『臨床の砦』
夏川草介 作 小学館 2021年4月
地域で唯一感染症指定機関である信濃山病院での2021年1月3日から1か月の出来事をここでコロナ診療に従事する敷島の目を通して描かれた物語である。
と言っても完全なるフィクションではない。作者自身、現在長野県で地域医療に従事する現役内科医である。勤務先は感染症指定医療機関としてコロナ患者を受け入れ、作者自身現場の最前線に立っており、その経験を物語にしている。帯の言葉を借りれば「ドキュメント小説」である。
この作品で描かれた時期は国内で「第3波」と言われていた時期であり、都市部では非常事態宣言が発令された時期と重なる。ニュースでは東京都をはじめとする都市部でのウイルスの感染状況について報道されることはあったが、地方のことはなかなか知ることはない。しかし、この作品から地方であっても第3波の影響は大きく、医療崩壊をしていることが明らかとなる。その中で苦悩や葛藤をしながらも患者や自身の家族、同じ現場の同僚たちと向き合いながら日々格闘していく姿には物語であろうとただただ感服するばかりである。
作品の中では多くの医療人たちの叫びが投影されている。それのみをここに引用していくだけで、現場の臨場感と作者の思いが伝わるのではないだろうか。
・去年の感染一波、二波のときに、うまくいきすぎたんだよ。~略~ その成功体験が残念ながら裏目に出ているんだと思う。あの時とは比較にならない大きな波の気配があるのに、役所の対応は鈍重で、周辺の医療機関も無警戒。一般人の態度も明らかに緩んで見える(p19)
・この間なんか、新規感染者は若い元気な世代ばかりだから、医療にはすぐには影響が出ない。まずは冷静に対応を、なんて言ってる専門家がいましたが、一度頭のCTでも撮った方がいいんじゃないかと思いますよ(p30)
・僕たちは、毎日命を危険にさらしながら働いているんですよ。でもその分を保証しろなんて言いません。だいたい世の中のほとんどの人たちは、なんにも言わずに黙って耐えてるんです。テレビだけがバカみたいに、国中の人が経済を心配して不安と不満を抱えているみたいな報道してるんじゃないですか。お金の話も大事でしょうが、死んだらどうにもならないんですよ(p32)
・かつてない敵の大部隊が目の前まで迫っているのに、抜本的な戦略改変もせず、孤立した最前線はすでに潰走寸前であるのに、中央は実行力のないスローガンを叫ぶばかりで具体案は何も出せない。国家が戦争に負けるときというのは、だいたいそういう状況だと言います。感染症の話ではなく、世界史の教科書の話ですけど(p48)
・もっと多くの病院が患者を受け入れるべきだとは思っているけど、病院にはそれぞれの事情がある。無差別に受け入れを要請し、拒否したら制裁を加えるというのは、けって感染を拡大させることになりかねない。これだけ多くの人が亡くなっているのに、国のトップはまだコロナの怖さや難しさを理解していないみたいだ(p77)
・今回なんとか持ちこたえたのは、個人の必死の努力と熱意が集まって、偶然、幸運な結果を生んでくれたからに過ぎません。次に来る第四波には通用しないと思います。コロナ診療における最大の敵は、もはやウイルスではないのかもしれません。敢えて厳しい言い方をすれば、行政や周辺医療機関の、無知と無関心でしょう。今回乗り切ったからといって、このまま当院と筑摩野中央医療センターだけでなで戦い続けるのは危険です(p200)
図らずとも現在第5波に突入してしまった。第3波の時ですらこのような医療現場であったというのに、それ以上の感染者数を出している今、現場はどうなっているのか。それを簡単に想像させてくれる作品である。
そして、何よりも現在過酷な医療現場に立ちながら、作者を含めて作家活動をしている人たちが身を削ってこのような作品を上梓している。本書はそのひとつに過ぎないが、それは何を意味するのか。今は医療に集中できる環境を整えて欲しいと切に願う。
=======文責 木村綾子