「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)
「はじめに」 その1 P-11
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
「徒然草」は、この有名な書き出しで始まります。退屈な毎日を暮らしている時に、心に浮かんでくるどうでもいいようなことを何となく書きつけてみれば、「あやしうこそものぐるほし」いんだなぁ・・・、といった意味のこの一文。しかし「つれづれ」とか「よしなし事」とか「そこはかとなく」といった言葉を眺めていると、作者の兼好法師は、一体どの程度本気で、この一文を書いたのであろうかと、思えてくるのです。
兼好は、もちろん嘘を書いたわけではないでしょう。
「充実した毎日を過ごす中で次々と浮かんでくる私の考えを、もらさず書いてみました。これを少しでも多くの皆さんに広く知っていただき、有意義な人生を送るための一助となれば幸いです」
などと、昨今の生き方指南の書のようなことを、根っからの都会人である兼好が書くわけもなければ、思うはずもない。徒然草に書いてあるのは「よしなし事」、すなわち無益でつまらないことでは全くなく、我々の人生にとって重要なことばかりなのだけれど、作者自身が本気でそれらをよしなし事だと信じようとしているところに、徒然草の意義はあります。
冒頭の一文における、兼好にとっての唯一の真実の言葉。それは、「あやしうこそものぐるほしけれ」でしょう。この部分は、「変に気違いじみたことである」などと現代語訳されている場合もありますが、私の感覚ですと、
「何をしているんだかなぁ、俺」
といった気分ではないかと思うのです。
(中略)
兼好は、人間の嫌なところが先天的によくわかってしまう人でした。しかし世の中には、兼好が気付いてしまう人間の嫌なところには全く気付かない人もいるということも、兼好にはわかる。と言うより、どうやらそんなことにいちいち気付いているのは、自分だけらしい・・・という孤独感を、兼好は子供の頃から味わっていたのです。その孤独感とはすなわち、霊感少女が「天井のすみっこにいる女の人が見えるのは、どうやら私だけらしい」と気付いてしまった時の孤独感のようなもの。
その孤独感を解消するために書きはじめたのが、後の世に徒然草と言われるようになる随筆群だったのではないかと、私は思います。親兄弟でも、親しい女性でも、同僚でも友人でも決して癒されることのない孤独は、「自分だけが気付いてしまっていること」を紙に向かって書いている時だけ、忘れることができたのではないか。
「はじめに」 その1 P-11
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
「徒然草」は、この有名な書き出しで始まります。退屈な毎日を暮らしている時に、心に浮かんでくるどうでもいいようなことを何となく書きつけてみれば、「あやしうこそものぐるほし」いんだなぁ・・・、といった意味のこの一文。しかし「つれづれ」とか「よしなし事」とか「そこはかとなく」といった言葉を眺めていると、作者の兼好法師は、一体どの程度本気で、この一文を書いたのであろうかと、思えてくるのです。
兼好は、もちろん嘘を書いたわけではないでしょう。
「充実した毎日を過ごす中で次々と浮かんでくる私の考えを、もらさず書いてみました。これを少しでも多くの皆さんに広く知っていただき、有意義な人生を送るための一助となれば幸いです」
などと、昨今の生き方指南の書のようなことを、根っからの都会人である兼好が書くわけもなければ、思うはずもない。徒然草に書いてあるのは「よしなし事」、すなわち無益でつまらないことでは全くなく、我々の人生にとって重要なことばかりなのだけれど、作者自身が本気でそれらをよしなし事だと信じようとしているところに、徒然草の意義はあります。
冒頭の一文における、兼好にとっての唯一の真実の言葉。それは、「あやしうこそものぐるほしけれ」でしょう。この部分は、「変に気違いじみたことである」などと現代語訳されている場合もありますが、私の感覚ですと、
「何をしているんだかなぁ、俺」
といった気分ではないかと思うのです。
(中略)
兼好は、人間の嫌なところが先天的によくわかってしまう人でした。しかし世の中には、兼好が気付いてしまう人間の嫌なところには全く気付かない人もいるということも、兼好にはわかる。と言うより、どうやらそんなことにいちいち気付いているのは、自分だけらしい・・・という孤独感を、兼好は子供の頃から味わっていたのです。その孤独感とはすなわち、霊感少女が「天井のすみっこにいる女の人が見えるのは、どうやら私だけらしい」と気付いてしまった時の孤独感のようなもの。
その孤独感を解消するために書きはじめたのが、後の世に徒然草と言われるようになる随筆群だったのではないかと、私は思います。親兄弟でも、親しい女性でも、同僚でも友人でも決して癒されることのない孤独は、「自分だけが気付いてしまっていること」を紙に向かって書いている時だけ、忘れることができたのではないか。