■恋に恋して / White Plains (Deram / キング)
日頃から節操の無いサイケおじやは、昨日のようにキング・クリムゾンの怖~い五連発なんかを聴いた後には、必ずウキウキする洋楽ポップスを欲してしまいます。
中でもイギリス産のバブルガム系ヒット曲あたりは、もう、これしか無いというジャストミートのジャンルであって、例えば本日ご紹介のホワイト・プレインズは1970年代前半に活躍していたグループなんですが、とにかく喜びも哀しみも幾年月というポップス王道のボーカル&コーラスで歌われる素敵なメロディを十八番にしていました。
しかし今日では明らかになっておりますが、ホワイト・プレインズは所謂「実態の無いグループ」であり、プロデューサーとソングライター、そしてスタジオミュージャンがプロの仕事をやり遂げた成果として幾つかのヒットを飛ばし、その代表曲が「恋に恋して / My Baby Loves Lovin'」なのです。
こうした背景には、もちろんラジオによってヒット曲が生まれるという当時の流行歌事情があり、それゆえにまずはリスナーの「耳」に訴える力を持ったメロディと歌詞が求められていたのですから、業界の資本投入もその道に優れたスタッフが優先されていました。
つまり実際に出来上がったレコードに記載されるクレジットは異なっていても、演じている側は同じという事が少なくありません。
そこでホワイト・プレインズを考察すると、まずソングライターが英国ポップス界では良心的メロディ主義の雄だったロジャー・クック&ロジャー・グリーナウェイという事は、必然的にフラワー・ポットメンという、これまたイギリス産ポップスの世界では決して忘れられないグループに遭遇します。
もちろんフラワー・ポットメンも最初は実態の無い、スタジオで作り出された楽曲優先のグループであり、ジョン・カーター&ケン・ルイスというソングライターコンビが自作自演のレコードを出すにあたっての大義名分だったんですが、しかし1967年に制作した「Let's Go To San Francisco (Deram)」が大ヒットしてしまえば、それは実体化を迫られて……。
ところが件の「Let's Go To San Francisco」を歌っていたジョン・カーター&ケン・ルイスは、その時点でアイビー・リーグというビートバンドのメンバーでありましたから、契約の関係もあって自らが顔を晒す事も出来ず、そこで起用されたのがトニー・バロウズというセッションボーカリストでした。
というか、トニー・バロウズ本人が既に前述したアイビー・リーグのサブメンバーだったという説もあり、また以前に組んでいたケストレルズというバンドのメンバーとしてプロデビューした時の仲間がロジャー・クック&ロジャー・グリーナウェイでしたから、このあたりの人脈は後付けで探るほどに錯綜しています。
しかし、だからこそと言うべきなんでしょうが、ヒットポップスの生産現場では、そうしたものの使い勝手の良さが求められていたのでしょう。
とにかく当時のイギリスでは、似たようなメンツで作られたポップス系のレコードが玉石混合で夥しく発売され、パッと覚えて、サッと忘れられるものこそが優良とされていたようです。
もちろんそうした傾向は広く欧米でも、そして日本でも同様であって、それを深く詮索するような不粋は、よほどのポップスマニアだけの宿業!?
ですから、一般の洋楽好きは、とにかくラジオから流れてくる素敵なメロディや心地良いボーカル&コーラスに魅せられていれば良かったんですねぇ~~♪
この「恋に恋して / My Baby Loves Lovin'」にしても、イントロからしてモータウン調のウキウキビートに気持良くノセられ、次いでキャッチーなメロディが解放感いっぱいに歌われ、しかもサビと中メロに仕込まれた絶妙の「泣き」が、実にたまりません♪♪~♪
サウンド作りも分厚い演奏パートとグッと迫って来るトニー・バロウズの楽しいボーカルが、まさにヒットポップスのお手本とも言うべき、秀逸の極み!
ちなみに、ここで簡単にトニー・バロウズ云々と書いてしまいましたが、掲載したジャケ写がイメージイラストであるとおり、あくまでもホワイト・プレインズは「実態の無いグループ」でしたから、誰が演じていたかなんて事は後々で追々に分かったことです。
ただしリアルタイムの情報ではトニー・バロウズの他にピート・ネルソン、ロビン・ショウ、ロジャー・グリーナウェイ等々が歌っていると言われていましたし、当時の洋楽雑誌には5~6人組でライプをやっているホワイト・プレインズの写真が掲載されていました。
で、ここからはサイケおやじの妄想ではありますが、ホワイト・プレインズは前述したフラワー・ポットメンの実体化バンドが継承されて出来上がったグループじゃないでしょうか?
そして実は「恋に恋して / My Baby Loves Lovin'」が首尾良く大ヒットしていた頃、トニー・バロウズは既にそこには在籍しておらず、ご存じのとおり、やはりイギリスの敏腕ヒットプロデューサーとして曲作りも上手いトニー・マコウレイに誘われ、あのメガヒット「恋の炎 / Love Grows」を歌うためにエジソン・ライトハウスという、これまた「実態の無いグループ」のプロジェクトに参加しているのです。
ということで、これが1970年の洋楽ポップス最前線の動きのひとつでした。
しかしサイケおやじはリアルタイムで楽しんでいた事に反し、ここまでに書いた裏事情は知る由も無く、ただ同じ声をした歌手がイギリスには大勢いるんだなぁ~~、というミステリーにもあまり関心はありませんでした。
と言うよりも、その頃は楽曲の魅力に自分のポップス心が優先されていたんですねぇ。
極言すれば、ホワイト・プレインズもエジソン・ライトハウスも、またフラワー・ポットメンにしても、ビートルズやストーンズのような強い存在感のバンドではないという認識が、その頃から当たらずも遠からじ!
しかし図らずも、この「恋に恋して / My Baby Loves Lovin'」が、そうした奥の細道を辿るきっかけとなり、同時にサイケおやじには最高の道標となりました。
ですから知るほどにイギリス音楽業界の裏面は、尚更に興味深く、アメリカ以上に面白いのですが、もちろん当時はそのあたりの研究書もネットでの情報収集もありませんでしたから、全てはゲットしたレコードに詰め込まれたデータだけが経験則として刷り込まれていったのです。
機会があれば、そのあたりも何れ纏めて書きたいと思っています。
昔レンタルで借りたライブを集めたものの中に、エジソン・ライトハウスが入ってましたから。
そうなんですか、へぇー。
勉強になりました。
コメントありがとうございます。
エジソン・ライトハウスもスタートはスタジオプロジェクトだったんですが、「恋の炎」が大ヒットして後、実演用のメンバーが集められたのだと思います。
トニー・バロウズも最初はステージやテレビにも出たと言われています。しかしレコーディングには一定しての参加は無く、その間にソロ名義のシングルや他のグループプロジェクトを掛け持ちして、様々な歌を出してきました。
エジソン・ライトハウスも末期にはエジソンというバンド名にチェンジして、巡業を続けていたそうですよ。
ピクチャースリーヴの日本盤シングルに使われるショットは、当時の宣材からの転用とか、なかなか日本のレコード会社も苦労したんじゃないでしょうか。
それゆえに面白い世界ではありますが(笑)。