『ばーちゃんがゴリラになっちゃった。』
青山ゆずこ 著 徳間書店. 2018年4月
前回の「読書ノート」で認知症に罹患した人がスタッフとして働いた試験的レストランを紹介した本を取り上げた。ここでは例え「記憶」を失うという症状であってもサポートがあれば「働ける」ということを実践した場であり、その機会を奪うことは社会としてどうなのかという問題を提起するルポタージュであった。今回は認知症の患者を抱える家族を在宅で介護をする様子を描いた著書を紹介する。
著者は当時25歳で都内まで電車一本で職場まで行けるという単純な理由で祖父母の自宅に引っ越すことにした。すでに祖父母が共に認知症で彼女の母親が介護に祖父母宅に介護のために通っていたことは知っていたが、著者の言葉を借りれば「心のどこかで『まーなんとかなるだろう』と軽く考えていた」。しかし現実は想像を絶するものがあり、孫が引っ越してきてもすでに著者が「孫」であるということすら「認知」出来ていなかったばかりか、朝起きて台所に赴くとコンロにかけっぱなしの魚から煙が出てボヤ騒ぎ。その中で平然とご飯を口にしている祖父母。更にそのご飯は夏場に炊飯器に1週間は放置されてカビなどが生えていたもの。ただ、これは本書の第1章での出来事であり、実はまだ序の口。著者がここで更に生活を進めることで事態が一層深刻化していくことが、1ページめくるごとにくっきりしてくる。認知症の症状は人それぞれで一概に「こうである」とは言えないが、著者の場合、とりわけ祖母の症状はかなり重症で「新しいもの」を組み込むということを受け付けず、彼女の部屋のものは彼女が仕事に出ている最中に全て放り出されたり、彼女が眠っている時に、こっそり部屋に侵入し、彼女の身ぐるみをはがすという行為にまで及んでいる。肉体的には元気な上、もともと「超怪力」だったために、このことを可能としているが、これは彼女だけに被害が及んでいるのではなく、近隣にまで至っており、幾ら25歳で健康的な若者であったにしろ、数日で心身が辟易することが手に取るように分かる。
本書は、コミックエッセイの形をとっており、祖父母の症状をコミカルに描いているが、笑えるはずの場面でも笑うことができないほど深刻なことばかりであった。最初は「まーどうにかなる」と思っていた著書も、両親や叔父叔母、更には従姉妹を巻き込み、介護体制を整えていく様子も描かれているが、それでも好転するという状況には至っていないどころか、祖父母に翻弄され、壊れていく様子が描かれている。タイトルの「ゴリラ」が適切かというと分からないが、前書と異なり、そこに「人の尊厳」を考えるゆとりすらない介護の現実が立ちふさがっている。これもまた「認知症」の一面なのであることを、まざまざと見せつけられる。
彼女は力の強い祖母に幾度となく自宅で殴られ、ケガをしている(それを音声データとして残している)。彼女はそれを「…ぶっちゃけその時私もばーちゃんを殴る寸前でその時思ったんだよね。『介護虐待ってめちゃくちゃ身近な話じゃん』って」という言葉で語っているが、実際は彼女が認知症の祖母に先に「虐待」を受けている。このような現実はなかなか表ざたになることはないが、もしかしたら、「介護虐待」と同じくらい多い出来事ではないのだろうか。
前書も今回も「認知症」という複雑で難しい病気について書かれた本を紹介したが、どちらにしろ言えることは、周りのサポートが必要な病気ということであるということは明確に感じた。
===== 文責 木村綾子
青山ゆずこ 著 徳間書店. 2018年4月
前回の「読書ノート」で認知症に罹患した人がスタッフとして働いた試験的レストランを紹介した本を取り上げた。ここでは例え「記憶」を失うという症状であってもサポートがあれば「働ける」ということを実践した場であり、その機会を奪うことは社会としてどうなのかという問題を提起するルポタージュであった。今回は認知症の患者を抱える家族を在宅で介護をする様子を描いた著書を紹介する。
著者は当時25歳で都内まで電車一本で職場まで行けるという単純な理由で祖父母の自宅に引っ越すことにした。すでに祖父母が共に認知症で彼女の母親が介護に祖父母宅に介護のために通っていたことは知っていたが、著者の言葉を借りれば「心のどこかで『まーなんとかなるだろう』と軽く考えていた」。しかし現実は想像を絶するものがあり、孫が引っ越してきてもすでに著者が「孫」であるということすら「認知」出来ていなかったばかりか、朝起きて台所に赴くとコンロにかけっぱなしの魚から煙が出てボヤ騒ぎ。その中で平然とご飯を口にしている祖父母。更にそのご飯は夏場に炊飯器に1週間は放置されてカビなどが生えていたもの。ただ、これは本書の第1章での出来事であり、実はまだ序の口。著者がここで更に生活を進めることで事態が一層深刻化していくことが、1ページめくるごとにくっきりしてくる。認知症の症状は人それぞれで一概に「こうである」とは言えないが、著者の場合、とりわけ祖母の症状はかなり重症で「新しいもの」を組み込むということを受け付けず、彼女の部屋のものは彼女が仕事に出ている最中に全て放り出されたり、彼女が眠っている時に、こっそり部屋に侵入し、彼女の身ぐるみをはがすという行為にまで及んでいる。肉体的には元気な上、もともと「超怪力」だったために、このことを可能としているが、これは彼女だけに被害が及んでいるのではなく、近隣にまで至っており、幾ら25歳で健康的な若者であったにしろ、数日で心身が辟易することが手に取るように分かる。
本書は、コミックエッセイの形をとっており、祖父母の症状をコミカルに描いているが、笑えるはずの場面でも笑うことができないほど深刻なことばかりであった。最初は「まーどうにかなる」と思っていた著書も、両親や叔父叔母、更には従姉妹を巻き込み、介護体制を整えていく様子も描かれているが、それでも好転するという状況には至っていないどころか、祖父母に翻弄され、壊れていく様子が描かれている。タイトルの「ゴリラ」が適切かというと分からないが、前書と異なり、そこに「人の尊厳」を考えるゆとりすらない介護の現実が立ちふさがっている。これもまた「認知症」の一面なのであることを、まざまざと見せつけられる。
彼女は力の強い祖母に幾度となく自宅で殴られ、ケガをしている(それを音声データとして残している)。彼女はそれを「…ぶっちゃけその時私もばーちゃんを殴る寸前でその時思ったんだよね。『介護虐待ってめちゃくちゃ身近な話じゃん』って」という言葉で語っているが、実際は彼女が認知症の祖母に先に「虐待」を受けている。このような現実はなかなか表ざたになることはないが、もしかしたら、「介護虐待」と同じくらい多い出来事ではないのだろうか。
前書も今回も「認知症」という複雑で難しい病気について書かれた本を紹介したが、どちらにしろ言えることは、周りのサポートが必要な病気ということであるということは明確に感じた。
===== 文責 木村綾子