民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「一人ゼリフの凄い効きめ」 鴨下 信一

2015年10月30日 00時10分01秒 | 文章読本(作法)
 「会話の日本語読本」  鴨下 信一 著  文春新書 文藝春秋 2003年 

 「一人ゼリフの凄い効きめ」 主張・説明・報告など不得手な場面で日本人はどう工夫したか

 演劇にしても映画にしてもテレビ・ドラマでも<ドラマの中では常に会話が交わされている>
とあなたが思っているとしたら、それはとんだ早合点だ。
物事はそう簡単ではない。
 たしかにドラマの中では会話が交わされる。
交わされるという言葉が使われるくらいだから複数の人物が、たがいに話をやりとりする。

 「一人ゼリフは独白(モノローグ)とはちがう」

 でも、ドラマを見慣れた人はよく知っている。
ドラマが山場、クライマックスにくると、一人が、一人だけが喋って他の人は黙ってしまう。
これが通例で、たしかにドラマは会話によって進行するが、
実は肝心のところになると会話は忘れられてしまう。
その代わり登場するのが<一人ゼリフ>である。

 一人ゼリフは独白(モノローグ)や傍白(アサイド)とはちがう。
どちらも他人に知られぬ内心を口に出して(観客だけに)教えるドラマ技法で、
傍白は舞台に他の登場人物はいるのだけれどもその人たちには聞こえない設定で、
その間ドラマの進行時間は止まる。
独白のほうは、基本的には舞台に他の人物はなく、時間の進行は止まらないのが原則だ。
しかし、一人ゼリフはこれらとは違う次元にある。

 一人ゼリフにあっては、ほかの登場人物はもちろんいる。
聞こえてないわけでもない。
しかし、口をはさまない。
セリフを言う本人も、相手に喋っている以上に自分に喋っている。
だから会話はあるのだけれども、会話が交わされているわけではない。

「エセー」(一) モンテーニュ 

2015年10月28日 01時08分10秒 | 文章読本(作法)
 「エセー」(一) モンテーニュ 著  原 二郎 訳  ワイド版 岩波文庫 1991年

 「読者に」

 読者よ、これは正直一途の書物である。はじめにことわっておくが、これを書いた私の目的はわが家だけの、私的なものでしかない。あなたの用に役立てることも、私の栄誉を輝かすこともいっさい考えなかった。そういう試みは私の力に余ることだ。私はこれを、身内や友人たちだけの便宜のために書いたのだ。つまり彼らが私と死別した後に(それはすぐにも彼らに起こることだ)、この書物の中に私の生き方や気質の特徴をいくらかでも見いだせるように、また、そうやって、彼らが私についてもっていた知識をより完全に、より生き生きと育ててくれるようにと思って書いたのだ。もしも世間の好評を求めるためだったら、私はもっと装いをこらし、慎重な歩き方で姿を現したことであろう。私は単純な、自然の、平常の、気取りや技巧のない自分を見てもらいたい。というのは、私が描く対象は私自身だからだ。ここには、世間に対する尊敬にさしさわりがない限り、私の欠点や生まれながらの姿がありのままに描かれてあるはずだ。もしも私が、いまでも原始の掟を守りながら快適な自由を楽しんでいるといわれるあの民族の中に暮らしているのだったら、きっと、進んで、自分を残る隈なく、赤裸々に描いたであろう。読者よ、このように私自身が私の書物の題材なのだ。あなたが、こんなにつまらぬ、むなしい主題のためにあなたの時間を費やすのは道理に合わぬことだ。ではご機嫌よう。

 モンテーニュにて。1580年3月1日。

「ネット通販」 マイ・エッセイ 16

2015年10月26日 00時06分03秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「ネット通販」
                                            
 今までいろいろな趣味に手を出し、さまざまな習い事に首を突っこんできた。そして、そのたびにあっちこっちの本屋に顔を出しては、入門書や上達本を買いあさった。
 凝り性なのか、負けず嫌いなのか、人に聞いたり、教わったりするのがイヤな性質なのだろう。からだで覚えるより、本を読んで覚えるやり方をずっと通してきた。
 小遣いのほとんどは本代に消えていった。
 現役を退いてからは、自由になる金も少なくなり、もっぱら図書館を利用するようになる。読書の幅が段違いに広がり、量も桁違いに増えた。  
 パソコンでキーワードを検索する。関連本が(こんなにあるのか)と驚くくらい出てくる。市にある全部の図書館がわたしの書庫のようなものだ。その中から、インターネットで調べて、よさそうな本を選んで予約する。図書館で本を探すことはほとんどない。
 借りてきた本が、ハズレでつまらなければ読まないし、アタリでおもしろければ読む。そんな読み方を五、六年続けてきた。
 ところが、つい最近のこと、とうとう禁断の果実を口にしてしまった。
 中古本のインターネット通販だ。
 たいがいの本が一円で買えてしまう。配送料が別にかかるが、それでも三百円でお釣りがくる。その安さに自制心を失って、買いまくるようになった。
 わたしは本を読むとき、できれば赤鉛筆で線を引いたり、書き込みをして読みたい。図書館の本ではそれができない。それで気に入った本はつい買ってしまう。
 どうせ買っても、また捨てるだけじゃないか。だいぶ前に、買い集めた本を大量に処分したことを思い返し、注文をためらう。そんな時は(コーヒー一杯飲んだつもりで)と言い聞かせ、(エイッ)と決心をつける。 
 せっかくすっきりした本棚に、また本がたまっていくのを見て、自分に問いかける。 
 コーヒーは飲んでしまえばそれで終わり、あとが残らない。本も同じようになぜできない。
 一度読んでしまえば、どんなにいい本だって、すぐには読まない。捨ててしまえ。捨てられないんだったら買うな。また読みたくなったら、コーヒーをお代わりするように、また買えばいいじゃないか。


「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その3 林 望

2015年10月24日 00時16分22秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その3

 また、薄化粧、と言うけれど、どこまでが薄化粧で、どこからが厚化粧かなんてことは、あげて各人の主観であって、女のほうでは薄化粧のつもりでも男から見れば十分に厚化粧であるということも珍しくない。
 あの拒食症という精神の病を想起せよ。あれは、客観的には、だれが見ても「ひどく痩せている」としか見えないのに、本人だけは、「肥っている」というふうに自己評価をするのだそうである。だから、初めは薄化粧のつもりでもだんだんと厚くなっていって、しまいには、誰が見ても「厚顔無恥」的厚化粧にしか見えないのに、本人はなお「薄化粧でまだ足りない」と評価しているということになりかねない。
 だから、私の意見は、化粧は「薄いか厚いか」という選択ではなく、「するかしないか」という選択しかあり得ないということである。これが論理的に正当な判断で、それを程度の問題に帰するのは、「ごまかし」である。
 つまるところ、たとえば、たばこを吸う人が、禁煙しろと言われて、「本数を減らしました」と言い訳しているようなものなのだ。一日二十本以上ならヘビースモーカー、なら、ちょっと減らして一日十八本にしたから大丈夫だろう、とそういうことを言っているのに等しいというふうに言わざるを得ないのである。
 だから、そこから当然に第二の問題も論じ及ばれる。
「清潔できちんとした」という表現のなかには、ただに、外面が清潔であってというだけのことでなく、内面の清潔さ、言いかえれば、自己を直視し、自己を受容し、真剣に等身大の己をもって他人と対峙して生きる「潔さ」が含まれる。
 自分をごまかそうとしてはいけない、とそこがすべての出発点である。
 色が黒いなら黒い、白いなら白い、しわだらけならしわだらけで、そういうすべての自己というものを、もしあなたが、真面目に真剣に力を尽くしていままで生きてきたのであれば、なにら「隠す」ことは必要のない道理だ。そうではないか。

「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その2 林 望

2015年10月22日 00時10分57秒 | エッセイ(模範)
 リンボウ先生から「女たちへ! 」  林 望  小学館文庫 2005年

 「世の中に絶えて化粧のなかりせば」 その2 

 まず上品なる薄化粧の場合について論じる。
 私の意識の中では、地肌がすっかりファウンデーションというもので塗りつぶされているようなのは、まずもって「論外」なのである。
 それが、「真っ白」であれ、「明るい肌色」であれ、あるいは黒っぽさを強調するような色であれ、その形而上的な意味は変わらない。それをひとことで言えば、「自分の顔色の否定」である。即ち、色黒だから白く塗るということはその地肌が黒いというありのままの自己を受容できない意識であるということである。しわが多くなったからそれを塗りつぶして平らにするということは、その年を重ねてしわの目立つようになった自己をさながら認めたくないということである。
 これを、男の世界に移してみれば、たとえば、頭髪が禿げたからカツラをのっける、というようなことだ。カツラをのっけたとて、それで「禿げている自己」を消すことはできない。ただ文字通りの糊塗策弥縫(びほう)策であるにすぎない。女の人たちから見て、どうだろう、たとえば、もう真ん中が禿げてしまった中年男が、その禿げたところを隠そうとして脇のあたりからよいしょと髪を持ってきて、まるでフタでもするように反対側の脇まで延ばしておく、いわゆる「一九分け」みたいなのや、あきらかにそれと分かるカツラをのっけているのを見て、なんだかいじましいという感じを持つことがないだろうか。
 反対に、たとえば、評論家の三宅久之さんのように、天気晴朗、さっぱりと禿げて、美しく手入れされた顔を見たときに、「禿げておかしい」と思うだろうか。すくなくとも私は、「一九分け」や「カツラのせ」よりは、三宅久之さんの頭の「潔さ」を美しいと感じる。それは、ありのままの自分を妙な方策で隠したりせず、そんなことにこだわらない堂々たる人生を、その潔さの中から感じ取るからである。
 この意味で、女の厚化粧は、男の「一九分け」「カツラのせ」に匹敵する「自分隠し」であって、それはつまり、潔くないと感じざるを得ないということなのである。