民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「ノラや」 内田 百聞

2014年05月31日 00時22分21秒 | エッセイ(模範)
 「日没閉門」 エッセイ集  内田 百聞(ひゃくけん) 新潮社 1971年(昭和46年)

 このエッセイ集は「旧漢字」、「旧仮名遣い」で書かれている。
読みづらいので、「新漢字」、「現代仮名遣い」に直します。(タイピングは大変だけど)
(例)ゐる→いる こゑ→こえ 思ふ→思う をばさん→おばさん 行つた→行った 
行かう→行こう まちがひ→まちがい ~だらう→~だろう かまはず→かまわず さうで→そうで
おぢいさん→おじいさん 考へる→考える けふ→きょう くわし→かし

 「ノラや」 P-143

 いま、この原稿を書いていて、三月二十九日の「ノラや」の日が近いことを思う。ノラは三月二十九日に出て行ったのだから、三月三十日の朝だったかもしれない。目がさめて、昨夜ノラが帰ってこなかったと思ったとたん、全然予期しなかった嗚咽がこみ上げ、忽(たちま)ち自分の意識しない号泣となり、滂沱として流れ出して枕を濡らした。
 いまとなって思うに、その時ノラは死んだのだろう。遠隔交感(テレパシー)の現象を信ずるも信じないもない。ノラが私の枕辺にお別れに来たことに間違いない。
 当時の私はまだ七十才になるか、ならずであったが、その間の数十年来、こんな体験をしたことがない。
 一人でいれば、あたりかまわずどこででも泣き出す。はばかりの中は特にそうで、一人でワアワア泣いた、少し気をつけなければ、ご近所へ聞こえてしまうと家内がたしなめた。自分で収拾することができない。年来ペンを執っている上は、この激動を書きとめておかなければならないだろう。

 一心に念じて、つらい気持ちを駆り立て、「ノラや」の一文を書いた。書き続けている間じゅう、いつも心に描いていたのは、備前岡山の北郊にある金山(かなやま)のお寺である。
 金山の標高はどの位あるのか、よく知らないが、せいぜい六、七百メートルだろうと思う。あるいはもっと低いかもしれない。しかし景色は大変よく、一望の下に南の脚下にひろがる岡山の全市を見下ろす。私どもは小学校の遠足で連れて行かれたが、登って行くのがそんなに苦しい行軍ではなかった。金山寺の前に立って、目がパチパチする陽光を浴び、南から吹いてくる風を吸って、思わず深い呼吸をした。 

 「ノラや」を書き続ける間、絶えずその景色が心に浮かんでいた。雑誌に載っている時から反響があり、見も知らぬ多くの人々から、失踪した自分の飼い猫の、悲痛な思い出を綴った手紙が寄せられた。
 後に「ノラや」を単行本として一本に纏(まと)めた時、それらの手紙はすべて巻中に収録したが、そこは特に陸離たる光彩をを放って全巻を壓している。
 ところがそういう最中に驚いたことに、手に持った感じで、三、四百枚、あるいはもっとあったかもしれないが、とんでもない大きな原稿の小包が来た。
 何をどうしろというのかわからない。時々悪い癖の人がいて、郵便法違反をあえてし、小包の中に信書を封入してくるのがある。もしそんなことだったら、中を開けてみればどういうつもりの小包かもわかったかもしれないが、私はその時包みのまま、片付けてしまった。
 その外にも、手ざわりで二、三百枚と思われるもの、あるいはもっと軽く二百枚ぐらいか、そんなのがいくつか届いた。
 開けて見ないから解らないが、こちらはノラの大騒ぎの最中、そんなおつき合いなどできるものではない。

 ノラの後にクルと呼ぶ猫を飼った。
 飼ったというのは当たらない。向こうが勝手に私の家へ入り込んできたので、まるでノラの兄弟みたいな顔をして落ちついていた。一生懸命にノラを探している最中、実にノラによく似た毛並みの猫が、いつもお隣の塀境を伝い、随分見慣れて馴染みになった。その潮時に彼は私の家へ入り込んできた。
 だからどんな素性の猫か、こちらではまるで知らなかったが、いつも傍らにいれば矢張り可愛くなる。ノラと違って、時々お行儀の悪いこともするが、叱ればまたおとなしくなる。
 ただ、しょっちゅう病気するので、近所の猫医者のご厄介になった。
 段々、元気がなくなり、弱ってきて、猫病院の院長さんに来診を乞うようなことになった。
 院長さんは毎朝早く来る。それが十数日続いたけれど、験(げん)は見えない。
 院長さんは来ると挨拶もそこそこ、忽ちそこへ小さな注射のアンプルを数種並べる。上手な手つきでアンプルを切り、家内に抱かれたクルに注射する。
 どうもクルの経過はよくないようである。
 私が言った。とにかく、いまはまだこうして生きているのですから、この生命の燈(ひ)を消さないように、もう一度元気にしてやってください。お骨折りにのしかかるようですが、どうかお願いします。
そう言って頭を下げた。
 これは大変な無理だったようで、院長さんは病院に帰ってkらも、私の言ったことでみんなと相談してくださったそうだが、私の方ではクルの素性をまるで知らなかったので、すでに年をとって、もう余命がなくなりかけていたのに気がつかなかったのである。猫医者の方でも最後の一日二日前になって、おや、この歯の様子から見ると、随分年をとっているようです。いつから飼っていらっしゃるのですか、というようなことになった。
 クルは家じゅうの号泣の中に、最後の息を引き取った。常命(じょうみょう)なれば仕方ない。猫だって人間だって変わることはない。
 
 ナラ、それからクル、その後に私のところでは猫は一切飼わない。
 寒い風の吹く晩などに、門の扉が擦(こす)れ合って、軋(きし)む音がすると、私はひやりとする。そこいらに捨てられた子猫が、寒くて腹がへって、ヒイヒイ泣いているのであったら、どうしよう。ほっておけば死んでしまう。家へ入れてやればまたノラ、クルの苦労を繰り返す。子猫ではない。風の音だったことを確かめてから、ほっとする。


「たけくらべ」の朗読 鴨下 信一

2014年05月29日 00時14分16秒 | 朗読・発声
 「日本語の学校」 声に出して読む<言葉の豊かさ> 鴨下 信一 著 平凡社新書 2009年

 「樋口一葉「たけくらべ」の朗読について」 

 「たけくらべ」の息継ぎはだいたい読点「、」でやればよろしい。
読点と読点の間は原則一息で読みます。
この一息を音楽の一小節と考えます。
よく見ると、同じ一小節に字の数(音の数)が多いのと少ないのとがある。

 「平生(つね)の美登利ならば、信如が難儀の体(てい)を指さして、
あれあれあの意気地なしと笑うて笑うて笑い抜いて、言ひたいままの悪(にく)たれ口」
音の数は「9・16・26・13」です。
一小節をほぼ同じ時間で読むとすれば、音数の多い小節は速く、少ない小節は遅く読む。
まあ厳密に音数に比例して速度を上げ下げすることはないのですが、
それでもこの文章が(普通・やや速く・速く・速くなったスピードを抑えて)
読むように構成されているのがわかるはずです。

 そしてこれは美登利の心理(高まって興奮してゆく気分)と、とてもよくリンクしている。
俳句の5・7・5も、まん中の7の部分が少し速くなる。
これでリズムがつくのです。
和歌の5・7・5・7・7も同じ。

 よく「たけくらべ」を全部平均したスピードで(一見丁寧な読みに聞こえるのですが)
読む人がいます。
それは一葉の持つ(内的リズム)を無視した読みです。
そういう人は音数が多いところでは息が続かなくなって、途中で勝手に切ったりする。
よくありません。

 本来、カギカッコ(「 」)に入るべき会話の部分が「地の文」と同じように書かれているのも
文語文の特色ですが、「たけくらべ」のような文章では、会話とか台詞の調子でなく、
地の文のリズムに合わせた調子で読みます。
少しリアルに会話の調子が入ってもいいのですが、まるっきり会話の口調では感心出来ません。

 

「日没閉門」 内田 百聞

2014年05月27日 00時11分24秒 | エッセイ(模範)
 「日没閉門」 エッセイ集  内田 百聞(ひゃくけん) 新潮社 1971年(昭和46年)

 日没閉門 (原文は旧漢字)

 近頃はいい工合(ぐあい)に玄関へ人が来なくなって難有(ありがた)い。
 何年か前から、玄関わきの柱に書き出しておいた、蜀山人の歌とそのパロディー、
替へ歌の私の作である。

  蜀山人
  世の中に 人の来るこそ うるさけれ
  とは云うものの お前ではなし

  百鬼園
  世の中に 人の来るこそ うれしけれ
  とは云うものの お前ではなし

 葉書大の紙片に墨で書いて柱に貼っておいたが、だれかしらないけれど何時(いつ)の間にか
引つぺがして、持って行ってしまふ。被害が頻頻(ひんぴん)とあるので、又書き直して紙の裏面にべつとりと糊を塗り、剥ぎ取れない様にしておいた。
 しかし矢つ張りむしってしまふ。持って行く為でなく、そこにそんな事が書いてあるのが気に食はぬのだろうと云う見当がついた。
 その歌の隣り、玄関の戸に楷書で面会謝絶の札(ふだ)をを貼りつけた。そこ迄やつて来た者に会はぬ為には、あらかじめ一筆ことわつておいた方がいい。

 何年か前、まだ憚(はばか)りが水槽装置でなかった時、玄関前で何か言つてゐると思ったら、待ち兼ねたをわい屋であった。中中来ないのでもう一杯になってをり、家の者が横町へ行って見て、艦隊は未だ来たらぬかとうろうろしてゐた時である。
 をわい屋は玄関前の白いみかげ石の上に起ちはだかり、大きな汲み取り用の杓を、弁慶が長刀を突つ立てた様に構へて、どなった。
 「もし、もし、ここに面会謝絶と書いてあるが、汲んでもいいのですか」
 これは恐れ入つた。面会謝絶の書き出しが彼れ氏の癇に触れたらしい。しかし悔い改めて爾後面会謝絶を引っ込めるわけには行かない。そこに現れる人はみんなをわい屋とは限らない。

 外敵の侵入に備へるばかりではない。人の来るこそうれしけれ、の気持ちもあるが、これでもう机の前の仕事は一仕切りと思つたところへ、向こうの勝手で時切らずにやつて来られては堪らない。そこで門前に「日没閉門」と札を掛けた。有楽町の名札屋に註文し、瀬戸物に墨黒黒と焼き込んで貰った。

 春夏秋冬 日没閉門

 爾後は至急の事でない限り、お敲(たた)き下さるな。敲きや起きるけれどレコがない。ではなく、敲いても起きませぬぞ。春夏秋冬とことわつたのは、日の永い時、短い時、夕方六時頃であらうと、八時にならうと、暗くなつたら、もう入れませぬ。私がその札を掲げた後、旅行で熊本へ廻ったら、熊本城の城門に掲示が出てゐた。

 日没閉門 熊本城

 梅雨の時であつたので、上五を附ければ俳句になる。

 白映や 日没閉門 熊本城

 それが私の所では一つのトラブルを起こした。すでに閉門時を過ぎ、家のまはりもしんとして来た頃、門のあたりで何か物音がする。をかしなと思つたら、一人の若い男が門扉のわきの柱を攀ぢ登り、それを足場に玄関前に通じる前庭に飛び降りたのであつた。
 胡散な奴、何者なるぞと誰何すれば、「お皿を下げに来ました」と云う。
 その晩、九段の花柳地に近い出前の西洋料理屋へ註文して、一品料理を一つ二つ取り寄せた。そのお皿を取りに来たのである。
 出前のお皿を下げに来ると云うのは当たり前の事であるが、食べ終わつたか終わらないかにもうやって来た例は、市ヶ谷合羽坂にゐた当時、時時註文した神楽坂の洋食屋である。馬鹿に早いなと思ふけれど、向こうの心配は、一晩ほつて置けば後はどうなるかわからない。お皿もよかつたが、特に銀器が立派だつたので、あの邊り花柳街が近いから、お勝手口などでどんな事になるかわからないと案じたのであらう。
 門扉を乗り越えて侵入した若い者の店も、九段の花柳街に近い。早いとこお皿を下げておく必要があつたのかも知れない。

 中略

 日没閉門ならば即ち日出開門。家内が開けに行く。開ける前からすでにかつぎ屋が門の外に起つて待ってゐる。実におちおち寝てもゐられない。いや寝やしない起きてゐたのだが、かつぎ屋のお神さんは徹夜ではなく寝て来たのだろう。向こうの勝手で朝早くやつて来て、気に食はない。方方を旅行してゐた時、京都に近づく前の駅で、別の列車がつぎ屋専用の特別列車であつた。蝗(いなご)の大群の如くにひしめき合ってゐて、よそで見た目にも何となく憎らしかった。
 うちへ来るかつぎ屋は千葉の在の百姓である。自分の畑の野菜物ばかりでなく、途中沿線の船橋の市場からいろんな物を仕入れて来る。ぼた餅羊羹お煎餅、それから魚介類、小魚などはしょつちゆう持ってゐる。

 後略


「甦る江戸文化」 西山 松之助

2014年05月23日 02時11分51秒 | 大道芸
 「甦る江戸文化」 人びとの暮らしの中で  西山 松之助 著 NHK出版 1992年

 「根無し草の両国盛り場」 P-192

 平賀源内が宝暦13年に刊行した「根無し草」に、両国の盛り場状況がいきいきと描きだされている。
 
 中略

 大衆芸能・大道芸など、庶民が野外で自らの芸を演じて、見る人から金を貰うという芸は、
江戸時代にも多種多様に発達したが、盛り場はそういう意味では最も重要な大衆芸能、
大道芸が集まっていたところであった。

 近代社会ではまったく見ることのできなくなったこれらの様々な芸を江戸では、
いわばごく普通の庶民が大道において見たり、聞いたりしていたのである。
そして芸を売る人たちと鑑賞する人たちの関係がきわめて和やかに成立していた。

 ただ見て素通りしていくのではなく、名人芸があると、
惜しげもなく金持ちでもない庶民が金や持ち物を芸人に投げ与える。

 芸人は芸を磨くために厳しいトレーニングをして、今では考えられないような見世物小屋、
大道芸の名人が多数存在した。これら大道芸の研究は必ずしもよくなされてはいないが、
私は、日本の盛り場におけるかつての芸は、想像以上に高度で多才であり、
すぐれた名人が多数輩出していたと考えている。

「語りの場と形式」 佐藤義則

2014年05月21日 00時21分26秒 | 民話(語り)について
 「全国昔話資料集成」 1 羽前小国昔話集  佐藤 義則(昭和9年生) 岩崎美術社  1974年

 「語りの場と形式」  (編者ノート 佐藤義則 より)

 また、一家の内にあっては、囲炉裏と語りの場は切り離しえないものである。
四角な炉辺の周囲には各々の名称があり、客人の出入りする「半戸(はんど)の口」から近い一辺は
「客座」で、もっぱら、客用である。
その向かいの一辺は「嬶座(かかざ)」とか「女座(おなござ)」と呼び、一家の主婦の座であり、
客の接待はこの座から手をさしのべて茶などをさし出す。
他に一家の者や牛馬の出入りする土間(にわ)の口の「大戸(おど)の口」から土間をへて
一番近い炉辺の一辺は、「木の尻(すり)」とか「下尻(すもずり)」「下座(げざ)」と呼ばれ、
子供や下男下女、嫁などの座で、焚き木の運び入れや、
くすぶる大榾の根っこの尻はいつもこの方を向いている。

 この「下尻」の向かいが「横座」で、主人専用の座である。
「猫、馬鹿、坊主」といって、主人以外は横座にすわることを許さない。
猫と馬鹿な者は分別がないからしかたがない。
和尚の来訪時には主人が横座をゆずる作法がある。
「客座」を中心にして奥座敷の方が「横座」で、その家の構造によって「横座」「下座」は違いがある。

 炉を「ゆるり」という。
「ゆるり」の中に一組の火箸と灰平(あぐなら)しを「 嬶座」と「横座」の角に立てて、
「 嬶座」の者が管理とする。
一つの炉に一組以上の火箸を入れることを「家(え)ん中もめする」といって忌(い)む。
俚諺に「鋸の目立て(刃研ぎ)と、トメ火は他(しと)さ頼むものでない」という。
夜のトメ火は、翌朝まで燠火(おきび)が残っているように埋め火をするのを良しとする。
これが主婦の重大なつとめであった。
現今のマッチのように簡単な発火物をもたない昔は、とくに重要視されたものである。

 大晦日の年夜には、一旦火を消して、元朝に新しい火をきって焚き初める法と、
「大年の火」話のようにトメ火をして、翌元朝に燠(おき)を掘りおこして焚きつぐ法や、
年夜は火をたやさずに元朝を迎える法など、家例の違いがあるが、
常の日は燠が残っているようにトメ火をするのである。
火箸も灰平(あぐなら)しも、夜には必ず炉縁に寝かせておくものとする。

 炉火を守るのは火箸をもつ主婦の役である。
昔コ語りの折に語り手へ火箸を渡す作法があり、この時間ばかりは火箸をもって火をつぐ役を
課せられるのである。

 中略

 「昔話」を聞きに歩いて、「昔話ば聞がへでけろ」とねだっても、昔話とは「昔の話」で、
世間話や伝説と思い込んで語りだす人がほとんどである。
昔話は「トント昔コ語ってけろ」でないと、猿や雀の昔話は聞けないし、
『昔話集成』の分類になる題名をかかげても、語り手には無関係なのである。
鬼の登場する話は「鬼コむがし」であり、猿なら「猿コむがし」なのである。
聞き手が欲しい話を注文する時は、その話のもっとも印象的な部分をひき出して、
「♪ 爺な豆コ千粒えなァれ、ってゆうムガスコ語ってけろ」(豆まき爺)とか、
「♪ 土食って口渋え口渋え、ってゆうムガスコ語ってけろ」(雀と燕と木つつき)といって、
ねだるのである。