年に見られてはじめて、少女は自分が少年の傘を持って出たことに気がついた。そして少女は驚いた。なにごころないしぐさのうちに、彼女が彼のものだと感じていることを現わしたではないか。
 少年は傘を持とうと言えなかった。少女は傘を少年に手渡すことができなかった。けれども写真屋へ来る道とはちがって、二人は急に大人になり、夫婦のような気持で帰って行くのだった。傘についてのただこれだけのことで・・・。



「自分の感受性くらい」  茨木 のり子

2014年07月07日 00時03分23秒 | 名文(規範)
 「自分の感受性くらい」  茨木 のり子 

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

「倚(よ)りかからず」  茨木 のり子

2014年07月05日 00時22分43秒 | 名文(規範)
 「倚(よ)りかからず」  茨木 のり子 (73才の作品)

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

「宮本武蔵」 吉川 英治

2014年03月15日 00時31分59秒 | 名文(規範)
 「宮本武蔵」  吉川 英治

 「(略)―――いざ来いっ、武蔵!」
 いい放った言葉の下に、巌流は、鐺(こじり)を背に高く上げて、小脇に持っていた大刀物干竿を、
ぱっと抜き放つと一緒に、左の手に残った刀の鞘を、浪間へ、投げ捨てた。

 武蔵は、耳のないような顔をしていたが、彼の言葉が終わるのを待って―――そしてなお、
磯打ち返す波音の間(ま)を措(お)いてから―――相手の肺腑へ不意にいった。

「小次郎っ。負けたり!」
「なにっ」
「きょうの試合は、すでに勝負があった。汝の負けと見えたぞ」
「だまれっ。なにをもって」
「勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てむ。―――鞘は、汝の天命を投げ捨てた」
「うぬ。たわ言を」
「惜しや、小次郎、散るか。はや散るをいそぐかっ」
「こ、来いッ」
「―――おおっ」

 答えた。
 武蔵の足から、水音が起こった。
 巌流もひと足、浅瀬へざぶと踏みこんで、物干竿をふりかぶり、武蔵の真っ向へ―――と構えた。