民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「安吾のバクダン」  小池真理子

2014年06月20日 00時59分02秒 | エッセイ(模範)
 「闇夜の国から二人で舟を出す」 エッセイ集  小池真理子 著  新潮文庫 2008年

 「安吾のバクダン」 P-106

 高校をさぼっては、コクヨの400字詰原稿用紙を鞄にしのばせ、ジャズ喫茶だのバロック喫茶だのに入りびたっていた時期が私にはあった。
ミニスカートの足を組み、左手に煙草、右手に万年筆、という格好で青くさい詩や散文を書き綴ることだけで日が暮れていった。
思い出すのも気恥ずかしい、愚かしいような日々であった。

 外では学園紛争の嵐が吹き荒れていた。
闘争に疲れた学生が焼身自殺し、知っている男の子は機動隊に歯をへし折られ、ノーブラにヘルメット姿でデモに参加する女の子のお腹の中では、同志との間にできたバリケード・ベビイがすくすく育っていたりした。

 それは日常そのもの、街そのものが非現実のドラマの舞台と化した、一種、狂躁の祭りのような時代であった。
少なくとも私にとってはそうだった。
だが、今になって少し上の世代の人に気楽にそんな話をすると、ごくたまにではあるが、本気で怒り出す人がいるのには驚かされる。
あれが祭りだって? と声を荒げて、聞き返される。
あれは厳粛な政治の季節であったのだ。
俺たちにとって命を賭けた聖戦であったのだ・・・というわけだ。

 いい年をして、妻や子も住宅ローンもあって、守らねばならないものを山のように抱えこんで、にっちもさっちもいかなくなった人生に目をつぶりつつ、まだそういう子供じみた夢想に本気ですがりついて生きている人間がいる。
そんな可哀相な人間に会うたびに私は、安吾だったら、どう言うかな、と考えてしまうのである。

 戦争と、あの長閑に思いあがった学生たちの市街戦とは比べるのもおこがましいし、比べてしかるべきものなど何ひとつないことは承知している。
それでも安吾だったら、学生と機動隊が衝突する深夜の市街戦で火炎瓶が炸裂し、焔が上がる様がきれいだったと言うかもしれない。
破れたアジビラが散乱し、血や反吐(へど)や汗や泥で汚れ放題汚れ、水びたしになった道路が、近隣の遅くまで開いている飲み屋のネオンを受けてぎらぎら光っている虚しい風景は、何よりも美しかった、と言うかもしれない。
若者たちが無邪気に、真摯に、思想という名がついた玩具と戯れ続け、毎日毎日、偉大な破壊を目指して生きていられた時代・・・その意味で、あれは確かに祭りだったのさ、と言ってくれるかもしれない、そんな気がしてならないのである。

 中略(安吾の作品、「青鬼の褌を洗う女」について言及)

 戦火の中を逞しく健気に生きぬいた女を描いた作家は大勢いる。
何も安吾だけではあるまい。言うまでもなく、女は生まれながらにして逞しい生き物である、いざとなれば、からだを売ったり、男たちに媚びて欲しいものを手に入れたりすることに何の痛痒も感じないでいられる。
そのことは、現代を生きる若い女ならなおのこおt、よく承知しているはずである。

 だが、漆黒の闇を駆け抜ける銀色のB29を美しいと思い、花火のごとくきらきらと舞い降りてくる焼夷弾や、地上を舐めつくす焔を美しいと思うような、そんな女を正面から描いた作家はいなかった。
戦争が終わったから、自分が爆弾になるしかない、と書いた作家はいなかった。
極限まで追いつめられていることがわかっていて、そのことを生あくびを噛み殺すがごとく眠たげにぼんやりと受け入れ、あげく、焼け野原に超然と立ってみせる女の充足した肉体に、若い頃の私は酔わされ、酔わされたまま大人になったのだった。

 聖性に至る堕落、とでも言うのだろうか。
「日本文化私観」を引き合いに出すまでもなく、生きていくことと、堕ちていくこととの間に横たわる、ひりひりとした何かを安吾はあの、ラディカルな、リズミカルな文章の中にきわめて観念的に凝縮させる。
その麻薬のような文体に、私はどれほど惹かれたことだろう。
堕ちて生きよ、と安吾は言う。
堕ちていくことの本当の意味がこれほど強く伝わってくる作家はいなかった。

 安吾の作品には片仮名表記が目立つ。
デタラメ、カラッポ、ガランドウ、ガッカリ、ハッキリ、ヒルネ、チッポケな・・・等々。
普通の作家なら漢字か平仮名にするであろう言葉を彼は平然と片仮名書きにしてしまう。

 それは一種の軽みの強調なのかもしれず、そう思って読み返してみれば、安吾が大時代的な大仰な表現を悉く嫌っているのがわかる。
賢しげで観念的な表現はあえて避け、故意に軽々しく、いくらかの照れを孕ませつつも、安吾は抽象的な問題をあくまでも平易に作品化しようと試みる。

 そこに私は彼の自嘲を見る。
彼はいつも自分を笑っている。
生真面目な顔をして、眉間に皺を寄せたりは決してしない。ニタニタ、ニヤニヤ笑いながら、遠くにゆるやかな視線を泳がせつつ、安吾は読者に向かって、鋼のように、弾丸のように固く重たい何かをずしりと突きつけてくるのである。

 後略

「おじさん」の顔 マイ・エッセイ 6

2014年06月18日 00時41分05秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「おじさん」の顔
                              
 去年の11月『おじさんの顔が空に浮かぶ日』というプロジェクトが始まった。
宇都宮美術館が「街中で市民と何かやれないか」をコンセプトに、全国各地で創作に取り組む若手作家四人に協力を依頼して実施することになった企画である。
 今年(2014年)の夏に予定していて、「どんなおじさんの顔にするか」や「空に浮かべる方法」などはまだ未定だが、いまはイメージをふくらませるための「おじさんの顔の収集」が主な活動で、被写体になってくれる「おじさん」を募集している。
 「おじさん」といっても年齢ではなく、自分を「おじさん」と思っている人なら誰でもいいらしい。「女性でもいいのかな」ってツッコミを入れたけど、まだ名乗りをあげた人はいないようだ。
 しかし、なんで「おじさんの顔」なのか。「おばさんの顔」ではいけないのか。男の顔の方が絵になるということなのだろうか。
 募集の拠点としてユニオン通りに「顔収集センター」を設け、そこからスタッフがリヤカーを改造した「顔収集カー」に機材一式を積み、「おじさんの顔を集めています」と書いたのぼりを立てて、街の中を流し歩いていたから、目にした方も多いのではないだろうか。わたしも何度か出会って、声をかけられたが、(まだおじさんと呼ばれるには早い)と粋がって断っていた。
 そうしたある日、ちょっとした好奇心で「顔収集センター」に入ってみた。壁一面におじさんの写真が貼ってあり、その中に何人か知ってる顔を発見する。「へぇー、あいつが。・・・こいつも。」と、親しみがわいてきた。
 お礼にポストカードも作ってくれるという。(それじゃ、オレも)と、撮ってもらうことにした。写真撮影用のおじさんグッズもそろっていて、わたしは昔の文士がかけているような丸いメガネとパイプを選んだ。メガネはかけたことはないが、パイプは一時期、凝ったことがある。
 写真を撮ると、それほど待たずに、八幡山公園をバックにした空に、自分の顔が浮かんでいるポストカードができあがった。下のスペースに自分の好きな言葉もプリントしてある。わたしは「こんな大人になりたいっていう大人になりたい」と入れてもらった。いまのわたしの心をとらえて離さない言葉である。

 仕事をリタイアしてから、わたしのまわりには平日の昼間に遊んでいる年寄りが多くなった。そんな年寄りを見ていて、顔というものはつくるもの、つくられるものだなあと、つくづく思う。いいことをしてきた人はいい顔に、悪いことをした人は悪い顔になる、こわいものだと思う。人の顔を見て、この人はどんな人生を送ってきたかを想像するのはなかなかに楽しい作業である。
 そんななかで、ごくまれにだが、(こんな年寄りになりたいな)って思わせる人に出会うことがある。そんなとき、わたしは(おぬし、やるな)と心の中で拍手を送る。
 なかには、(こんな年寄りになりたくないな)って思わせる人に出会うこともある。そんなとき、わたしは(油断するとあんな風になってしまうぞ)と気を引き締める。そういう顔も反面教師としての存在価値があるかもしれないが、できることなら、悪い見本にはなりたくないものだ。

 わたしも若いときは誰でもそうであるように、大人の欺瞞に満ちた世界を許せない潔癖さをもった人間だった。それと戦うエネルギーとそれを支える体力もあった。だが、年を取ると共にだんだんエネルギーも体力もなくなってきた。わたしは転げ落ちるように大人になっていった。
 だが、大人になることも悪いばかりではない。大人にならないとわからないこともある。エネルギーがなくなればそれなりに、力を上手に使えるようになるし、体力がなくなればそれはそれで、弱者に対する優しさを身につけていくことになる。
 いま、わたしは大人になった。バスの中で立っていれば、席を譲られてもおかしくないリッパな「おじさん」になった。まだ譲られたことはないけれど、そのときは明日かもしれない。
 ときどき自分の思うように動けなくなった体にいじやき、若いときをうらやむこともあるが、振り返れば若さとはなんと「無知」で、「青くさい」ものだろうと思う。
 こう言っては「ないものねだりのひがみ」に聞こえるだろうか。
   

「大人の女」 小池真理子

2014年06月16日 00時35分56秒 | エッセイ(模範)
 「闇夜の国から二人で舟を出す」 エッセイ集  小池真理子 著  新潮文庫 2008年

 「大人の女」 P-203

 日本にはおばさんと少女しかいない・・・そんなふうに嘆く外国人の男性は多い。

 まさにその通りで、日本の女性は「少女」を卒業すると「女」にはならず、或る時からいきなり「おばさんになる瞬間」とでもいうものがあるのではないか、と思われるほど、その変わり身は素早い。

 装い、佇まい、口にする言葉、価値観、生き方、そのどれを取ってみても、「おばさん」化していて、もうどこを探しても「女」が片鱗も見えてこない、という人もいる。
皺の数、老化の度合い、容貌の美醜、太っているか痩せているか、何もかも関係がない。
その人個人の内部にある何かが、「少女」から「おばさん」というモードにためらいもなくスイッチを切り替えてしまう。
不思議である。

 言わずもがな、であるが、「大人の女」と「おばさん」とは全く意味が違う。
「おばさん」はどれほど外で華美な服装、お金のかかった装いをしていても、それを脱ぎ捨ててしまったら、「普段着のおばさん」でしかなくなる。
一方、「大人の女」は白いシャツ一枚にジーンズ、という簡素ないでたちであっても、あるいは極端に言うと裸になってさえ、「大人の女」の色香を漂わせる。

 この違いはどこからくるのだろう。
年齢を重ねることが恥ずかしいこと、悲しいこと、つまらないこと、と思い込んでいる人ほど、「大人の女」「シックで洗練された女」から、いつのまにか遠くかけ離れていくような気もする。

 とはいえ、若さ幻想が根強くはびこる当然かもしれない。
だが、「少しでも若く見られたい」と外見を取り繕う努力をしていくことは、一見、素晴らしいことのようであって、そお意識の奥底には若さを失っていくことに対する恥ずかしさと諦めが潜んでいる。

 年齢を重ねることを恥ずかしい、と思っている限り、女としての誇りなど生まれるはずもない。
誇りがなければ自信をなくして外見を飾りたてているだけでは、誰もが「おばさん」になって当然だろう。

 女性の老いを促進させ、「女」であることから遠ざからせていくのは年齢ではない。
私たちの内部に静かに吹き続けている風のあり方こそが、私たち自身を老いに向かわせるのだと私は考えている。
自分の中に、穏やかで、時には烈しく情熱的な、それでいて優しい、凛と澄みわたった風を吹かせている人は、幾つになっても魅力を失うことがない。

 「大人の女」「格好いい女」というのは、結局のところ、そういう人のことを言うのだろう。

「日本語の呼吸」 その4 鴨下 信一

2014年06月14日 00時41分07秒 | 朗読・発声
 「日本語の呼吸」  鴨下 信一 著  筑摩書房 2004年

 読点「、」のところで、いつも同じ間(ま)をとっている。

 これがどんなに下手に聞こえるもとになっているか。
 読点の「間(ま)」はおなじでなければならないなんてルールはありません。
それなのに機械的にそう読んでしまう人は、とても多いのです。

 読点の「間」は、長さ自由の「間」です。
本当のコツはこれです。

 読点の「間」を三つに分ける。

 ① (、)読点一つ分 息を止めるが、吸わない。

 ② (、、) 読点二つ分 息を止めて、ちょっと吸う。

 ③ (、、、)読点三つ分 息を大きく吸う。

 (このあとこれについての詳細な説明がある)

 人間の呼吸と声(音)の関係はとても興味深い。
よく、読んでいる間に苦しくなって息が続かなくなることがあります。
こういう時、吸おうと思ったらまず駄目。
息を止めれば反射的に短く息が入って来ます。
それで駄目なら、吸わないで逆に吐くつもりになってごらんなさい。
不思議にサーッと息が入って来ます。

 中略

 句点「。」はふつう③の読点の間で読みます。
それ以上に長くなることもありますが、逆に②の読点の間ぐらいに短くなることもある。

「日本語の呼吸」 その3 鴨下 信一

2014年06月12日 01時08分10秒 | 朗読・発声
 「日本語の呼吸」  鴨下 信一 著  筑摩書房 2004年

 「<読解>のためばかりでなく<表現>のためにも句読点を打つ」 P-13

 <読解>のための句読点、つまり文の構成にそって打たれた句読点と<表現>のための句読点、
いわば声に出して読むときの呼吸に従って打った句読点が<混在>している。
そのうえ悪いことに、全体の句読点の数を抑えるために、いくつかの句読点が<省略>されている。

 この混在と省略のために、句読点の問題は混乱し、あいまいです。
しかもほとんど法則がない。

 「自分で句読点を打ち直してみる」

 この習慣さえつけば何でもない。
 ひとつ断っておきます。
 自分で自由に句読点を打てというと、なんだか作者、いま声に出して読もうとしている
文章の書き手に悪いのじゃないか、テキストに対する尊敬心がないと思われるんじゃないか、
という遠慮を持つ人がいますが、そんな遠慮はぜんぜん必要ありません。
 なぜなら自分で句読点を打つためには、原文をとことん読みつくすことが必要だからです。

 1)省略されて隠れている句読点がわかって、文の構成が理解されてくる。

 2)書き手が表現のために打った句読点から、
書き手の要求している表現はこうなんだとわかってくる。

 このテキストの読み込みこそが作者に対する最大の敬意だと思うのです。
そのうえで自分の表現はこうすると決定するのです。
これは読み手という表現者の当然の権利なのですよ。
書いてある句読点どおりに機械的にただ読むことこそ、作者に対する侮辱じゃないでしょうか。