民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

フォークソング倶楽部

2018年02月28日 00時26分38秒 | ギター日誌
2月25日(日)は入会している『フォークソング倶楽部』が企画した吉田拓郎縛り(吉田拓郎以外の曲を歌ってはいけない)のライブに行ってきた。
この倶楽部、オイラは会員番号13番だが、今では300人ほどの会員数になっている。
前回はさだまさし縛りで今回は2回目。
前回もそうだったが、今回も定員60人に立ち見が出るほどの盛況だった。
フォークの人気を思い知って、オイラもフォーク縛りの曲選びをしてみようと思い立った。
今までにも何冊か持っているけれど、新たに楽譜集を探して購入したのは2冊。

井上陽水 ギターソロ作品集 永塚節 現代ギター社 1995年
すぐ弾けるフォークソングギターソロ(CD付) 平倉信行 ドレミ楽譜出版社 2012年

ざっと弾きたいフォークソングの曲をあげていったら次から次へ出てくる。
吉田拓郎 落陽 祭りのあと
井上陽水 少年時代
さだまさし 主人公
中島みゆき 時代
南こうせつ 夢一夜
伊勢正三 22歳の別れ
財津和夫 サボテンの花
浜田省吾 もうひとつの土曜日
イルカ なごり雪
高木麻早 コーラが少し
森田童子
因幡晃 わかってください
ばんばひろふみ いちご白書をもう一度
尾崎豊 I Love You
堀内孝雄
河島英五 酒と泪と男と女
村下孝蔵 初恋
ビリー・バンバン また君を恋してる
小椋佳
山崎まさよし One more time, One more chance
あがた森魚 赤色エレジー


ギター日誌 開始

2018年02月26日 00時34分12秒 | ギター日誌
オイラの一番の趣味はギターを弾くこと。
このブログを始めたのも、ギターのホームページを作ろうとしての準備段階だった。
いまは、他の習い事を全部やめてギター一本に絞ろうかと思うほどギターに夢中になっている。
月に一度のライブ出演も連続11年、継続中である。

ギターを再開して15年ほどたった。
それからはギターが余暇の時間の中心になった。
その間、いろんな曲に手を出したけれど、その記録がない。
振り返って、あのときはこんな曲をやっていたのか、の練習日誌にしたい。

今、取り組んでいるのはベートーヴェンの「エリーゼのために」
you tubeで気に入った演奏を見つけ、楽譜を購入した。

https://www.youtube.com/watch?v=7JgnQR7Hlpw

今日で3日目、編曲はまぁまぁ満足。
運指もほぼ決まり、細かい修正をしているところ。
あとは指がどこまで動いてくれるかだ。
2ページの見開きにする切り貼り作業も完了。

「無名の人生」 その13 渡辺 京二

2018年02月24日 00時03分42秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その13 渡辺 京二  文春新書 2014年

 3、生きる喜び

 この世は喜びの宝庫 P-73

 しかし、私たちの日々の生を支えているのは、もっとささやかな、生きていることの実質や実感なのかもしれません。
 本当に何気ないもの。たとえば、四季折々に咲く花を見てほっとするような小さな感情とでもいったらいいのか。あるいは花を咲かせない樹木であっても美しいし、山が好きな人は山登りをすることに生きがいを感じたりもする。あるいは街角に佇んでいて、ふと斜めに日の光が差し込んできたその一瞬、街の表情が変わってしまうようなこと。空を見上げていたら雲のかたちが何かに似ているなと感じること。この自然、この宇宙は、われわれにいろんな喜びを与えてくれるのですが、案外、人間の一生は、そうした思いもかけない、さりげない喜びによって成り立っているのかもしれません。
 一つのカップがあったとして、それを手にしたときの重さが心地いいとか、手触りがいいとかいうことがあるでしょう。じつはこの世というものは、そうしたもののかたち、色、匂い、音、気配としてわれわれと相対していて、もちろん、なかには非常に不快なものもあるけれど、われわれは、そういった自分の感覚を通じて世界と対応しており、それが生きていることの実質なのです。

「無名の人生」 その12 渡辺 京二

2018年02月20日 00時00分52秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その12 渡辺 京二  文春新書 2014年

 3、生きる喜び

 身の丈に合った尺度 その2 P-71

 逆にいうなら、幸せなことがまったくない一生もないはずです。一生かかって女一人からも好かれたことがない、そういう男性がおられたら、お目にかかりたいものです。
 人間の一生には幸福も不幸もあるけれど、その評価は、自分で一生を総括してどう考えるかの問題だということになります。他人が判断できることではありません。幸福度を客観的に測る基準などないからです。

 人間の幸福とは、掴みどころのないもの。それでも、ひとつだけ言えることがある。幸不幸の入り混じった人生ではあっても、それを通観してみて、自分なりの尺度でもって判断することはできる。幸も不幸もあったけれど、どちらがより多かったかのか、無駄な一生だったと振り返るのか、それとも実りの多い一生だったと思うのか。

 その際、大切なことは、自分の人生をあるがままに受け取ることでしょう。それは、自分の人生を無理に初めから肯定することではありません。それでは、単なる自己満足、自惚れにしかすぎません。そうではなく、まずはあるがままに受け取れるかどうか。そこにすべてがかかっています。逆にそうできなければ、「自分の人生はこんなはずではなかった」と、恨みや後悔ばかりに苛(さいな)まれることになるでしょう。

 要は、基準となるべき独自の尺度を一生かけてつくりあげられるかどうか。

「無名の人生」 その11 渡辺 京二

2018年02月18日 00時44分13秒 | 生活信条
 「無名の人生」 その11 渡辺 京二  文春新書 2014年

 3、生きる喜び

 身の丈に合った尺度 その1 P-70

 人が幸福だとは、一体どういうことを言うのでしょうか。
 一個の人間が一生を通して幸せに過ごそうなどというのは、欲の皮が突っ張りすぎなのかもしれません。幸福と不幸は糾(あざな)える縄の如しで、こいつは不幸のはじまりかと心配したら、実際は幸せのはじまりだっということもあれば、せっかく幸福をつかんだと思ったのに、とんでもない不幸が待ち受けていたとか、人生いろいろです。

 一生のあいだにはさまざまな出来事があって、愛する人が突然死んでしまうこともあれば、。失恋することもある。しかし、パートナーの死も失恋も、偶然です。相性のいい人を好きになれば失恋することもないはずだけれど、相性のよしあしを最初から見抜くことはなかなかできません。同様に、死んでしまうのも病いにかかるのも、みな偶然です。

 もっとも、不幸を避けようとして避けられることもある。なるべく危なそうな事柄に首を突っ込まないようにするのです。
 しかしそれは、賢く一生を送れるかどうかの細かなテクニック、あるいは注意力の範疇に属することであって、すべての不幸を避けることなど不可能だと言えます。不幸の種はかぎりなくこの世に存在していて、どうあがいても不幸は、人生に起こってくるものだからです。また、注意深く不幸の落とし穴に落ちるのを避ける人は一種の賢人ではありましょうが、何だかみみっちい気もいたします。