民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
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「青春風土記」 (旧制高校物語) その4

2016年04月30日 00時56分05秒 | 雑学知識
 「青春風土記」 (旧制高校物語)  週刊朝日編 朝日新聞社 1978年

 名物教授 P-182

 漢文の福原竜蔵教授は、いろいろな意味で静高(静岡高校)名物教授の一人に数えられる。頭の形が逆三角形に似ているところから、彼のニックネームは栗のさかさまを意味する「リク」だった。
 映画監督の渡辺裕介(昭22・東大文)は、静高の仰秀寮へ入るとき、入り口のところで国民服を身にまとった小使いさんと見まちがうような中年男に会う。
「おじさん、ぼくの部屋、どこか知りませんか」
 質問した渡辺は、まもなく、その男が文学博士福竜蔵であることを知る。授業中に居眠りをすると、どんなに試験の成績がよくても最低点をつけるきびしい先生だった。

 工場動員先で渡辺は一人の女学生と仲よくなり、彼女の家を訪ねる。運悪く、彼女の父親はある学校の校長だった。事件はただちに静高当局へ通知された。渡辺は工場動員を解かれてただ一人、謹慎の意をふくめて学校農園で働かされた。
 リクさんは右翼のこちこちで、渡辺の処分を決めたのも彼だった。心に深い傷を受け、ひとりさびしく肥桶をかついでいた渡辺は、当時を回顧していう。
「あのときのせつなさ、くやしさは、いつまでも心に残った。男女交際がおおっぴらに許されている現在は考えられないことだ。数年前、リクさん死去の報をきいたときは複雑な気持ちで、いいようもなく悲しかった」


「青春風土記」 (旧制高校物語) その3

2016年04月28日 00時05分13秒 | 雑学知識
 「青春風土記」 (旧制高校物語)  週刊朝日編 朝日新聞社 1978年

 名物教授 P-109

 夏目漱石やラフカディオ・ハーンらが教鞭をとったことがあるので、教授陣は多彩をきわめた。なかでも龍南健児の話に必ず登場するのが英語の山県元治教授。別名ヤマガタガンバル。のちに首相になった池田勇人(大11)などは相当いためつけられた。京大を出て大蔵省に入った池田が、熊本税務監督局(いまの国税局)直税部長として赴任したおりの話。
「池田君は大蔵省に就職したというが、身分は属官かね」
「いや本雇いです」
「ほう、大蔵省ってのはいい役所だ。君みたいな者を高等官として入れてくれるなんて」

 山県教授の授業はきびしかった。生徒がくだらない質問をすると「愚問」の一喝。あてられてつまると40点、一度でも「できません」といってことわると30点。みんな震えあがった。そのせいか大学へ進んでからの五高出身者は英語のできが抜群だった。大内兵衛(明42・東大経)の話。
「1年のときは大学を出たばかりの厨川白村に習った。東大卒業のさいにもらった恩賜(おんし)の銀時計を机の上におき、生徒に約読させる。われわれにとって銀時計は無言の脅威だった。2年になって山県先生の講義を受ける。訳をつけているとき『もう一度』といわれたら、生徒の誤訳。生徒にとっては、このほうがこわかった。だまってエンマ帳に赤マル(落第点)をつけられたからである。


「青春風土記」 (旧制高校物語) その2

2016年04月24日 22時32分15秒 | 雑学知識
 「青春風土記」 (旧制高校物語)  週刊朝日編 朝日新聞社 1978年

 名物教授 P-57

 大正15年から旧制松本高校が姿を消す昭和25年まで数学を担当した蛭川幸茂教授。生徒たちは親しみをこめて「ヒルさん」または「ヒル公」と呼んだ。
 八高の理科から東大理学部数学科を出てすぐ赴任してきたので、はじめのころの生徒とは兄弟のようなつきあいをした。身長183センチの大男、陸上競技の投擲が大好き。衆議院議員佐々木良作(民社)はいう。
「東に美ケ原、西にアルプス、松高にヒル公」
 一度講義しただけでクラス全員の顔と名前をおぼえる。記憶力は抜群。容貌魁偉で、大食漢。陸上競技部のコンパで、どんぶり飯を10数杯平らげたという豪の者。

 文科の数学の授業も型破り。前半ちょっと講義をしたかと思うと、後半は芸者買いの話、歴代校長の武勇伝などを得意になって披露する。試験問題もユニークで、「私は子どものときからいかに数学から悩まされてきたか」などという題で感想文を書かせ、及第点を与えた。
 ズボンのベルトの代わりに麻縄で編んだ帯を締めて教壇に立つこともしばしば。八高出身なのに「おれは松本高OBだ」と称して譲らない。
 旧制松高が信州大になると、すぐやめた。「高等学校以外に真の教育の場があるとすれば、小学校しかない」といい残し、近隣の小学校の先生になった。どこまでも変わっている。いまなお元気で、愛知学院大の教授をつとめている。

「青春風土記」 (旧制高校物語) その1

2016年04月22日 00時10分58秒 | 雑学知識
 「青春風土記」 (旧制高校物語)  週刊朝日編 朝日新聞社 1978年

 名物教授 P-27

 (旧制水戸高校)文科の卒業生に話を聞くと必ず出てくるのが、数学担当の内藤珍麿教授の名前。正しくはウズマロだが、教え子たちは、異口同音にチンマロと呼ぶ。
 珍麿教授、文化生の数学嫌いを知り抜き、「ぼくだけが本気で講義をしてもしかたがない」が口癖だった。数学の時間の半分をイタリア語の講義に割く。試験はやさしく、問題を3っつほど示し、「中の一つを出すから、解答を暗記してこい」。
 数学が嫌いな生徒にはイタリア語の試験をして数学の点数を与えた。

 水戸高赴任直後は、東京に家を構えていた。土曜日最後の授業を15分ほどはしょって、上野行きの上がり列車にとび乗る。生徒の大半も東京出身なので、教授と同車、帰京する。
 水戸に住むようになると、当時としてはめずらしいオートバイで通学。いってみれば暴走族の走り。生徒が乗せてくれといえば気軽に後部座席を提供した。珍麿教授のカーキチぶりはさらにエスカレートする。昭和10年代になると、外車のパッカードで通う。
 元朝日新聞社出版局長岡田任雄(昭9・東大法)が作った「水高数え歌」の7番目に出てくる。
「7つ出たわの よさほいのほい 内藤珍麿オートバイ ほい 末は千波の水の底 ほいほい」
 千波は水戸市内の湖。珍麿教授は昭和30年1月、死去した。


「夢を売る男」 百田 尚樹

2016年04月20日 00時35分22秒 | 雑学知識
 「夢を売る男」 百田 尚樹  太田出版 2013年

「(前略) 固定客ばかり相手にして、同じメニューばかり出している店は、やがてじり貧になって閉店してしまうのと同じだ」
「でも、新らしいメニューに挑戦して失敗したら、元も子もないですよ」
「それはそうだ。だからたいていの作家は、自分の得意料理だけを後生大事に作り続ける」
 牛川原(うしがわら)の言葉に、荒木はうーんと唸った。
「かといって、元テレビ屋の百田何某(なにがし)みたいに、毎日、全然違うメニューを出す作家も問題だがな。前に食ったラーメンが美味(うま)かったから、また来てみたらカレー屋になっていたるような店に顧客がつくはずもない。しかも次に来てみれば、たこ焼き屋になってる始末だからな――」
「馬鹿ですね」
「まあ、直(じき)に消える作家だ。とにかく、後世に残る作家というのは、常に新らしい読者を生み出す小説が書ける作家だ。ある世代の人たちに熱狂的に受け入れられても、その世代が消えたらお終(しま)いだ」 P-205 (作者(百田尚樹)が作品の中で自分のことを皮肉っている)

「ところで、部長」と荒木が言った。「前から疑問に思っていたのですが、いい文章って何ですか? 」
「読みやすくてわかりやすい文章だ。それ以上でも以下でもない」
「でも、それっていわゆる文学的な文章というのとは少し違いますよね」
 荒木の質問に、牛川原は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「書評家や文学かぶれの編集者が言う文学的な文章とは、実は比喩のことなんだ」
「比喩――ですか」
「たとえば単に『嫌な気分』と書くのではなくて、『肛門から出てきた回虫が股ぐらを通って金玉の裏を這いまわっているような気分』などと書くのが文学的な文章というわけだ」 P-208