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「男が60歳になったら」 土屋 賢二

2015年06月08日 00時18分27秒 | 健康・老いについて
 「ワラをつかむ男」 土屋 賢二  文春文庫 2014年

 「男が60歳になったら」 P-139

 多くの男は60歳前後になると人生を振り返り、「こんなはずじゃなかった、本来ならミュージシャンか作家になっていたはずだ」と思う。
 だが60歳から始めてもまず手遅れのものばかりだ。名を上げようとしても、狙えるのは長寿記録ぐらいだ。だが長寿の家系でない上に、成人病の兆候も始まっている。長寿記録は無理だ。
 かといって無理に趣味を作って時間をつぶしながら死を待つのは耐えられない。そこで男は遅ればせながら、一縷の望みを抱いて、家族から白い目で見られながら創作教室に通う。
 だがたとえ奇跡的に名を上げても百年後には覚えている者は一人もいない。五百年後には、人類が過去に興味を示さなくなるかもしれない。多少有名になっても簡単に忘れ去られるのだ。だいたい、自分の名前でさえあやふやになっているし、自分の子どもにも尊敬されず、犬もなつかないのだ。昔の体験を何倍にも誇張して自慢してもバカにされるだけだ。
 そこで男はどこで自分の人生が狂ったのかと考える。育った家が貧乏だった、結婚後は家族を養わなくてはならなかった。妻が反対したなどと原因を探し、自分を犠牲者として位置づける。
 こういうみっともない姿を見て女が軽蔑しないはずがない。そもそも女は過去に恋々としない。大恋愛も終われば、記憶からきれいに消し去るのだ。
 男は違う。どこまでも過去にこだわり、不遇の一生を嘆く。たしかに女が考える通り、もし本当に作家になりたければ会社に勤めながら睡眠時間を削ってでも執筆していたはずだが、男は今まで野球中継をテレビで見たり、新聞を何紙も買って競馬の予想に頭を使い、酒を飲みながら一晩中グチをこぼし続けて、膨大な時間を無駄につぶしただけでなく、ピアスをして髪を金色に染めて「ロックで天下を取る」と言う息子を「目をさませ!」と叱りつけたことを忘れている。
 その上で「もしこうだったら」と空しく仮定する。「マイケル・ジャクソンの才能と機会があれば偉大な歌手になれた」「妻が応援してくれて書斎を作ってくれていたら作家になれた」「テレビも競馬もなかったら一流になれた」など、何でも言えるのだ。60歳の男はこんなにみっともない姿をさらすほど追い詰められているのだ。
 なぜそんなに追い詰められるのか不思議に思うかもしれないが、若いころ、ふと心をよぎったミュージシャンや作家になる夢(「好きなことをして一生過ごせたらいいだろうな」)を思い出し、それを実現できない自分の一生は何だったのかと考えるだけで追い詰められてしまう。男はそれほど繊細で底が浅いのだ。
 自分の一生が何だったのかと考えるなら、若いうちからがんばれば何とかなったかもしれないが、手遅れになってからでないと真剣になれないのが、わたしをはじめとする大多数の男だ。
 だが、手遅れになりながらも、納得のいく人生にしようとする姿勢は評価されていいのではないか。実利一点張りの女は理解しないだろうが、男はみっともない姿をさらしてでも、納得のいく人生を求めている。広い心で見れば、その姿は気高いとさえ言えないだろうか。残念ながら女の心は広くない。年老いても野心を燃やし続ける男を演じるショーン・コネリーに重ね合わせて夫を見れば気高さを感じられるかもしれないが、それだけの想像力を女に期待するのは無理だ。
 かわいそうに女は風車に立ち向かうドン・キホーテの気高さを理解せず、ただ鼻で笑うだけだ。これでは百年かかっても男を理解できないだろう。無理もない。男自身、自分でドン・キホーテのどこが気高いのか理解できないのだから。