京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURA の読書ノート『ざんねんな万葉集』

2024年03月02日 | KIMURAの読書ノート

『ざんねんな万葉集』
岡本梨奈 著 飛鳥新社 2019年

何匹目のドジョウを狙う気なのかとお𠮟りを受けることは、簡単に想像ができましたが、やはりあまりにも可笑しくて、しかし、人間味有りすぎて、ここに紹介しなければもったいないと思ってしまいました。かつてのドジョウの言葉を借りれば、今回は『万葉集』の「超現代語訳」。しかも、本書はこれまでとは異なり、教科書では「絶対」と言い切っていい程、登場することはない歌ばかりが掲載されています。本書で出逢わなければ、どこで出逢うのと言っていい程のものばかりです。これを上梓した著者は冒頭でこのように説明しています。「万葉集は日本最古の和歌集で歌の収録数は日本最多の4516首!もはや、集めすぎたと言っても過言ではありません。ですから微妙な歌もたくさんあって、カスな奴らが、身勝手なイタい歌を詠んでいたりするのです(p5)」

そして、いちばん最初に登場する歌が作者未詳のこちらとなります。
「愛しと 我が思ふ妹は はやも死なぬか 生けりとも 我に寄るべしと 人の言うはなくに(うるはしと あがおもふいもは はやもしなぬか いけりとも あれによるべしと ひとのいはなくに)」
これの一般的な現代語訳は次のようになります。
「美しいと 私が思う愛しいあの娘は 早く死なないかなぁ 生きているとしても 『私になびくだろう』と 誰も言ってくれないので」
現代語訳ですら、すでに不穏な空気が流れてきており、と言うか、超現代語訳は必要ないと言っていい程十分に詠み人の意図は伝わります。そして、そこに風情も優雅さもありません。それでも、とりあえず超現代語訳ではどうなるのか。
「付き合ってくれないなら死ね」

「春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ」
こちらは万葉集を編纂した人の1人とされている大伴家持の歌で、私が中学生の時の教科書に掲載されていた歌でもあります。私が記憶する限り、桃の花の可愛さを描写することにより、その下に立っている少女の可愛さが更に強調され、雅な歌の1つとして学びました。しかし、本書によると、彼は当時かなり女性からもてていたようで、この万葉集に女性からもらったラブレター、つまり家持宛の歌を数多く載せたそうです。それだけならまだしも、それらに対して自ら以下のような歌を詠んで、しかも自身でちゃっかり掲載させたというのです。
「なかなかに 黙もあらましを なにすとか 相見そめけむ 遂げざらまくに」
(現代語訳:いっそ黙っていればよかったなぁ。どういう理由で逢いはじめたのだろうか。最後まで愛しぬくなんてできないであろうに。超現代語訳:口説いた女がめんどくさい)
更に家持は自身が編者であることを良いことに、この万葉集に自らの歌を479首載せているそうです。つまり、1割以上が家持の歌。

更に付け加えておきますと、同じく編者である山上憶良に関してもかなり目の当てられない歌を詠んでいます。教科書では貧窮問答歌を詠んだ、弱い者に対して目を向ける社会派的な人として教えられたはずなのですが、「超現代語訳:一万円あげるからこの子を天国へ」。もう、学校で学んだことは木端微塵。本来の和歌ではどのように詠んでいるのかは是非本書を手にしてみて下さい。超現代語訳が突拍子ではないことが一目(一読)瞭然です。

本書はここ最近の古典ブームに乗っかって刊行されたのかと思っていたのですが、6年前に元号が「令和」に変わった時、その出典が万葉集からということで、より身近に感じるようにとその時に刊行したようです。令和になって以降の「超訳」としては先駆的な本でもありました。それにしても、「万葉集」という和歌集は編纂することにより、ずっと読み継がれるであろうということは編者たちには分かっていたはず。それでも自らの危ない歌を掲載してしまう辺り、よほどナルシストだったのだろうかと想像してしまいました。ただ、これらが残ることで現代も1300年前も人間臭さというのは何も変わらないということをここでも教えてもらうのでした。

=======文責 木村綾子


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