京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート. 『科学と非科学』

2019年06月03日 | KIMURAの読書ノート
『科学と非科学』
中屋敷均 著 講談社 青木健生 シナリオ 小学館 2019年2月

しばし、とある事象について述べた時、「科学的でない」とか「根拠が明確でない」と一蹴されることがある。確かに理屈では説明できないけれど、それでも自身が体験したこと、経験したことは明らかな肌感覚として残っている。しかし、他者からすれば、それは説明つかなければ胡散臭ものとなってしまう。著者の言葉を借りれば、『現代において「非科学的」というレッテルは、中世の「魔女」のような「異端」の宣告を感じさせる強い力をもっている(p6)』ということなのだろう。だが、著者は続ける『果たして科学という体系は、本当にその絶大な信頼に足るほど強靭な土台に建っているものなのだろうか』、『「科学的」なものと「非科学的」なものは、そんなに簡単に区別できて、一方を容赦なく「断罪」できるものなのか?また、「科学的な正しさ」があれば、現実の問題は何でも解決できるのだろうか?』と問いかけている。本書はこの問いに対して、著者が論じているものである。

第1章では、様々な事例を挙げて、先の問いに対する著者なりの結論に導いている。前提として「科学」というのを考える上では、重要なポイントが1つあるという。それは、科学的な物の考え方の基礎には、この世界は「法則」に支配されていて、同じことをすれば同じ結果が返ってくることが前提となっている。分かり易く言えば、学校の教科書で学ぶ各種の公式がそれに当てはまる。しかし、現実の世界では、同じことをしても同じ結果が返って来ないことは多くある。それは、公式などは理想的条件下で行われた場合であり、現実には理想条件下では無視できるような微弱な力や因果律の作用が大きくなるからだと著者は指摘している。こうなると科学的な考え方の「法則」から現実の世界は外れることになる。また別の視点で科学的な知見を不確かにしてしまう事例として「安全」と言われている「医薬品や食品添加物」について挙げられている。科学的に検査やデータを取った上で「安全」としているが、「絶対安全」とは言われず「大体安全」とされている。それは、ある化合物単独の毒性は調べられていても混合された時の組み合わせは多すぎて、現実的には検査対象になっていないからである。しかし、一般的には科学的に検査をしてこれを「大体安全」としている。だが、現実は「科学的に検査をしていない」部分も含めての表現である。最終的に著者は『「科学と似非科学の間に境界線が惹けるとするならそれは何を対象としているかではなく、実はそれに関わる人間の姿勢によるのみなのではないかと私は思う』としている。また、著者は現在の社会で「科学的な根拠」の確からしさを判断する方法として、世界的な学術誌に掲載されたからとか、有名大学教授が言っていることだからという権威主義に基づいたものが特別な位置に置かれているからだとも指摘している。しかし、これは権威にしがみついているだけだと著者は一蹴している。

第2章は、第1章のことを踏まえた上で、「科学は不確かなものである」ということを前提として、科学が進歩してきた歴史や、そのリスク、また現在の競争原理や大学における研究について語られている。そして、最終的には「科学」であろうが「非科学」であろうが、「意志のある選択」というのが人は大切ではないのかということで本書はまとめられている。

「科学」とはこれまで理論づけられ割り切れるものと信じていたが、本書を読むと現実の「科学の現場」の実態を知り、以外にも「科学」が全く違う様相を見せ、ただただ、自分自身「科学」という言葉に振り回されていたことに気づかされる。約20年前に政府は科学技術創造立国を目指すという答申を発表しているが、日本がイメージする「科学」とは一体何なのか、もう一度立ち止まって考える必要があるのではないだろうか。
=======

文責 木村綾子

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする