1月28日(日):
野中広務師の逝去に当たり、“必ず出てくるべきはずの話”が、不思議なぐらいどこの新聞・マスコミからも出てこないので、あえて再掲する。これは秘密でも何でもない。当時、日本の週刊誌(文春・新潮など)でも大きく取り上げられ(だから俺も知っている!)、アメリカの新聞(NYTだったか?)でも日本の恥ずべき人権問題として取り上げられているし、単行本も出版されている(例えば、魚住昭「野中広務 差別と権力」(講談社:2004))大変有名な話だ。しかし今、全く目にも、耳にもすることが無いのは異様だとしか言えない。日本の新聞・マスコミのアベ・アソウ政権への忖度と、野党も含めて日本の諸政党の日本の人権問題の原点とも言える差別問題への及び腰と無関心が目に余る、としか言えない。逆に、この全く言及のないこと自体が<現在の日本の抱える問題>を表していると言えると思うので、以下の記事をあえて再掲する。
「161223 安倍政治の淵源は2001年のナチス麻生による野中広務氏への差別発言だ!」 2016年12月23日 14時50分06秒 | 徒然・雑感
(2016年)12月23日(金):
最近つくづく思うことがある。どうしてこんな日本になってしまったんだろう。そんな時、最初に必ず思い当たることがある。2001年の自民党で野中広務氏が総理総裁の座を目前にした時に、総裁選に立候補した麻生太郎が言い放った「あんな出身者を日本の総理にはできんわなあ」という言葉である。この言葉によって、野中総理総裁の芽は摘まれた。当時、タイムをはじめ欧米のマスコミでも日本の深刻な差別問題として大きく取り上げられた。我が目と耳を疑うニュースとして驚くとともに強い憤りを覚えたことをよく覚えている。その後、小泉純一郎が政権をとると野中氏は守旧派の大物として悪役に貶められ政界を引退した。公然と差別発言をした麻生太郎は総理大臣になった。
野中広務という政治家は、ハンセン病患者差別問題や沖縄米軍基地問題、在日外国人の人権問題など弱者の痛みに誠意を尽くして懸命に目配りする一方、暴走しようとする保守政治の動きに対して、彼自身自民党の有力政治家のでありながら、敢えて「国会の大政翼賛会化」への警鐘を鳴らして議場を騒然とさせるなど、日本社会の歪みを正そうと思慮深く、かつ大胆に踏み込んだ発言・行動のできる政治家であった。野中氏は、戦後日本の最も良質な保守政治家であり、かつ幅広く多様な人材を持つ自民党の中の「社会民主主義」的立場を代表する政治家であった。
その野中氏に対して、のちに「静かにナチスを見習うべし」発言をする麻生太郎が、耳を疑う露骨な「差別」発言を投げつけ、野中氏の総理総裁の芽を摘んでしまったことは、自民党の「社会民主主義」的流れ自体を摘み取り、多様性を失わせてしまう最大の契機になったと考える。
その後、小泉、安倍、(福田)、麻生、そして現在の安倍という弱者を切り捨て、強者におもねる「新自由主義」一辺倒の自民党が出来上がった。自民党別動隊である民主党の半分?(松下政経塾系&日本会議系)やポピュリズムの橋本維新など、憲法破壊と好戦的姿勢、根拠のない見せ金経済策で大衆を釣ろうとする愚劣な政治勢力が日本を牛耳る流れを作ってしまった。
そもそも野中広務氏が自民党の中心にいた時、公明党は野中氏との関係を重視して社会保障政策の実現に熱心に取り組んでいた。その公明党が、政権にしがみつくこと自体を自己目的化して、ついには安倍の集団的自衛権に賛成するという自己矛盾に陥ったのも野中氏が引退してしまったからである。どこまでもついていくのか下駄の雪。
「差別はもうなくなったのに、まだ差別にこだわるのは、利権をあさる卑しい奴らだ!」と言う共産党系のインテリ・ヘイトスピーチの連中に対して、俺は言いたい。「確かに、差別は昔とは違う。世界が移民問題で動揺し、国内で外国人差別、障害者差別、格差社会、子どもの貧困が叫ばれ、マイノリティへの理解と配慮、多文化共生を求めるのが当たり前になった昨今、差別どころではないとインテリ・ヘイトスピーカーたちは言いたいのだろう。でも実際に差別が顕在化するのは、結婚や就職など人生の重要な選択・判断に関わる時であり、その影響力は今もって決して軽くない」
それは個人のレベルだけではない。日本の政治でも、弱者救済・戦争抑制・憲法尊重の「社会民主主義」的流れから、弱者切り捨て、強者連合結成、戦争軽視、立憲主義軽視、民主主義軽視、見せ金による国民操作、マスコミの堕落、公明党の変節すべてまとめて「新自由主義」の流れが出来上がったのは、自民党における野中広務氏の小泉純一郎に対する敗北からである。そして、その流れを決定づけたのは、2001年の麻生太郎の「あんな出身者を日本の総理にはできないわなあ」という差別発言からである。「永田町ほど差別意識の強い世界はない」(魚住昭)のだ。そして、永田町の差別意識は、差別だけではない、女性差別もそうだ。女性の国会議員・大臣の異常な少なさもそうだ。
差別への取り組みを「利権あさり」と軽々しく言ってしたり顔をするインテリのヘイトスピーカーたちは、今日の何兆円、何千億円と桁外れの原発利権・オリンピック利権などなどなどに群がり寄る「新自由主義のなれの果て」の安倍政治の淵源が、2001年のナチス麻生の差別発言にあったことを思い起こすべきだ。もし野中広務氏が、総理総裁になっていれば、その後政権は加藤紘一氏に禅譲されただろう。そして、古賀誠、野田聖子らがこれに続いただろう。世界的な「新自由主義」の潮流、「イラク戦争」他、強力な国内外の要因がさまざまに絡まり合うことを思えば、政権選択も一筋縄では行かなかっただろうが、少なくとも無能で学ばない、家柄だけの麻生太郎や安倍晋三が首相になってこれほど意味の解らない劣化した亡国政治を国民が目にするような惨状だけはなかっただろう。
差別問題を「利権あさり」と笑うインテリ・ヘイトスピーカーは、今の安倍政治の惨状の原因・原点に差別も(「すべてだ」なんて言う気はない)存在していることを知るべきだろう。世の中は、あんたらが考えてるよりもずっと複雑なんだよ、ってこと。被差別者に対して悪者イメージを創作して叩いて見せるのは簡単だが、生きている人間への共感・配慮が抜け落ちてれば、結局、問題の本質を隠してしまうことにつながる。闘うべき敵に加担しているのと同じだ。それは右(保守)も左(革新)も関係ない。今、国民と天皇と国際社会の共通の敵であり、倒すべき敵は、安倍晋三政治とそれに加担するマスコミである。
何やら、書き始めた時とは、予想しない終わり方になったが、まあ祝日の朝、目覚めて普段漠然と考えてることを思うままに書きなぐらせて頂きました。
最後に、2004年10月28日に読んだ魚住昭「野中広務 差別と権力」(講談社:2004)の一節を少し書き出しておく。ちなみにに本書の帯文は、「差別の壁に挑み、頂点まで登りつめる寸前、なぜ「影の総理」は躓いたのか? / 権謀術数を駆使して政敵を叩き潰す恐ろしさと、弱者への限りなく優しい眼差し。本当の姿はどちらなのか?辣腕政治家の足跡を追った著者は、現代史の光と闇に到達した。」である。
・二〇〇三年九月二十一日、野中は最後の自民党総務会に臨んだ。(略)
堀内の目の前に座っていた野中が、
「総務会長!」
と甲高い声を上げたのはそのときだった。
立ち上がった野中は、
「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」
と断って、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生のほうに顔を向けた。
「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。
解放同盟中央本部の幹部が語る。
「総務会の出席者に確認しましたが、野中さんがそういう発言をしたのは事実です。自民党のなかで長い間、差別の眼差しを受けてきた野中さんのたまりにたまった怒りが最後に爆発したのでしょう。野中さんがなぜ最有力候補と言われながら総裁選に出なかったのか。橋本派内部で根強い反対があったからとも聞きましたが、それは議員たちの差別意識と無縁ではないのではないか。そんなことを考えると、政界の差別の闇の深さに暗然とします」
この国の歴史で被差別出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢にまでたどり着いた人間は野中しかいない。彼は「人間はなした仕事によって評価されるのだ。そういう道筋を俺がひこう」と心に誓いながら、誰も足を踏み入れたことのない険しい山道を登ってきた。ようやく頂上にたどり着こうとしたところで耳に飛び込んできた麻生の言葉は、彼の半世紀にわたる苦闘の意味を全否定するものだったに違いない。 352~351ページ
・だが、彼も小泉首相との権力闘争に敗れて引退を余儀なくされた。彼の引退は、差別性と平等性を内包しながら平和と繁栄を志向してきた戦後日本の終焉を象徴する出来事だった。新たな時代には平等と平和の四文字はない。それを思うと暗澹とする。 356ページ
野中広務師の逝去に当たり、“必ず出てくるべきはずの話”が、不思議なぐらいどこの新聞・マスコミからも出てこないので、あえて再掲する。これは秘密でも何でもない。当時、日本の週刊誌(文春・新潮など)でも大きく取り上げられ(だから俺も知っている!)、アメリカの新聞(NYTだったか?)でも日本の恥ずべき人権問題として取り上げられているし、単行本も出版されている(例えば、魚住昭「野中広務 差別と権力」(講談社:2004))大変有名な話だ。しかし今、全く目にも、耳にもすることが無いのは異様だとしか言えない。日本の新聞・マスコミのアベ・アソウ政権への忖度と、野党も含めて日本の諸政党の日本の人権問題の原点とも言える差別問題への及び腰と無関心が目に余る、としか言えない。逆に、この全く言及のないこと自体が<現在の日本の抱える問題>を表していると言えると思うので、以下の記事をあえて再掲する。
「161223 安倍政治の淵源は2001年のナチス麻生による野中広務氏への差別発言だ!」 2016年12月23日 14時50分06秒 | 徒然・雑感
(2016年)12月23日(金):
最近つくづく思うことがある。どうしてこんな日本になってしまったんだろう。そんな時、最初に必ず思い当たることがある。2001年の自民党で野中広務氏が総理総裁の座を目前にした時に、総裁選に立候補した麻生太郎が言い放った「あんな出身者を日本の総理にはできんわなあ」という言葉である。この言葉によって、野中総理総裁の芽は摘まれた。当時、タイムをはじめ欧米のマスコミでも日本の深刻な差別問題として大きく取り上げられた。我が目と耳を疑うニュースとして驚くとともに強い憤りを覚えたことをよく覚えている。その後、小泉純一郎が政権をとると野中氏は守旧派の大物として悪役に貶められ政界を引退した。公然と差別発言をした麻生太郎は総理大臣になった。
野中広務という政治家は、ハンセン病患者差別問題や沖縄米軍基地問題、在日外国人の人権問題など弱者の痛みに誠意を尽くして懸命に目配りする一方、暴走しようとする保守政治の動きに対して、彼自身自民党の有力政治家のでありながら、敢えて「国会の大政翼賛会化」への警鐘を鳴らして議場を騒然とさせるなど、日本社会の歪みを正そうと思慮深く、かつ大胆に踏み込んだ発言・行動のできる政治家であった。野中氏は、戦後日本の最も良質な保守政治家であり、かつ幅広く多様な人材を持つ自民党の中の「社会民主主義」的立場を代表する政治家であった。
その野中氏に対して、のちに「静かにナチスを見習うべし」発言をする麻生太郎が、耳を疑う露骨な「差別」発言を投げつけ、野中氏の総理総裁の芽を摘んでしまったことは、自民党の「社会民主主義」的流れ自体を摘み取り、多様性を失わせてしまう最大の契機になったと考える。
その後、小泉、安倍、(福田)、麻生、そして現在の安倍という弱者を切り捨て、強者におもねる「新自由主義」一辺倒の自民党が出来上がった。自民党別動隊である民主党の半分?(松下政経塾系&日本会議系)やポピュリズムの橋本維新など、憲法破壊と好戦的姿勢、根拠のない見せ金経済策で大衆を釣ろうとする愚劣な政治勢力が日本を牛耳る流れを作ってしまった。
そもそも野中広務氏が自民党の中心にいた時、公明党は野中氏との関係を重視して社会保障政策の実現に熱心に取り組んでいた。その公明党が、政権にしがみつくこと自体を自己目的化して、ついには安倍の集団的自衛権に賛成するという自己矛盾に陥ったのも野中氏が引退してしまったからである。どこまでもついていくのか下駄の雪。
「差別はもうなくなったのに、まだ差別にこだわるのは、利権をあさる卑しい奴らだ!」と言う共産党系のインテリ・ヘイトスピーチの連中に対して、俺は言いたい。「確かに、差別は昔とは違う。世界が移民問題で動揺し、国内で外国人差別、障害者差別、格差社会、子どもの貧困が叫ばれ、マイノリティへの理解と配慮、多文化共生を求めるのが当たり前になった昨今、差別どころではないとインテリ・ヘイトスピーカーたちは言いたいのだろう。でも実際に差別が顕在化するのは、結婚や就職など人生の重要な選択・判断に関わる時であり、その影響力は今もって決して軽くない」
それは個人のレベルだけではない。日本の政治でも、弱者救済・戦争抑制・憲法尊重の「社会民主主義」的流れから、弱者切り捨て、強者連合結成、戦争軽視、立憲主義軽視、民主主義軽視、見せ金による国民操作、マスコミの堕落、公明党の変節すべてまとめて「新自由主義」の流れが出来上がったのは、自民党における野中広務氏の小泉純一郎に対する敗北からである。そして、その流れを決定づけたのは、2001年の麻生太郎の「あんな出身者を日本の総理にはできないわなあ」という差別発言からである。「永田町ほど差別意識の強い世界はない」(魚住昭)のだ。そして、永田町の差別意識は、差別だけではない、女性差別もそうだ。女性の国会議員・大臣の異常な少なさもそうだ。
差別への取り組みを「利権あさり」と軽々しく言ってしたり顔をするインテリのヘイトスピーカーたちは、今日の何兆円、何千億円と桁外れの原発利権・オリンピック利権などなどなどに群がり寄る「新自由主義のなれの果て」の安倍政治の淵源が、2001年のナチス麻生の差別発言にあったことを思い起こすべきだ。もし野中広務氏が、総理総裁になっていれば、その後政権は加藤紘一氏に禅譲されただろう。そして、古賀誠、野田聖子らがこれに続いただろう。世界的な「新自由主義」の潮流、「イラク戦争」他、強力な国内外の要因がさまざまに絡まり合うことを思えば、政権選択も一筋縄では行かなかっただろうが、少なくとも無能で学ばない、家柄だけの麻生太郎や安倍晋三が首相になってこれほど意味の解らない劣化した亡国政治を国民が目にするような惨状だけはなかっただろう。
差別問題を「利権あさり」と笑うインテリ・ヘイトスピーカーは、今の安倍政治の惨状の原因・原点に差別も(「すべてだ」なんて言う気はない)存在していることを知るべきだろう。世の中は、あんたらが考えてるよりもずっと複雑なんだよ、ってこと。被差別者に対して悪者イメージを創作して叩いて見せるのは簡単だが、生きている人間への共感・配慮が抜け落ちてれば、結局、問題の本質を隠してしまうことにつながる。闘うべき敵に加担しているのと同じだ。それは右(保守)も左(革新)も関係ない。今、国民と天皇と国際社会の共通の敵であり、倒すべき敵は、安倍晋三政治とそれに加担するマスコミである。
何やら、書き始めた時とは、予想しない終わり方になったが、まあ祝日の朝、目覚めて普段漠然と考えてることを思うままに書きなぐらせて頂きました。
最後に、2004年10月28日に読んだ魚住昭「野中広務 差別と権力」(講談社:2004)の一節を少し書き出しておく。ちなみにに本書の帯文は、「差別の壁に挑み、頂点まで登りつめる寸前、なぜ「影の総理」は躓いたのか? / 権謀術数を駆使して政敵を叩き潰す恐ろしさと、弱者への限りなく優しい眼差し。本当の姿はどちらなのか?辣腕政治家の足跡を追った著者は、現代史の光と闇に到達した。」である。
・二〇〇三年九月二十一日、野中は最後の自民党総務会に臨んだ。(略)
堀内の目の前に座っていた野中が、
「総務会長!」
と甲高い声を上げたのはそのときだった。
立ち上がった野中は、
「総務会長、この発言は、私の最後の発言と肝に銘じて申し上げます」
と断って、山崎拓の女性スキャンダルに触れた後で、政調会長の麻生のほうに顔を向けた。
「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような出身者を日本の総理にできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんてできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。
解放同盟中央本部の幹部が語る。
「総務会の出席者に確認しましたが、野中さんがそういう発言をしたのは事実です。自民党のなかで長い間、差別の眼差しを受けてきた野中さんのたまりにたまった怒りが最後に爆発したのでしょう。野中さんがなぜ最有力候補と言われながら総裁選に出なかったのか。橋本派内部で根強い反対があったからとも聞きましたが、それは議員たちの差別意識と無縁ではないのではないか。そんなことを考えると、政界の差別の闇の深さに暗然とします」
この国の歴史で被差別出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢にまでたどり着いた人間は野中しかいない。彼は「人間はなした仕事によって評価されるのだ。そういう道筋を俺がひこう」と心に誓いながら、誰も足を踏み入れたことのない険しい山道を登ってきた。ようやく頂上にたどり着こうとしたところで耳に飛び込んできた麻生の言葉は、彼の半世紀にわたる苦闘の意味を全否定するものだったに違いない。 352~351ページ
・だが、彼も小泉首相との権力闘争に敗れて引退を余儀なくされた。彼の引退は、差別性と平等性を内包しながら平和と繁栄を志向してきた戦後日本の終焉を象徴する出来事だった。新たな時代には平等と平和の四文字はない。それを思うと暗澹とする。 356ページ