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「大人の女」 小池真理子

2014年06月16日 00時35分56秒 | エッセイ(模範)
 「闇夜の国から二人で舟を出す」 エッセイ集  小池真理子 著  新潮文庫 2008年

 「大人の女」 P-203

 日本にはおばさんと少女しかいない・・・そんなふうに嘆く外国人の男性は多い。

 まさにその通りで、日本の女性は「少女」を卒業すると「女」にはならず、或る時からいきなり「おばさんになる瞬間」とでもいうものがあるのではないか、と思われるほど、その変わり身は素早い。

 装い、佇まい、口にする言葉、価値観、生き方、そのどれを取ってみても、「おばさん」化していて、もうどこを探しても「女」が片鱗も見えてこない、という人もいる。
皺の数、老化の度合い、容貌の美醜、太っているか痩せているか、何もかも関係がない。
その人個人の内部にある何かが、「少女」から「おばさん」というモードにためらいもなくスイッチを切り替えてしまう。
不思議である。

 言わずもがな、であるが、「大人の女」と「おばさん」とは全く意味が違う。
「おばさん」はどれほど外で華美な服装、お金のかかった装いをしていても、それを脱ぎ捨ててしまったら、「普段着のおばさん」でしかなくなる。
一方、「大人の女」は白いシャツ一枚にジーンズ、という簡素ないでたちであっても、あるいは極端に言うと裸になってさえ、「大人の女」の色香を漂わせる。

 この違いはどこからくるのだろう。
年齢を重ねることが恥ずかしいこと、悲しいこと、つまらないこと、と思い込んでいる人ほど、「大人の女」「シックで洗練された女」から、いつのまにか遠くかけ離れていくような気もする。

 とはいえ、若さ幻想が根強くはびこる当然かもしれない。
だが、「少しでも若く見られたい」と外見を取り繕う努力をしていくことは、一見、素晴らしいことのようであって、そお意識の奥底には若さを失っていくことに対する恥ずかしさと諦めが潜んでいる。

 年齢を重ねることを恥ずかしい、と思っている限り、女としての誇りなど生まれるはずもない。
誇りがなければ自信をなくして外見を飾りたてているだけでは、誰もが「おばさん」になって当然だろう。

 女性の老いを促進させ、「女」であることから遠ざからせていくのは年齢ではない。
私たちの内部に静かに吹き続けている風のあり方こそが、私たち自身を老いに向かわせるのだと私は考えている。
自分の中に、穏やかで、時には烈しく情熱的な、それでいて優しい、凛と澄みわたった風を吹かせている人は、幾つになっても魅力を失うことがない。

 「大人の女」「格好いい女」というのは、結局のところ、そういう人のことを言うのだろう。