民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「ツルの恩返し」 櫻井 美紀

2014年01月31日 00時11分03秒 | 民話(昔話)
 「ツルの恩返し」 櫻井 美紀・文 朝倉 めぐみ・絵  世界文化社 2005年

 むかし、ある山里に ひとり暮らしの きこりの若者が おりました。
 冬の初めのこと、若者は 山の奥で 木を切って おりました。
 かっきーん かっきーん
 日暮れになって 若者が あと ひと打ち、かっきーん と 木を切った 時です。
遠くの方で ぱたら ぱたら と、地面の 雪を打つような音が 聞こえてきました。

 音をたよりに 進んで行った 若者は 雪の上で もがき苦しんでいる 
一羽の ツルを 見つけました。
ツルは 翼に 矢を受けたまま、ここまで 逃げてきたようです。
 「おお、かわいそうに」
 若者は ツルの 翼から 矢を抜いてやり、ツルを抱いて うちに 連れ帰りました。

 その晩、若者は 傷口に 薬を塗って、一心に 世話をして やりました。
 次の日になると、ツルは 翼を 動かしました。
 「おう、飛べるようになったかや。気をつけて うちへ帰れや。猟師に ねらわれぬようにな」
 若者が 見送る中、ツルは 翼を広げて 飛んでいきました。

 しんしんと 雪の降る 晩のことでした。
 ほと、ほと、ほと。
 夜遅く、小屋の戸を 叩くものが ありました。
若者が 戸を 開けてみますと 雪の中に 美しい娘が ぽっつらと 立っていました。
 「道に迷って 困っております。今夜 一晩だけ 泊めてください」
 かわいそうに思い、若者は その娘を 泊めてやりました。

 美しい娘は そのまま 若者の 嫁さまに なりました。
ふたりは 幸せに 暮らしはじめましたが、ある日のこと、嫁さまが 若者に 言いました。
 「おなごは 機(はた)を織るもの。どうか、機場(はたば)を つくってくださりませ」

 「そうか。機を織るのか。気がつかんで 悪かったな」
 若者は 嫁さまのために 機場を こしらえました。
嫁さまは 喜んで
 「では、私が 布を 織り上げるまで、けっして 中を見ないで くださりませ」
と 言うと、機場へ 入りました。

 きこ ぱったーん とんとん きこ ぱったーん とんとん
機場から、嫁さまの織る 機の音が 聞こえてきます。
一日(いちにち)たち、二日(ふつか)たち、みっか、よっか、いつか、むいか。
ようやく、七日目になって 機場から 出て来た 嫁さまの 手には 
織り上がった 美しい布が ありました。

 本当に 美しい、珍しい 布でした。
 「町に行って この布を 売ってきて くださいな」
 嫁さまに 言われて 若者が 布を 売りに 行きますと、町の人々は 布の美しさに 
びっくりしていましたが、すぐに 百両という 高い値で 買い取られました。

 若者は 大喜びで うちに帰り、嫁さまに 言いました。
 「あの布が 百両で売れたよ。なあ、おまえ、オレは あと 百両あれば 商売の 元手ができる。
あと 百両 欲しい。もう一反 あの布を 織ってくれんか」
 「それでは もう一反 織りましょう。私が 布を織る間 決して 戸を開けては なりません」

 きこ ぱったーん とんとん きこ ぱったーん とんとん
 機場から 嫁さまの織る 機の音が聞こえます。
朝から夜まで。そして 夜中 ずーっと。
 「なんにも 食べんで 昼も夜も 織り続けておる。大丈夫やろか」
 若者は じっと 待っていましたが、だんだん 心配に なってきました。
 「見てはならん、見てはならん」

 そのうち 若者は ますます 心配になり、ほんの少し 戸を開け、
細いすき間から 機場をのぞきました。
 「これは、なんと・・・・・」
 機場では やせこけた ツルが 自分の胸の 羽毛(はねげ)を 引き抜いては 
布を 織っているのです。
 「あ、あーっ」
 若者は 気を失い、その場に 倒れてしまいました。

 若者が 気がつくと、目の前に 嫁さまが 織りかけの布を 膝にのせて 
しょんぼりと すわっていました。
 「あれほど 見てはいけない と 言いましたのに。あなたは 私の姿を 見てしまいましたね。
私は あなたに 命を助けていただいた ツルなのです。
お礼に 私の羽で 布を織って おりました。でも、これっきり・・・・・」
 嫁さまは つらそうに 涙をこぼしました。

 いつまでも 一緒に 幸せに 暮らしたかったのに」
 織りかけの布を 若者に 渡すと、嫁さまは ツルの姿に変わり、冬の空に 舞い上がりました。
 弱弱しく 翼を 動かしながら。
 くおーっ くおーっ
 一声(ひとこえ)、二声(ふたこえ)、悲しげな ツルの鳴き声が 夕闇の中に 響き渡りました。

 それっきり

 

「ネコとネズミ」 栃木県の民話

2014年01月29日 00時12分39秒 | 民話(昔話)
 「ネコとネズミ」  栃木県の民話  http://www.mukashi.info/books/read/book_detail/44/1


 むかし むかし あるところに おじいさんとおばあさんが 住んでいました。

貧しくはありましたが、 二人ともまじめで とても優しい心を 持っていました。
 

 ある日 おじいさんが 畑を耕していると、 

くさむらから 「みゃあ・・・みゃあ・・・」と ネコの鳴き声が 聞こえてきました。

おじいさんは 優しく ネコを抱き上げると、

 「おぁー 可愛いネコじゃ。あぁ 可哀そうに おなかをすかせているようだ。

一緒に 家に 帰ろうかの。」と言って 家に連れて帰りました。


 子供のいなかった おじいさんとおばあさんは このネコを 大変 可愛がりました。

ネコも 優しい おじいさんとおばあさんのことが 大好きになり、 

みんなで 楽しい毎日を 送るようになりました。


 ある 夜のこと おじいさんとおばあさんの ふとんの間で 寝ていたネコは、

納屋から聞こえてくる おかしな声で 目を覚ましました。

不思議に思ったネコは 足音を立てずに そっと 納屋へ 近づきました。

すると 床にあいた 小さな穴の中から ネズミの歌声が 聞こえてきます。


 ♪ネズミのお宝 ぴかぴか 磨け

 ♪磨かにゃ 大変 錆びて なくなる

 ♪それそれ 磨け ネズミの お宝


 しばらくして ネズミの 歌声がやむと、 ネコは そーっと 納屋の中に 入ってみました。

すると 一匹の子ネズミが なにかを捜すように きょろきょろしながら 走り回っています。

それを見たネコは ものすごい速さで 跳びかかると、 

手のひらで しっかり 子ネズミを つかまえました。


  突然のことに びっくりした 子ネズミは 「ひゃあ」と 悲鳴を あげました。

ネコの手の中で 子ネズミは 言いました。

 「ネコさん 今日はどうか 見逃しておくれ。 

今夜のうちに ネズミのお宝を 磨かなくちゃならないんだ。

だけど かあさんネズミが 病気になっちゃって このままじゃ 終わりそうにないんだよ。

そこで かあさんネズミに 栄養をつけてほしくて ご飯を捜していたんだ。

かあさんが 元気になったら 必ず 君に食べられるために 戻ってくるからさ。」


 そう言って 子ネズミは 涙を流して ネコにお願いしました。

それを聞いたネコは なにもいわず ネズミを放してやりました。

子ネズミは 大喜びで ネコにお礼を言いました。

 「どうもありがとう。きっと 約束を守るからね。」


 子ネズミが 穴の中へ戻って しばらくすると 上から豆が ぱらぱらと 降ってきました。

驚いて 穴の外を よく見ると ネコが 一粒 一粒 豆を 落としてくれているではありませんか。

子ネズミは ネコの 親切に感謝し おいしそうな 豆を いくつもかかえて

かあさんネズミのもとへ 運んでいきました。


 「かあさん たくさん 豆を食べて 元気になってね。」

そして 子ネズミは 穴の外へ出ると ネコにこう言いました。

 「ネコさん どうもありがとう 君のおかげで きっと かあさんネズミは 元気になるよ。

さあ 約束通り ぼくを食べてよ。」

 しかし ネコは 残りの豆を 全部 子ネズミの 前に置くと 静かに 納屋から 出て行きました。

「何て優しい ネコさんだろう。」

子ネズミは ぽろりと 涙を 流して 心から ネコに 感謝しました。


 それから しばらくたったある日 納屋の中から「ちゃりん ちゃりん」という音が聞こえてきました。

その音を 耳にした おじいさんとおばあさんとネコは 不思議に思って 一緒に納屋へと 向かいました。

おそるおそる とびらを開けてみると 暗いはずの納屋は 眩しい光で あふれています。


 「なんとまあ・・・」

驚いたことに 床にあいた 穴の中から 大判 小判が ざくざくと 飛び出してきます。

よく見ると 小判の山の横には 子ネズミや かあさんネズミ ほかのネズミたちが

にこにこして 立っていました。

子ネズミは おじいさんたちに ぺこりと 頭を下げて 言いました。

 「おかげさまで かあさんネズミは この通り すっかり 元気になりました。

ネコさんは 命の恩人です。

ネズミのお宝も 無事に 磨き終えることができました。ほんの少しですが これは お礼です。」

 子ネズミは 小判の山を 指差して 言いました。


 それを聞いた おじいさんとおばあさんは 驚いたり 喜んだり 大忙しです。

そんな二人の 様子をみた ネコも とても嬉しい気持ちになりました。

そして 子ネズミに近づくと お礼を言うように のどを鳴らしました。

それを見た子ネズミも とても 楽しい気持ちになりました。


 こうして おじいさんとおばあさんは なに不自由なく いつまでも しあわせに暮らしました。

もちろん いつまでも ネコのことを 大切にし、 

ネズミにも 毎日 おいしい豆をあげて 可愛がったということです。


 おしまい

「ムヒカ大統領のリオ会議でのスピーチ」 打村 明 訳

2014年01月27日 00時03分37秒 | 雑学知識
 「ムヒカ大統領(ウルグアイ)のリオ会議でのスピーチ」 訳 打村 明 2012年地球サミット

 なんということでしょう。リオ会議(Rio+20)は環境の未来を全世界で決めて行く会議で、
日本メディアも新聞やテレビで大きく取り上げてきたのに、もっとも衝撃的で環境危機の本当の問題を
唯一示し、考えさせられるウルグアイ大統領の本音スピーチを誰も日本語に訳していません!

 こんな大事なスピーチですので、日本の皆様にも紹介したく未熟ながら翻訳しました。
訂正点や思ったことがありましたらコメント欄にお書きください。

 もう一つガッカリしたことがあります。
リオ会議に期待を寄せ、Youtubeで各首脳のスピーチや、かの有名な伝説のスピーチをした
サヴァン・スズキさんの映像も見ていました。
リオ会議では各国首脳が集まり、地球の未来を議論し合う場なのに、各国首脳は自分のスピーチを
終わらせたら、一人一人と消えて行ってしまいました。世界中から何時間もかけてこの場に来ているのに、みな人の話は聞かず自分のスピーチで済ませている代表者が多いリオ会議だったと思います。

 ウルグアイのような小国の大統領は最後の演説者でした。
彼のスピーチの時にはホールにはほとんど誰もいません。
そんな中、カメラの前で残したスピーチは、その前まで無難な意見ばかりをかわし合う他の大統領とは
打って変わって、赤裸々に思っていることを口にしています。
世界で最も「貧乏」な大統領と言われているエル・ペペ(愛称)が世界に対してどんなメッセージを
残したのでしょうか。私にとってはいつも考えなければならない重要なスピーチにもなりました。

 会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。
国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで
表現しているのだと思います。

 しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。
午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
私たちの本音は何なのでしょうか?
現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

 質問をさせてください:
ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。
同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人が
できるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?
可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

 なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、
即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。
マーケット経済がマーケット社会を造り、
このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

 私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?
あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

 このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で
「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?
どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

 このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

 現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。
逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。
私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。
幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。
命よりも高価なものは存在しません。

 ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、
高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。
消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。
消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

 このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。
ということは、
10万時間持つ電球を作れるのに1,000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!
そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。
人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。
悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、
この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

 石器時代に戻れとは言っていません。
マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。
私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

 昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、
いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

 国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。
私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、
みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

 根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。
そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

 私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。
でも、世界でもっとも美味しい1,300万頭の牛が私の国にはあります。
ヤギも800万から1,000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。
こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

 私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。
そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。
しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。
なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。
毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。
私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

 そして自分にこんな質問を投げかけます。
これが人類の運命なのか?
私の言っていることはとてもシンプルなものですよ。
発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。
発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。
これらをもたらすべきなのです。

 幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、
人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

 ありがとうございました。

「使ってみたい武士の日本語」  野火 迅

2014年01月25日 00時11分28秒 | 雑学知識
 使ってみたい「武士の日本語」  野火 迅(のび じん)著  草思社 2007年

 あとがき―――やせ我慢と品格

 戦国乱世から泰平の世に移るとともに、武士の信条は「腹が減っては軍(いくさ)はできぬ」から
「武士は食わねど高楊枝」へと移り変わった。
戦国乱世にあって軍(いくさ)に明け暮れた武士たちは、食うことの大切さを、
いやというほど体で(胃で)味わったはずだ。
遠征は、兵站(へいたん)がじゅうぶんに整っていなければ成り立たないし、
籠城戦は、兵糧が尽きればおのずと敗北が決する。―――
軍(いくさ)と出世と治世が一体になっていた戦国乱世においては、「腹が減っては軍はできぬ」は、
たんなる生物的欲求の次元を超えた「武士の理念」であったということができる。

 ところが、戦国乱世の総決算である関ヶ原の戦いに決着がついて江戸に徳川幕府が
開かれてからというもの、軍(いくさ)は、武士の本分ではなくなった。
江戸時代とは、一口にいえば、徳川幕府の強大な軍事力と抜かりのない諸国大名への
監視体制によって築かれた泰平の世である。
その世においては、軍(いくさ)は、むしろあってはならないものだった。

 その時勢に応じて、主君への忠誠が下克上に取って代わり、剣は実戦の武器から
心身修養の道具になり、鎧をまとって戦場に馳せる武士の仕事は、肩衣(かたぎぬ)を着けて
城へ出仕(出勤)することに変わった。
そこで生まれたのが、「腹が減っては軍(いくさ)はできぬ」の実践論に対する
「武士は食わねど高楊枝」の精神論である。

 この言葉は、ありていにいえば、「武士のやせ我慢」を表したものだ。
内職なしには家計を支えられない五十石取りの「平侍(ひらざむらい)」も、
港湾の重労働で日銭を稼ぐ「裏店(うらだな)住まい」の浪人者も、武士は武士。
たとえ今日の米や酒代に窮することがあっても、彼らは、武士の気位を保ちつづけることができた。
実際には、藩財政逼迫(ひっぱく)のあおりを食って薄給を減給された平侍などは、
すっかりしょぼくれて武士の風格と精彩を失い、
大名取り潰しによって生み出された食い詰め浪人の多くは、堕落して博徒の用心棒や盗賊と化した。
だがそれでも武士の誇りは、彼らの心の拠り所でありつづけたのだ。
立身出世によってしか自分の価値を測れなかった戦国武士とは、えらい違いである。

 江戸時代の武士は、「武事をおこなわずして武士とはこれいかに」といいたくなる
奇妙な存在なのだが、逆にいえば、もはや港湾労働者やヤクザの用心棒でしかない浪人にまで、
「食わねど高楊枝」の気位をほどこした「武士」というコンセプトの強さは驚嘆に値する。
徳川幕府が念入りにつくりあげた「武士道」のたまものであろう。

 ちょっとむずかしげな理屈を並べてしまったが、ここで筆者が注目したいのは、
ひとえに「武士のやせ我慢」である。
「やせ我慢」は、「品格」と紙一重だ。いや、ほとんど同義とさえいえる。
金に困っているときにも困っていないようにいい、怒っているときにも冷静なように見せかけ、
何かへの欲に駆られているときにも無欲恬淡(てんたん)のようにふるまい、
明らかに自分の損になるとわかっていることを名誉(意地)に懸けておこなう。―――
それらはすべて、「やせ我慢」という本体が形のうえで「品格」になって現れたものだ。

 思うに、本書で紹介した「武士の日本語」の多くは、
やせ我慢を素にした品格によってつくられている。
たとえば、当座の金がないことを表す「手元不如意(ふにょい)」は、いかにも品格のある言葉だが、
生活全般の苦しさにあえいでいることを隠すという意味で、やせ我慢が素になっている。
また、「これはしたり」というクールな一言は、
「何をいうか!」と叫び立てたい怒りを抑えたところから出てくる。
さらには、「武士の一分」などは、利にも欲得にもかかわらない武士の対面を表している点で、
「武士のやせ我慢」を象徴する言葉であるといえよう。

 ところで、筆者の目的は、武士の品格の正体がやせ我慢であることを暴(あば)き、
「つまるところ、武士も、本質的には現代人と同じだった」などと総括することにはない。
人が自分自身を律する方法は、しょせん、やせ我慢しかないのだ。
それがなかなかできないから、現代人は、しばしば品格のない言動を人前にさらすことになる。
そこへいくと、やせ我慢がしっかりとできた江戸時代の武士とは、
なんと成熟した人々であったことか。―――筆者はそういいたいのである。



「山下清の放浪日記」 池内 紀

2014年01月23日 00時41分29秒 | 雑学知識
 「山下清の放浪日記」 池内 紀 編・解説 五月書房 2008年

 はしがき 「山下清のこと」

 山下清はフシギな人である。十代のころ貼り絵をはじめた。
生活の場であった八幡学園が手工の一つとして課していたもので、
ハサミは使わず指でちぎって色紙を貼っていく。
 
 最初はほかの子供たちとさして違わなかった。それが二年ばかりで質量ともに抜きん出る。
十七歳のとき銀座の画廊に展示されて大きな反響をよんだ。山下清の名前が世に出た最初である。

 十八歳のとき八幡学園から姿を消した。三年ばかりして一度フラリと帰ってきたが、
ふたたび出ていく。その後も同じことをくり返した。
全財産をリュックに入れて線路づたいに歩いていく。線路に沿っていけば迷わない。
駅のベンチが定宿である。ゆっくりした歩き方で、一里歩くと一時間休むというぐあい。
駅にして一日三駅。冬のあいだは南の鹿児島にいた。季節とともに北へ移動する。
花火が好きだったので花火大会の催しをたどっていった。

 昭和二十八年(1953年)、アメリカのグラフ雑誌『ライフ』が貼り絵に注目、
天才児の行方を捜しはじめる。ジャーナリズムが色めき立った。
おりしも東京でゴッホ展が開かれていて、山下清の作風との類似が指摘された。
いまや「日本のゴッホ」である。山下清の名が大々的にとりあげられた二度目にあたる。

 その後も放浪はやまなかった。風貌と生活のスタイルが全国に知れわたり、
それとわかると色紙やスケッチを求められる。そのつど、あわてて逃げ出していく。
放浪のはじまりとまったく同じである。

 中略

 しかしながら、この『放浪日記』は、放浪のさなかに生まれたわけではない。
気ままな放浪者は、おりおりフラリと学園にもどってきた。そして貼り絵をした。
日記は貼り絵と同じように、毎日の作業として課せられたものだった。
夕食後の日課として千字ほど書く。それを先生に見てもらう。
さもないと床につけない。寝るために彼は懸命に思い出した。

 中略

 放浪して楽しいというのではなかった。
当人自身が「そこがるんぺんの苦労です」と述べているとおり、
いやなこと、辛いこと、食いっぱぐれの連続だった。
とすると画家山下清が、ひそかな未知の風景を求めて出ていったのだろうか?
しかし、大部な日記のどこにも、その種の記述はない。
ただ一ヶ所、「学園から逃げ出すこと」のなかに、こんなくだりがある。

 「田舎は広々として、田や畠が有って、青々して、何の音をしないし、気持ちがいいので、
田舎で使ってもらおうと思っていました。」

 だいぶ歩いて、もうつかまるおそれがないと安心したあと、歩調をゆるめたらしい。

 「なるべく真っ直ぐ真っ直ぐと進んで行って、青々としている空の色や、草や、
木の緑色も気持ちがいいので、景色をながめながら進んで行きました。」

 若くも幼くもなかった。純でも無垢でもなく、明るくも暗くもなく、少年でも老人でもなく、
愚か者でも賢者でもなかった。ただ徹底して、この世に合わない人物だった。
往き迷った魂が「青々して、何の音もしない」世界めざして、やや前かがみになり、
チビた下駄を見つめながら、トボトボと歩いていった。