アジアと小松

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小松基地問題研究会

二宮金次郎と道徳教育

2016年04月11日 | 教育、憲法、報道
二宮金次郎と道徳教育

 3年前の2013年、文部科学省の有識者会議が「道徳」を教科化するという方針を打ち出したのにたいして、『アジアと小松』35号では、二宮金次郎(尊徳)について書いた。

40年前の事件
 1972年「沖縄返還」の年に、沖縄出身の大城俊雄さんが名古屋から手配師にだまされて金沢に来た。11月1日、大城さんは戸板小学校の校長に「金次郎像は皇国教育のシンボルとして、こどもたちを戦争の担い手として教育した。戦後の今も、このような像が学校に建てられているのはおかしい」と説明し、持っていた大型ハンマーで粉々にしたのである。大城さんは逮捕され、事件は大きく報道され、世論は賛否に分かれた。

 石川郷土史学会の村本外志雄さんは「金沢の二宮金次郎像と昭和」(2012.12)の中で、大城さんから始まった金次郎像損壊事件を「既存の価値観や制度を壊し、新しい社会をつくるという熱情が学生を圧巻した」「今日の学校にある記念像は…未来志向の像へと変容し、その姿も象徴的に表現する現代像が多い」と総括しているが、はたしてそうだろうか。

金次郎像の政治利用
 この事件をきっかけにして、二宮金次郎像が歴史的に果たした役割を考え、大城さんを支援する輪が広がった。児童文学者の柴田道子さんが1973年6月号の『世界』に「二宮金次郎の亡霊」を執筆し、大城さんの事件は全国版になった。

 いま、インターネットを検索すると、二宮金次郎像の「再評価」は全国的な傾向で、「道徳」を教科化するという方針と軌を一にしている。

 柴田道子さんによれば、二宮尊徳は体制順応型の人物だった。「尊徳という経験主義者は天下国家の大勢も運命も考えなかった」「彼には政治批判がまったくありません」「尊徳のいう勤勉と従順は奴隷の思想であり…権力を持つ者には都合がよい」「(尊徳は)農民一揆は農民の方に責任があると考え」「尊徳の『知足安分』は…百姓は百姓、工人は工人として分に応じた生活をせよと…身分制度という階級制度を擁護している」と批評している。

 二宮尊徳がはじめて「修身教科書」に登場したのは1904年の国定「修身書」であった。以下、「修身書」登場までの経過を尾崎耕典「明治の道徳教育=教育政策を中心に=」(帝京大学紀要1966年)でたどる。

修身について
 1868年明治維新、1871年廃藩置県によって中央集権の明治政府が確立した。直ちに文部省が設置され、教育の中央支配が始まった。1872年の「学制」(太政官第214号)によって学校が発足し、フランスの「学制」に倣って、近代的な個人主義、功利主義を根幹とする合理主義教育、科学尊重教育、実利主義教育をめざした。

 小学教科中に「修身」、中学教科中に「修身学」を置いたが、学習時間も少なく、あまり重視されていなかった。しかも修身教科書は欧米の修身・道徳に関する書物から採用されていて、自由主義的、個人主義的内容で、親に孝行とか天皇を尊び忠義をつくせという内容はなかった。

 1879年、「学制」が廃止され、「第1次教育令」が公布された。これは自由主義を基調としており、修学強制から解放されたことにより、教育に混乱が生じ、逆に教育への国家干渉が強まった。

 1880年4月、文部省は儒教主義道徳に偏重する『小学修身訓』(西村茂樹編)を発行し、同年12月、中央集権的な「改正教育令」が施行され、修身科を諸教科の筆頭に置き、授業時間を大幅に増やした。

 同年12月の文部省令で「国安を害し風俗を紊乱する如き事項を記載せる書籍」の使用を禁止した。その中には福沢諭吉『通俗国憲論』『通俗民権論』、加藤弘之『国体新論』『立憲政体略』など民権思想に関する著作が含まれていた。

 このような教育内容の統制は教員への統制に波及し、保守反動の国家主義が教育を支配していった。1882年12月、孝行、忠節、和順、友愛など20徳目からなる「幼学綱要」が出され、1883年文部省がはじめて作った道徳教科書『小学修身書』では、西洋の書名や人名、格言が姿を消して、孝経や論語などが多く取り入れられ、前近代的な報恩献身の儒教倫理に後退した。

 このような教育政策の後退にたいして、さまざまな議論が起きたが、1890年10月、「小学校令」が改正され、「小学校は児童身体の発達に留意して、道徳教育及び国民教育の基礎並びに必須なる知識技能を授くるを以て本旨とす」と、小学校を道徳教育、国民教育を授けるところと規定し、さらに「教育に関する勅語」が発布され、対立的意見が一掃された。

 教科書の検定制度は1886年の「小学校令」で定められていたが、修身教育は教科書ではなく口授資料書でおこなわれていた。しかし教育勅語の発布を契機にして、口授から教科書に変更され、修身教科書の検定が始まった。1891年11月「小学校教則大綱」では「尋常小学校に於ては、孝悌、友愛、仁慈、礼敬、義勇、恭倹等実践の方法を授け、殊に尊王愛国の志気を養はんことを努め、又国家に対する責務の大要を指示」することが方針化された。

 1900年文部省に修身教科書調査委員会、1903年国定教科書編纂委員会が設置され、翌1904年4月から全国の小学校で国定教科書が使われた。1904年版修身教科書で、はじめて二宮尊徳が登場したのである。

二宮尊徳の位置づけ
 『二宮翁と諸家』(1906年留岡幸助編)に収録されている井上哲次郎(東京帝大教授)の「学説上に於ける二宮翁の地位」では、二宮尊徳が国定教科書に導入されたことについて、次のように述べている(以下、HP「桜川的世界」より孫引き)。

 「国定教科書に二宮翁を加えたるは、最も選の宜しきを得たるものとい謂う可し。我国史中模範人物として中江藤樹、貝原益軒、上杉鷹山あり。水戸の義公(光圀)・烈公(斉昭)あり。共に是大和民族の精粋にして、後世の模範となすに足りるべきものに相違なきも、鷹山、義公、烈公の如きは大名なるが故に、一般平民にその縁すこぶる遠く、感化また及び難しきものあり。独り二宮翁は平民にして、而も農夫の子として成長せり。故に、農家の子女には境遇近く、境涯相似(あいに)たり。境遇等(ひとし)が故に、教師は学びて怠らず。農家の子女もまた能く、二宮翁の如くなり得べしとの希望を抱かしむるにた足る。」「国定教科書に、吉田松陰を加えんと欲しも、之に反対していわく、精神はともかく、彼は時の政府に反対したるもの。小学生徒には不適当の人物たるを免れず」と述べ、二宮尊徳と吉田松陰を比較している。

 明治政府が金次郎を重んじる最大の理由は「現実を肯定し、黙々と生きる少年金次郎」にあった。柴田道子も、「金次郎像が登場する場面は必ず社会不安や内外の情勢の酷しい時、…国民に不平を言わさず、しっかり押さえておく必要のあるとき、…民衆は支配者に逆らわず分をわきまえ、農村(労働者)の矛盾(疲弊)をひたすら努力によって、すなわち勤勉と倹約で解決」と書いている。

 21世紀の現代に至っても、二宮尊徳が道徳教育の中で取り上げられる理由はここにある。
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