民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「仰臥漫録―解説」その1 嵐山 光三郎

2014年09月29日 00時37分44秒 | 雑学知識
 「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」 正岡子規 著  角川ソフィア文庫 平成21年

 「仰臥漫録―解説」その1 嵐山 光三郎

 子規の晩年の随筆には『松蘿玉液(しょうらぎょくえき)』『墨汁一滴』『病牀(びょうしょう)六尺』の三冊があり、いずれも新聞「日本」に掲載された。 『仰臥漫録』は公表するつもりのない病床の目録であって、本来なら読んではいけない秘密事項を読むことに痛みを感じる。それでも、読みはじめると子規の逆上する気力に張り倒される。
 『墨汁一滴』が新聞「日本」に連載されたのは明治34年1月16日から7月2日までの164回である。
『病牀六尺』は明治35年5月5日から、死の二日前の9月17日までの127回である。
 『墨汁一滴』の連載が終わって二ヶ月たったあたりから、この目録は書きはじめられた。「五体すきなしという拷問」を受けながら、なにか書かずにはいられない。つぎの『病牀六尺』まで十ヶ月ほどの時間があった。『病牀六尺』がはじまると、日記はしばしとだえ、『麻痺剤服用日記』にきりかえられた。
 『病牀六尺』は「病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外まで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるような事がないでもない。」(新字新仮名遣いに改めて引用)で始まる読む人を意識した随筆で、捕らわれた肉体を強靭な精神が克服する格闘の記録である。読者の心を震えさせるが、その舞台裏の凄絶さは、『仰臥漫録』に、あたかも自己啓発のような記録として残されている。
 すさまじい食欲である。
 三度の食事と間食と服薬とカリエス患部包帯の交換の繰り返しのなかで、食いすぎて吐き、腹が痛むのに苦悶し、歯ぐきの膿を出してまた食い、便を山のように出す。
 病床のうめき声が、油枯れの肉体から、木枯らしのようにひゅうひゅうと響いてくる。生死のはざまで食う「餓鬼」としての自分の肉体を観察している。人間の欲の根源のなかに瀕死の肉体をほうりこんだ。

「仰臥漫録」 正岡子規 

2014年09月27日 00時13分35秒 | 雑学知識
 「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」 正岡子規 著  角川ソフィア文庫 平成21年

 (明治34年)10月26日 晴 

 「この頃の容体及び毎日の例」 P-130

 病気は表面にさしたる変動はないが次第に体が衰えて行くことは争われぬ。膿の出る口は次第にふえる、寝返りは次第にむつかしくなる。衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寝て居るようなことが多い。
 腸骨(ちょうこつ)の側に新たに膿の口が出来てその近辺が痛む、これが寝返りを困難にする大原因になって居る。右へ向くも左へ向くも仰向けになるもいずれにしてもこの痛所を刺激する、咳をしてもここにひびき泣いてもここにひびく。
 包帯は毎日一度取り替える。これは律(子規の妹)の役なり。尻のさきももっとも痛くわずかに綿を以って拭うすらなお疼痛を感ずる。背部にも痛き箇所がある。それ故包帯取替えは余に取っても律に取っても毎日の一大難事である。この際に便通ある例で、都合四十分ないし一時間を要する。
 肛門の開閉が尻の痛所を刺激するのと腸の運動が左腸骨辺の痛所を刺激するのとで便通が催された時これを猶予するの力もなければ奥の方にある糞をりきみ出す力もない。ただその出るに任するのであるから日に幾度あるかも知れぬ。従って家人は暫時も家を離れることが出来ぬのは実に気の毒の次第だ。
 睡眠はこの頃善く出来る。しかし体の痛むため夜中幾度となく目をさましてはまた眠るわけだ。
 歯茎から出る膿は右の方も少しも衰えぬ。毎日幾度となく綿で拭い取るのであるが体の弱って居る日は十分に拭い取らずに捨てて置くこともある。
 物を見て時々目がちかちかするように痛むのは年来のことであるが先日逆上以来いよいよつよくなって新聞などを見るとすぐに痛んできて目をあけて居られぬようになった。それで黒眼鏡をかけて新聞を読んで居る。
 朝々湯婆(たんぽ)を入れる。熱出ぬ。小便には黄色の交わり物あること多し。
 食事は相変わらず唯一の楽しみであるがもう思うようには食われぬ。食うとすぐ腸胃が変な運動を起こして少しは痛む。食うたものは少しも消化せずに肛門へ出る。
 さしみは醤油をべたとつけてそれを飯または粥の上にかぶせて食う。
 佃煮も飯または粥の上に少しずつ置いて食う。
 歯は右の方にて噛む。左の方は痛くて噛めぬ。
 朝起きてすぐ新聞を見ることをやめた。目をいたわるのじゃ。人の来ぬ時は新聞を見るのが唯一のひまつぶしじゃ。
 食前に必ず葡萄酒(渋いの)一杯飲む。クレオソートは毎日二号カプセルにて六粒。

「必読書」 森本 哲郎

2014年09月25日 00時14分24秒 | エッセイ(模範)
 「老いを生き抜く」長い人生についての省察 森本 哲郎(毅郎の兄)1925年(大正14年)生まれ

 「必読書」 P-46

 前略

 時代は変わった。いまは必読書という言葉すら、あまりきかれなくなってしまった。いったい、現代日本人の「教養」の条件は何なのだろう。
 いつの世にも教養を身につけるための必読書があった、と私は言ったが、それをきめたのは、その時代時代の知的な雰囲気、いわば文化的、思想的環境だった。その知的、文化的な装置が、いまや、まったく取り外されてしまったように私には思われる。情報化社会といわれる現代の世の中では、ただ、技術的な思考、情報的な知識だけがまかり通っている。教養の条件どころか、教養そのものが無視されているのだ。「教養学部」が姿を消した大学も多々ある。

 教養を問われないとは、なんと気楽なことだろう。現代の若者たちは必読書の山から解放され、その気楽さのなかで存分に羽を伸ばしているようだ。が、同時に「筆紙(ひっし)につくい難い」という感激も失ったのではなかろうか。

 たしかに、日本人の教養の条件は厳しい。必読の書といって、まず読まされるのは哲学、文学書であり、社会思想、人文科学、自然科学のテキスト、さらに、中国の古典、そして日本の諸文献と、二重三重の枠を突破せねばならない。自国の文化を知るためには、より多くの書物に接する必要がある。それをひと通りわきまえたうえで、やっと「教養人」の資格を得られるのであるから。これが日本の「教養人」に課せられた宿命といっていいだろう。日本人は教養を身につけるために、他国人より二倍も三倍も努めねばならないのだ。そして、そのあげく、自国文化の認識が一歩遅れてしまう。これこそ輸入文化国の悲劇、あるいは喜劇であろう。

 しかし、こうした「教養主義」のおかげで、日本人の知的水準は世界でも高い地位を保ってきたのではあるまいか。それが今後、「教養主義」の没落とともに下落していくだろうことは、充分に予測できる。日本のアメリカ化がそれに拍車をかけてきた。日本は努力目標を放擲(ほうてき)したのである。

 だが、改めて個人の生涯設計について考えたとき、何より問題となるのは、教養の無視が老後に及ぼす影響である。無教養では、老境の憂さにとうてい太刀打ちできない。前にも述べたように、「教養主義」とは学問、芸術を身につけ、自己の人格を高めていこうとする理想主義である。その教養が老年期に威力を発揮するのだ。それは生きる目標を設定する能力を保証してくれ、そのための手段を考える力を与えてくれるからである。

 後略


「教養の道」 森本 哲郎

2014年09月23日 01時10分20秒 | エッセイ(模範)
 「老いを生き抜く」長い人生についての省察 森本 哲郎(毅郎の兄)1925年(大正14年)生まれ

 「教養の道」 P-35

 前略
 
 「教養主義」とは、学問・芸術を身につけ、自己の人格を高めていこうとする理想主義である。きわめて当然な考え方であるが、明治がヨーロッパ文化を無条件に受容しながら、その生き方の根底に儒教的な「修養」を据えていたのに対し、大正期になると、西洋思想に対してはいくぶん批判的に摂取しつつ、その基礎を個人の人格に置き、みずからの向上に努める「教養」へと変わっていった。

 中略

 大正の教養主義はスノビズム(紳士気取り)などと冷笑されたりもしたが、人生を考え、人格の向上をめざそうとするそのひたむきな努力は、それなりに評価してしかるべきであろう。
 ケーベルから、漱石とその門下生へ引き継がれて、「教養主義」は大正の日本社会にしだいに定着していった。人間の生き方について煩悶し、反省する―――それに対する解答として、漱石の作品をはじめ、前記の著作などが若い読者をとらえたのである。それは、昭和の戦前まで生きつづけることになる。

 昭和十二年に出版されてベストセラーになった島木健作の『生活の探求』は、その延長線上にある。この小説は、題名どおり、自分の生活の反省から郷里の香川県に帰り、農民として生き抜こうとする若者を描いたものだ。彼をそう決意させたのは、東京での学生生活、都会での浮華(ふか)な人生に懐疑的になり、もっと真剣に生きたいという新しい生活への希求であった。むろん、現代でもこうした青年がいないわけでもあるまい。だが、この小説の主人公のように、どのような生活が人間的であるのかを情熱的に問い詰める人間は、もう、あまり見られなくなったのではあるまいか。

 むろん、当時、すなわち昭和十二年のころと現在とでは、社会環境がまるでちがう。生活の風景も、すっかり変わっていよう。けれども、自分に忠実に、人間的に生きたいという熱望は、おなじようにあるはずだ。が、昨今では、要領よく人生を切り抜ける技術的な、そして功利的な即答のノウハウがふんだんに提供されている。じっさい、あまりにも多くの知識を、たんなる情報として受け取るようになった現代人は、それだけわけ知りになり、器用に順応し、かつてのように素朴に「生活の探求」を試みることをしなくなった。大正の教養主義は戦争を境に断絶してしまったといえよう。

 だが、私たちが心すべきは、改めて「教養主義」と取り組むことではないのか。なぜなら、人生の悩みは、技術的な処理によっては一向に解決されないからである。人間的に生を充実させる―――そのために必要なのは、やはり、ひとりひとりの人格を支える「教養」なのである。

 中略

 私は、「教養」を、「他から教えられ、自ら養うこと」と定義する。他から教えられる、とは、すなわち、学ぶことにほかならない。孔子が六十歳を「耳順(じじゅん)」、耳したがう、といったのは、まさに還暦のこの年にして謙虚に、人の説得を受けよ、ということではあるまいか。

 このように、人生とは「教養」の道を、ひたすら歩んでゆくことなのである。

「五十歳」 森本 哲郎

2014年09月21日 00時26分22秒 | エッセイ(模範)
 「老いを生き抜く」長い人生についての省察 森本 哲郎(毅郎の兄)1925年(大正14年)生まれ

 「五十歳」 P-29

 前略

 新聞記者というのは、報道にたずさわる職業である。それはそれなりに貴重な体験を私に与えてくれたのだが、新聞記事を書くということは、文章から徹底的に「私」というものを抹殺することだ。報道は、あくまで客観的でなければならない。だから文章から主観である「私」を取り除いて、冷静に事実そのものを伝えねばならぬ。当然の話である。その使命の大切なことも、私は充分承知していた。だが、私はそのような「報道」といういわば「無私」の文章を書きつづけるのがいやになってしまったのである。そして、もっと自由に「私」を表現してみたい、「私のいる文章」を書きたいと思って、記者生活を打ち切ることにしたのだった。

 中略

 さきに述べたように、私は新聞記事という客観的な「無私」の文章を書きつづけるのに耐えられなくなり、もっと自由に「私」を表現したいと思って新聞社をやめたのだが、私が愕然としたのは、「私のいる文章」を書くのが、いかにむずかしく困難であるか思い知らされたことだった。「私のいる文章」とは、「私は・・・・・と思う」という形の文章である。

 これは、一見たやすいように思えるが、途方もなく苦労を強いる作業なのである。私は小学生のころから、それを知っていたはずだ。作文の時間に、先生から「自分の思ったとおりに書きなさい」と教えられ、作文なぞ、かんたんにできると早合点したのだが、とんでもない話だった。私はそれこそ、いろいろなことを思ってはいたが、自分が何を、どう思っているか、それがきわめて漠然としており、あいまいきわまりない体(てい)のものだったからである。なにも子供に限らない。ふだん、人間が頭の中で意識しているのは、ただ気分だけなのであり、それはそのまま文章などになりはしないのである。だから、作文というのは、思ったことを文章にするのではなく、それこそ思いを新たにして、文をつくりだすことにほかならない。

 私は「私のいる文章」を書きたいと思ったのだったが、それには、その私が「何を、いつ、どこで、どのように」思ったのか、さらに「なぜ」そう思うのかをはっきりさせねばならない。私は自分を表現したい、などといいながら、かんじんな「私」が、いかに漠然とした意識しか持ち合わせておらず、あいまいな気分に浸(ひた)されているにすぎないかを自覚して、ホトホト自分を持て余すようになってしまった。そして、それは自分の「教養」がまだまだ不完全なものでしかないからなのだ、と思い知らされた。自分をつくり直すこと、充分に教養を身につけること、私は何度もそうつぶやいた。

 五十歳という年齢こそ、自分をじっくりと反省し、今後に備える重要な節目だと、私はいまさらのように痛感するのである。