4月8日(日):追記
本書を読み、アマゾンのレビューを眺め、どうしても腑に落ちないことがある。孫正義を「いかがわしい」、「うさんくさい」「ずるがしこい」「薄っぺらい」というレッテル貼りが存在することを本書を読んで初めて知ったのだ。
確かに本書を読めば、孫正義の一族が一筋縄ではいかない人々も抱えていることはわかった。でも、それは在日朝鮮人の人々が受けている例えば、本名(民族名)でなく通称名(日本名)で生きざるを得ない、公務員・教師や銀行員などへの道が閉ざされている、参政権を奪われている、社会保障から除外されているなどの差別・偏見の中で生じてきたことであろう。また、何よりも差別に耐えて普通に懸命に生きている親族の方がずっと数は多いはずだ。
孫正義の何が「いかがわしい」「うさんくさい」のかは、結局本書を読んでもわからなかった。単なる「成り上がり者」に対する偏見ではないと著者は述べている。ならば、「血と骨」などと物々しい言葉を使っているが、要するに「在日」に対する差別意識が原因という非常に単純な答えなのかな…?、と白けた思いも一夜明ければ持ってしまうのだ。俺は、読み違いをしているのだろうか…?
「確かに、孫の大好きな司馬遼太郎の『竜馬がゆく』ではないが、あの幕末維新のとき、年寄りが若い連中の足を引っぱっていたら、この国は滅亡していたかもしれない。/そんな意見を聞いて、私は孫という人間がやっとわかったと思った。孫は自分が生まれ育った日本という国の将来を掛け値なしに心配している。/もう一度、孫に対する私の“立ち位置”を確認しておこう。/孫正義は成り上がり者だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。/孫正義は元在日朝鮮人だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。/では、孫に対して感じるいかがわしさやうさんくささは、どこから来るのだろうか。/孫は「経済白書」が「もはや戦後ではない」と高らかに謳った翌年、鳥栖駅前の朝鮮に生まれ、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いの中で育った。/日本人が高度経済成長に向かって駆け上がっていったとき、在日の孫は日本の敗戦直後以下の極貧生活からスタートしたのである。/その絶対に埋められないタイムラグこそ、おそらく私たち日本人に孫をいかがわしいやつ、うさんくさいやつと思わせる集合的無意識となっている。/高齢化の一途をたどる私たち日本人は、年寄りが未来のある若者をうらやむように、底辺からなんとしても這い上がろうとして実際にそれを実現してきた孫の逞しいエネルギーに、要は嫉妬している」(219~220ページ)
この一節は、著者の解釈としては、ある程度腑に落ちる内容だが、ネット上の有象無象の連中が、ここまでの認識と理解力を持ち得ているとは、とうてい思えない。むしろ格差社会の深刻化の中で生みだされた大量の余裕の無い弱者たち、また弱者となることへの怯えを持つ若者たち。彼らの目の前に出自を隠そうとしない目立った成功者がいる。そいつは、世間では偏見・差別・いじめの対象にしても良い存在らしい。ならば、みんなでレッテルを貼って叩きまくろうぜ、というのが関の山の実態であろう。そして、その世間の安っぽい差別意識を扇動して利用する<確信犯>として石原慎太郎や格差歓迎の新自由主義の財界が存在するのだ。彼らは、石原の「三国人」発言をはじめとして差別意識にお墨付きを与えて、差別を扇動しているというのが日本社会の現状だろう。
著者の解釈は、取材対象である孫正義に対する誠意の表明ではあっても、日本社会全体の差別意識の説明には残念ながら成り得てはいないだろう。
はっきりしていることは、格差社会の実態から目を逸らせる為に、さまざまな差別意識を利用するむごい構造が日本の社会にある、ということだ。弱者は、差別できる対象を血眼で捜し続け、差別しながら、実は共に沈没していくという構造である。支配する側にとってこんなに都合のよい仕組みは無いのだ。孫正義が、例外であるとすれば、その存在が自らの意志を持ちながら、あまりにも巨大に成り過ぎたという一点のみである。政財界のお偉方からすれば、目障りな存在なのだ。
やはり最も罪深いのは、弱者の差別意識に確信犯的にお墨付きを与える石原慎太郎の「三国人」発言に代表される社会上層部(エスタブリッシュメント)による差別発言・差別助長の動きだろう。もし彼らが、差別反対の声を上げた場合の影響力とのプラス・マイナスの差を考えれば、その害悪の罪深さの度合いがよく解る。
※著者は、孫正義の叔父国本(李)徳田が1965年筑豊の三井山野炭鉱爆発事故で若い命を落としているのを紹介し、当時の炭鉱坑夫と、現在<原発ジプシー>とも呼ばれる原発現場作業員とを<使い捨ての命>として重ね合わせている。
本書を読み、アマゾンのレビューを眺め、どうしても腑に落ちないことがある。孫正義を「いかがわしい」、「うさんくさい」「ずるがしこい」「薄っぺらい」というレッテル貼りが存在することを本書を読んで初めて知ったのだ。
確かに本書を読めば、孫正義の一族が一筋縄ではいかない人々も抱えていることはわかった。でも、それは在日朝鮮人の人々が受けている例えば、本名(民族名)でなく通称名(日本名)で生きざるを得ない、公務員・教師や銀行員などへの道が閉ざされている、参政権を奪われている、社会保障から除外されているなどの差別・偏見の中で生じてきたことであろう。また、何よりも差別に耐えて普通に懸命に生きている親族の方がずっと数は多いはずだ。
孫正義の何が「いかがわしい」「うさんくさい」のかは、結局本書を読んでもわからなかった。単なる「成り上がり者」に対する偏見ではないと著者は述べている。ならば、「血と骨」などと物々しい言葉を使っているが、要するに「在日」に対する差別意識が原因という非常に単純な答えなのかな…?、と白けた思いも一夜明ければ持ってしまうのだ。俺は、読み違いをしているのだろうか…?
「確かに、孫の大好きな司馬遼太郎の『竜馬がゆく』ではないが、あの幕末維新のとき、年寄りが若い連中の足を引っぱっていたら、この国は滅亡していたかもしれない。/そんな意見を聞いて、私は孫という人間がやっとわかったと思った。孫は自分が生まれ育った日本という国の将来を掛け値なしに心配している。/もう一度、孫に対する私の“立ち位置”を確認しておこう。/孫正義は成り上がり者だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。/孫正義は元在日朝鮮人だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。/では、孫に対して感じるいかがわしさやうさんくささは、どこから来るのだろうか。/孫は「経済白書」が「もはや戦後ではない」と高らかに謳った翌年、鳥栖駅前の朝鮮に生まれ、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いの中で育った。/日本人が高度経済成長に向かって駆け上がっていったとき、在日の孫は日本の敗戦直後以下の極貧生活からスタートしたのである。/その絶対に埋められないタイムラグこそ、おそらく私たち日本人に孫をいかがわしいやつ、うさんくさいやつと思わせる集合的無意識となっている。/高齢化の一途をたどる私たち日本人は、年寄りが未来のある若者をうらやむように、底辺からなんとしても這い上がろうとして実際にそれを実現してきた孫の逞しいエネルギーに、要は嫉妬している」(219~220ページ)
この一節は、著者の解釈としては、ある程度腑に落ちる内容だが、ネット上の有象無象の連中が、ここまでの認識と理解力を持ち得ているとは、とうてい思えない。むしろ格差社会の深刻化の中で生みだされた大量の余裕の無い弱者たち、また弱者となることへの怯えを持つ若者たち。彼らの目の前に出自を隠そうとしない目立った成功者がいる。そいつは、世間では偏見・差別・いじめの対象にしても良い存在らしい。ならば、みんなでレッテルを貼って叩きまくろうぜ、というのが関の山の実態であろう。そして、その世間の安っぽい差別意識を扇動して利用する<確信犯>として石原慎太郎や格差歓迎の新自由主義の財界が存在するのだ。彼らは、石原の「三国人」発言をはじめとして差別意識にお墨付きを与えて、差別を扇動しているというのが日本社会の現状だろう。
著者の解釈は、取材対象である孫正義に対する誠意の表明ではあっても、日本社会全体の差別意識の説明には残念ながら成り得てはいないだろう。
はっきりしていることは、格差社会の実態から目を逸らせる為に、さまざまな差別意識を利用するむごい構造が日本の社会にある、ということだ。弱者は、差別できる対象を血眼で捜し続け、差別しながら、実は共に沈没していくという構造である。支配する側にとってこんなに都合のよい仕組みは無いのだ。孫正義が、例外であるとすれば、その存在が自らの意志を持ちながら、あまりにも巨大に成り過ぎたという一点のみである。政財界のお偉方からすれば、目障りな存在なのだ。
やはり最も罪深いのは、弱者の差別意識に確信犯的にお墨付きを与える石原慎太郎の「三国人」発言に代表される社会上層部(エスタブリッシュメント)による差別発言・差別助長の動きだろう。もし彼らが、差別反対の声を上げた場合の影響力とのプラス・マイナスの差を考えれば、その害悪の罪深さの度合いがよく解る。
※著者は、孫正義の叔父国本(李)徳田が1965年筑豊の三井山野炭鉱爆発事故で若い命を落としているのを紹介し、当時の炭鉱坑夫と、現在<原発ジプシー>とも呼ばれる原発現場作業員とを<使い捨ての命>として重ね合わせている。