京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

ハイライト2 戦後史の現場にて

2007年05月20日 | たまには洋服(旅行記を含む)
今回の旅でまわった都市はすべて戦後、ソ連の支配下に置かれていた処でした。

戦後の東西冷戦、民主化運動と弾圧、そしてやっと民主化。
幾多の困難や経済問題を抱えながらも圧政から解放されたことは事実です。


イーストサイド ギャラリー「ベルリンの壁」 (ベルリン)




ポツダム会議のあったツェツィーリエンホーフ宮殿
ツェツィーリエンホーフ宮殿は1917年に当時皇太子であったヴィルヘルム2世のために建設された。同皇太子は開戦とともにオランダに亡命し、家族はここで暮らしていたそうです。



内部は撮影不可。
英、米、ソ連首脳はそれぞれ別の入り口から出入りし、スターリンが一番景色のいい部屋を取った。宮殿というより別荘的趣のある屋敷です。




「ドレスデン大空襲」(旧東ドイツ ドレスデン市
『北のフィレンツェ』と称されたエルベ川の水路を利用して発展した商業都市です。第二次世界大戦末期、1945年2月13日夜から翌日にかけて英国を中心とする連合軍によってドレスデンは大爆撃、大空襲に見回れました。その爆撃の歴史的シンボルともいえる聖母教会(フラウエン教会)。



建物内部の火災は続き、二日後の15日の朝、支柱が崩れ巨大な屋根を支えきれなくなって建物全体が崩壊。
戦後、ドレスデンは復興しても聖母教会だけは大空爆の象徴的存在として旧東独時代を通じ半世紀もの間瓦礫のまま。そして、再建はドイツ統一とともにはじまり2004年夏の完成!!世界中から寄付が集まったといいます。
私も教会内部にて手持ちの数ユーロを寄付してキャンドルを灯し祈りを捧げました。

この爆撃現場の歴史的広場を保存するべくイタリアの大富豪がこの場所を買い取っているとか。世界にはそういうことが出来るお金持ちがいるのですね。





またツビンガー宮殿では、広島の原爆ドームに似たガラス屋根のドームを見ました。原爆ドームは原爆被害の象徴として痕跡のまま有り続けていますが、チェコ人の建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzel, 1880年-1925年)によって設計され、ネオ・バロック的な骨格に細部装飾を持つ混成様式の建物。そう、同じ建築家の設計だったのです。同じ建造物のある両都市の悲運の歴史に胸が詰まりました。



日独は同盟国として英国と米国に寄って爆撃を受け降伏。これらの歴史的建物を前にして厳粛な気持ちで祈りを捧げました。戦争だけは嫌です!!

   参照;原爆ドームは原爆の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、一方では「悲惨な戦争を思い出すので撤去すべき」などの意見もあり、その存廃が議論されてきた。1966年広島市議会が永久保存することを決議し、風化を防ぐため定期的に補修工事が行われている。
1995年史跡に指定され、さらに翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。最近では立ち入り禁止区域に入っての落書きなども問題になっている。
また、2004年以降、原爆ドームの保存方針を検討する「平和記念施設あり方懇談会」が開催され、博物館に移設する、 屋根をつける、などの議論も出たが、2006年に今後も原状のまま保存する方針が確認された。(ウキペディアより)


「プラハの春」ヴァーツラフ広場(プラハ)



1968年のドゥプチェクが「人の顔をした社会主義」を目差した民主化運動「プラハの春」。それに応えてチェコ国民が自由化運動を繰り広げたが、しかしその夏の終わり8月21日未明、侵攻してきたソ連軍による弾圧で、チェコ国民が望んだ自由は叩き潰され多くの犠牲者を出した広場。
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