民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「日本語の呼吸」 その3 鴨下 信一

2014年06月12日 01時08分10秒 | 朗読・発声
 「日本語の呼吸」  鴨下 信一 著  筑摩書房 2004年

 「<読解>のためばかりでなく<表現>のためにも句読点を打つ」 P-13

 <読解>のための句読点、つまり文の構成にそって打たれた句読点と<表現>のための句読点、
いわば声に出して読むときの呼吸に従って打った句読点が<混在>している。
そのうえ悪いことに、全体の句読点の数を抑えるために、いくつかの句読点が<省略>されている。

 この混在と省略のために、句読点の問題は混乱し、あいまいです。
しかもほとんど法則がない。

 「自分で句読点を打ち直してみる」

 この習慣さえつけば何でもない。
 ひとつ断っておきます。
 自分で自由に句読点を打てというと、なんだか作者、いま声に出して読もうとしている
文章の書き手に悪いのじゃないか、テキストに対する尊敬心がないと思われるんじゃないか、
という遠慮を持つ人がいますが、そんな遠慮はぜんぜん必要ありません。
 なぜなら自分で句読点を打つためには、原文をとことん読みつくすことが必要だからです。

 1)省略されて隠れている句読点がわかって、文の構成が理解されてくる。

 2)書き手が表現のために打った句読点から、
書き手の要求している表現はこうなんだとわかってくる。

 このテキストの読み込みこそが作者に対する最大の敬意だと思うのです。
そのうえで自分の表現はこうすると決定するのです。
これは読み手という表現者の当然の権利なのですよ。
書いてある句読点どおりに機械的にただ読むことこそ、作者に対する侮辱じゃないでしょうか。