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「おじさん」の顔 マイ・エッセイ 6

2014年06月18日 00時41分05秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「おじさん」の顔
                              
 去年の11月『おじさんの顔が空に浮かぶ日』というプロジェクトが始まった。
宇都宮美術館が「街中で市民と何かやれないか」をコンセプトに、全国各地で創作に取り組む若手作家四人に協力を依頼して実施することになった企画である。
 今年(2014年)の夏に予定していて、「どんなおじさんの顔にするか」や「空に浮かべる方法」などはまだ未定だが、いまはイメージをふくらませるための「おじさんの顔の収集」が主な活動で、被写体になってくれる「おじさん」を募集している。
 「おじさん」といっても年齢ではなく、自分を「おじさん」と思っている人なら誰でもいいらしい。「女性でもいいのかな」ってツッコミを入れたけど、まだ名乗りをあげた人はいないようだ。
 しかし、なんで「おじさんの顔」なのか。「おばさんの顔」ではいけないのか。男の顔の方が絵になるということなのだろうか。
 募集の拠点としてユニオン通りに「顔収集センター」を設け、そこからスタッフがリヤカーを改造した「顔収集カー」に機材一式を積み、「おじさんの顔を集めています」と書いたのぼりを立てて、街の中を流し歩いていたから、目にした方も多いのではないだろうか。わたしも何度か出会って、声をかけられたが、(まだおじさんと呼ばれるには早い)と粋がって断っていた。
 そうしたある日、ちょっとした好奇心で「顔収集センター」に入ってみた。壁一面におじさんの写真が貼ってあり、その中に何人か知ってる顔を発見する。「へぇー、あいつが。・・・こいつも。」と、親しみがわいてきた。
 お礼にポストカードも作ってくれるという。(それじゃ、オレも)と、撮ってもらうことにした。写真撮影用のおじさんグッズもそろっていて、わたしは昔の文士がかけているような丸いメガネとパイプを選んだ。メガネはかけたことはないが、パイプは一時期、凝ったことがある。
 写真を撮ると、それほど待たずに、八幡山公園をバックにした空に、自分の顔が浮かんでいるポストカードができあがった。下のスペースに自分の好きな言葉もプリントしてある。わたしは「こんな大人になりたいっていう大人になりたい」と入れてもらった。いまのわたしの心をとらえて離さない言葉である。

 仕事をリタイアしてから、わたしのまわりには平日の昼間に遊んでいる年寄りが多くなった。そんな年寄りを見ていて、顔というものはつくるもの、つくられるものだなあと、つくづく思う。いいことをしてきた人はいい顔に、悪いことをした人は悪い顔になる、こわいものだと思う。人の顔を見て、この人はどんな人生を送ってきたかを想像するのはなかなかに楽しい作業である。
 そんななかで、ごくまれにだが、(こんな年寄りになりたいな)って思わせる人に出会うことがある。そんなとき、わたしは(おぬし、やるな)と心の中で拍手を送る。
 なかには、(こんな年寄りになりたくないな)って思わせる人に出会うこともある。そんなとき、わたしは(油断するとあんな風になってしまうぞ)と気を引き締める。そういう顔も反面教師としての存在価値があるかもしれないが、できることなら、悪い見本にはなりたくないものだ。

 わたしも若いときは誰でもそうであるように、大人の欺瞞に満ちた世界を許せない潔癖さをもった人間だった。それと戦うエネルギーとそれを支える体力もあった。だが、年を取ると共にだんだんエネルギーも体力もなくなってきた。わたしは転げ落ちるように大人になっていった。
 だが、大人になることも悪いばかりではない。大人にならないとわからないこともある。エネルギーがなくなればそれなりに、力を上手に使えるようになるし、体力がなくなればそれはそれで、弱者に対する優しさを身につけていくことになる。
 いま、わたしは大人になった。バスの中で立っていれば、席を譲られてもおかしくないリッパな「おじさん」になった。まだ譲られたことはないけれど、そのときは明日かもしれない。
 ときどき自分の思うように動けなくなった体にいじやき、若いときをうらやむこともあるが、振り返れば若さとはなんと「無知」で、「青くさい」ものだろうと思う。
 こう言っては「ないものねだりのひがみ」に聞こえるだろうか。