民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「葬式は、要らない」 その12 島田 裕巳

2017年07月31日 00時38分07秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その12 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 世間体が悪いという感覚 P-73

 「世間体が悪い」という言い方があり、それは、自分の行動が世の中からどのように見られているのかということと深く関係する。世間体が悪い行為は、恥ずかしいものと考えられ、日本人は絶えず世間体を気にしている。そうした意識がもっともよくあらわれるのが、葬式である。

 世間体の背後には世間があり、それは、その人間が生活を送る狭い範囲での人間関係を指している。それは、国や社会といった広い範囲での人間関係とは区別されるが、日常的により重要なのは世間のほうである。

 葬式では、この世間や世間体ということが顔を出す場面が多い。たとえば、布施や香典の「相場」というものに、それがあらわれている。

 布施や香典は、あくまでそれを行う側の気持ちによるとされてはいるものの、もっとも重視されるのは、自分がいくら出したいか、あるいは出せるかではなく、他人がいったいいくら出しているかである。

 他人に比べてその額が少なすぎれば、世間体が悪くなる。逆に、多すぎても、それは自分を世間の評価よりも高く見せようとする「分不相応」な振る舞いとして受け取られる可能性がある。それも、世間体はよくないのである。

「葬式は、要らない」 その11 島田 裕巳

2017年07月29日 00時08分22秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その11 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 浄土を模した祭壇 P-67

 こうして葬式と仏教の結びつきは、葬式を華美で贅沢なものにするきっかけを与えた。葬式が最初から神道と結びついたのなら、それは質素なものにとどまったであろう。ところが、仏教では、死者が赴く浄土の世界を、徹底して豪華で美しいものに描き出す志向があった。その影響で、葬式が派手で贅沢なものになっていったのである。

 浄土をそのまま地上に実現しようとしたのは、平安貴族である。平安貴族は、自分たちが実現した豊かで贅沢な暮らしが死後にも持ち越されることを願い、死後の世界を並外れて豊かなものに描き出していった。

 葬式のとき、もっとも費用がかかるのが祭壇である。その祭壇は、浄土を模したものだと言われる。白木の祭壇に代わって、花で祭壇を作ることも多くなったが、やはりそこには死者が赴く浄土の世界のイメージが投影されている。

 庶民は阿弥陀堂を建てることもできなければ、まして浄土式庭園を造ることもできない。葬式の祭壇には、せめて浄土に近づきたいと思う庶民の願望が示されているのである。


「葬式は、要らない」 その10 島田 裕巳

2017年07月27日 00時02分33秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その10 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 禅宗からはじまる仏教式の葬式 P-66

 『禅苑清規(1103年に中国の宋で編集された書物)』が定めた葬式の作法は、「尊宿(そんしゅく)葬儀法」と「亡僧(ぼうそう)葬儀法」に分かれる。前者がすでに悟りを開いた僧侶のための葬式の方法であるのに対して、後者は、修行の途中で亡くなった僧侶のためのものだった。
 修行の途中にあるということは、完全な僧侶であるとは言えず、その立場は在家に近い。そこで、 亡僧葬儀法を在家の信者にも適用した。これによって、亡くなった在家の信者をいったん出家したことにし、出家者の証である戒名を授けるという葬式の方法が確立される。

 ただ、念仏を唱えるだけであれば、特別な儀式は必要とされない。ところが、禅宗において、在家のための葬儀の方法が確立され、それが日本の社会全体に広がることによって、日本的な仏教式の葬式の基本的な形態がうまれた。こうして仏教は死の世界と密接な結びつきをもつにいたったのである。


「葬式は、要らない」 その9 島田 裕巳

2017年07月25日 00時17分06秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その9 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 日本仏教を席捲した密教 P-57

 日本仏教の歴史において、一つ注目すべきことがある。それは中国の影響である。日本は最初、朝鮮半島から仏教を取り入れたが、それ以降も、朝鮮半島に仏教を伝えた中国から直接、新しい仏教の潮流を摂取するようになる。

 (中略)

 当初、日本人が中国から取り入れたのは、学問の性格が強い仏教である。それが、いわゆる「奈良仏教」で、奈良時代、都に建てられた各寺院では、仏教理論の研鑽が行われた。(中略)

 次に輸入されたのが密教である。密教は、修行や儀礼を通して僧侶が神秘的な力を身につけ、それを用いて国家の安泰を願い、疫病や天変地異などの災厄を取り除き、祟りを抑え、個人の病を癒すことを目的とした。密教は、そうした意味で、現世利益をもたらす力をもつ。そのため日本人は密教に飛びつきそれを大いに歓迎した。すぐに密教は日本の仏教界を席巻する。

 密教では、現実の世界のほかにさまざまな世界が存在することが説かれた。曼荼羅に描かれる世界もそうだが、密教で信仰される仏は、千手観音や不動明王などどれも異形の存在で、そうした仏がいる異界の存在が前提にあった。密教の信仰を受け入れることは、現実とは別にさまざまな異界が存在するという新しい世界観を受け入れることを意味した。

「葬式は、要らない」 その8 島田 裕巳

2017年07月23日 00時02分20秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その8 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 墓の無縁化と永代供養墓 P-42

 (前略)

 墓地は販売せず、使用料をとって貸し出すかたちとなる。ただ貸出期間が長期にわたって設定されていて、「掃除料」などの名目で使用者が金を支払い続けるかぎり、そこを自分の家の墓として長期にわたって専有できる。
 逆に、掃除料が滞り、さらには参拝し管理する人間がいなくなれば、その墓は「無縁化」する。その点で、一般の墓は祭祀を継続する後継者の存在を前提とする。つまり家に跡継ぎがいなければ墓は守り続けられないのである。

 そこが墓の特殊なところで、墓には、それを守る子孫が必要になる。ところが、どの家にも跡継ぎが生まれるわけでゃない。たとえ子どもがいても、女の子ばかりだと他家に嫁いでしまい、墓が無縁化する可能性が出てくる。
 永代供養は、核家族化が進み、後継ぎのない家が増えたことで生まれた供養の形態である。墓を求める際に、永代供養料として一定の金額を支払うことで、たとえ墓守となる跡継ぎがいなくても、寺が命日に読経するなど供養を続けてくれるのである。