9月27日(金):
表題
「世の中全体の保守・保身化、それはファシズム!今だけ金だけ自分だけが若い世代に浸透している。今さらだが「時代は(悪い方向に)変わった」と痛感する。それを自覚しなければ生きていけない時代、悪い意味で大人にならねばならない時代になったのだ。恥ずかしい・・・」
愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」に対する謂われない圧力問題は他人事ではない。2年程前には超進学校での「学び舎」の中学社会歴史的分野の教科書使用をめぐって、これを潰そうという圧力問題があった。この時には灘中学・高校の校長先生の毅然たる態度表明が話題となり、何とかこの難は収まったかに見えた。灘の校長は立派だと讃えられたが、裏を返せばそんな<神>対応をできること自体稀なことであり、灘の場合私立学校ということも重要な意味を持つだろう。
愛知トリエンナーレが公費使用の部分を強く攻撃されたように、公立学校の場合にはその圧力に屈従してしまうのが当たり前だということだ。灘の校長の<神>対応を見て、他の教育委員会や中学・高校の校長が「あれをお手本にして我が校でも独自の教育を護るぞ」とは決してならない。あえて火中の栗を拾わず、翌年には教科書採用を変更してしまうだろうし、横目で騒ぎを観ている教育委員会や自治体などは公立学校での社会科教科書の採用に関して徹底的に神経質になるだろう。
しかし、
本当に深刻な問題は、愛知トリエンナーレでは観客となる人々、公立学校では生徒や保護者の保守化であろう。「自覚なき保守化」と呼びたいが、アベ・アソウの7年に及ぶ長期政権は確実に学校現場や社会全体の意識を蝕んできているのだ。
考えてみれば、俺のように昭和の高度経済成長期から生きてきた世代には、社会主義陣営の崩壊、55年体制の崩壊、自社さ政権、日韓関係改善、小泉ポピュリズム、民主党政権、福島原発事故、アベ・アンダーコントロール詐欺発言によるオリンピック誘致、そして国民の棄民化(沖縄、福島、台風・地震の被災民)、子どもの貧困、そして静かに深化・深刻化した今35歳~45歳のロスジェネの貧困問題、目を覆うべき政治の私物化による劣化、深刻化する貧困格差問題を助長する超低賃金外国人労働者受け入れ、彼らの生んだ日本をホーム・グロウンとする憲法・法律に守られない外国人の子どもたちや若者の存在等々、社会の変化とともに価値基準の変化・劣化、一方で取り返しのつかない深刻化する諸問題に目が行って、その経験と視野の中で現アベ・アソウ・創価学会政権を批判的に観るのが当たり前になっている。
しかし、
今20歳の大学生は、アベを13歳(中1)から見ている。選挙権を持つ18歳の高校生は、アベを11歳(小5)から見ている。15歳の中学生に至っては、アベを8歳(小2)から見ているのだ。つまり、今の若者たちが物心ついた時には、アベの存在は当たり前になっているのだ。さらにロスジェネ(35~45歳)と重なる彼らの保護者世代も弱者切り捨ての小泉新自由主義、民主党の挫折と変節・裏切りを経て、立憲主義を否定するアベの7年を目の当たりにしてきた。超就職氷河期の実害も含めて政治に対する不信、思考停止、無関心にさせられた“世代”と言える。同時に並行してアベと自民党はこの7年間ずうっと彼らの身勝手な政治手法を当たり前のことと受け入れられる雰囲気をテレビ、新聞、ネットを駆使して、さらには公共機関への不当な圧力を繰り返すことによって、子どもたちや若者、保護者世代(ロスジェネ?)の心の中に意識として築き上げてきたのだ。
その雰囲気の中では、政治について真面目に考えたり、語ることは「政治批判だ」「一方的なアベ批判だ」「政治的中立を犯す」「両論併記でなければ偏っている」という言葉が誰にも反論をゆるさない、如何にも正しい言動である(錦の御旗、黄門の印籠)という意識が醸成され、植え付けられていった。自ら考えることを辞めた人間にとって、これほど便利な言葉はない。何も考えていない人間が、真面目に世の中のあり方などさまざまなことを深く考え抜いて発言する人間の言葉や考えを、たった一言で一蹴し、相手引きずり下ろし、優位に立って追い詰めることができるのだ。何も考えないで発するその一言の無責任さ、卑怯さ、恥ずかしさへの自覚は全くない。相手が誠実に対応しようとすればするほど、その無責任な一言は威力を発揮する。そんな反知性主義的言葉は無視してしまうか、灘中学・高校の校長先生のように厳しく突き放せばよいのだ。しかし、現実社会では愛知トリエンナーレや公立の中学・高校、その他公共施設ではわざわざ説明責任云々でピリピリして、程度の低い無責任な発言者を増長させてしまうのだ。そして、世の中では議論すべきことが議論されず、当たり障りのない言葉が行き交うのみになってしまう。それで喜ぶのは、無法な権力者のみであり、社会全体が活力を失い沈没していくのだ。
すでにマスコミはアベ腐敗政権下で陥落どころか、協力者になり果てている。組合が衰退・形骸化し、連合のように本分を喪失して狭い自分たちの利益誘導団体化する今、それに対抗して上述したような世の中の多様性と変化の過程を正確に子どもたちや若者たちに教え、現代社会の有り様に批判的目を開かせることができるのは、中学・高校における社会科教育しかない。そして、まさにその社会科教育が激しい攻撃にさらされているのだ。
新聞・ニュースで普通に報道されていることや教科書に書いている事実を語るだけで、外から強い批判・圧力を受けるだけでなく、内である学校の中の生徒・保護者から「安倍さんの悪口を言うな」「政治的に偏ってる」と批判を受ける。組合の無い学校現場では教育委員会の下に束ねられた校長をはじめとする管理職が事なかれ主義で生徒・保護者からの謂われなき「政治的発言」「中立を守れ発言」批判に敏感に反応する。生徒・保護者からの幼稚な批判は内容を精査されることもなく「苦情が来ている」と現場の先生に伝えられ善処を求めるという形で単純な口封じが行われる。
こんな形で次元の低い批判が、学校を動かすことができるという成功体験は、引き継がれ強化されていく。いまや公立の中学・高校では「政治的発言」「中立を守れ発言」にピリピリしている。こうして、日本社会における草の根民主主義は枯れ果てて、草の根国家主義、自覚なきファシズム、無知なる正義感に支えられた日本全体の保守化?と言うか、アベ・自民党・創価学会によるファシズム支配が根付いていくのだ。
ごく一部の強者に富が集まり、それ以外の皆が貧しくなっていくが、古くからの弱者、外国人労働者などの新しく生まれた弱者が徹底的に劣悪な状態にとり捨てられることによって「上見て暮らすな、下見て暮らせ」「あいつらよりはましだ」という卑しい横並び意識と意見を言う人間への忌避が強化される中で日本社会全体が活力を失い、沈没していく。日本は空洞化した魅力の無い国になり果てる。
問題なのは、アベ長期政権の中で、アベさえ変われば世の中が変わる。悪いのはアベだ。と言い切れないほどに、若者やロスジェネ世代を中心に日本人が批判精神を失ってしまっている。見かけだけの安定に騙されて、憲法を踏みにじるアベの稚拙な独裁を受け入れてしまっている、ということだ。「今頃、何言ってんだ!」と言われるかもしれないが、もみのおじさんはようやくこの絶望的な事実に気づき始めたのです。批判する体力を失った社会はどんどん崩れていくしかない。
枝野の立憲民主党の保守・保身的スタンスが明らかになりかけている。山本太郎のれいわ新選組を警戒視して、山本氏のくみ上げた民意を無駄にしようとしている気がする。一方で、安倍政権の生みの親である野田汚物が出張ってきて明らかに山本太郎氏を敵視し、潰そうという意志を見せている。これで前原詐欺師まで出張ってきたら俺の忍耐の限界を超えるだろう。山本太郎氏をあだ花にして、アベ(日本会議)院政による長期自民・創価学会政権を続けるつもりなのか。
枝野立憲民主党が選択を踏み誤らず、政権交代を実現し、その変化を若者たちに見せてほしいと心から祈念する。
山本太郎氏のれいわ新選組を見殺しにすれば、また日本は向こう10年間、道を見失うことになるだろう。オリンピック、(大阪万博?)のバカ騒ぎの後、再び強烈なデフレ、不景気に襲われ、国家的資産を失い、新たなロストジェネレーションを生み出し、どんどん右傾化と弱者虐待・見殺しに拍車がかかることになるだろう。
そうなれば、俺としても保身に回らざるを得ない。と言っても俺の寿命はそう長くはないだろうから、俺にとっての保身とは妻と幼い息子の人生だけは何とかして守れるように努力するしかない。具体的には、徹底的に教育に力を入れるしかない。こうして俺のような新中間層も保守化して「今だけ金だけ自分だけ」意識ばかりを強めて、日本社会全体のアベ化が進むことになる。
立憲民主党とれいわ新選組と共産党の大きな共闘が実現しなければ政権交代はあり得ない。できなければ、日本は右からか、左からかわからないが<革命>をもってしてしか変わらないだろう。そして、それはいずれにしても不幸な選択でしかない。バカ政治屋がほざいている<戦争>もそろそろ視野に入ってきている。しかし、アメリカの核は世界最強だからアメリカにさえついていれば安心だ、なんて寝言を言う奴もいるが、戦争は飛び道具(核兵器)だけで決まるわけではない。テロをはじめとする現実の地上戦で決まるのだ。大義の無い戦争をすれば、アメリカでも捨て身の地上戦を仕掛けられて敗れざるを得ない。ベトナム戦争、アフガン戦争、9.11、イラク戦争を思い出せば、飛び道具(核)で勝ったことなど日米線を除けば未だかってないのだ。
つくづく「日本は卑しくみすぼらしい時代になった」と思う。「今の日本は昔の日本とは違うのだ」「恥ずかしい時代を生きているのだ」「当然の如く正しい価値観を共にする仲間だと心を許していた人々が、実は決して仲間ではなかった。すぐ隣で目を光らせ監視している無知な大衆であり、最も警戒すべき存在(敵…)なのだ。もはや性善説は通用しないのだ」と、改めて強く自分に言い聞かせなければならない。これは本当に悲しくて情けない結論だが、そうしなければ思わぬところで足をすくわれることになるのだ。この自覚は本当に残念で恥ずかしいことだが、大切な家族や生活を護るためには必要なことなのだ。ため息の出る日々がこれからも長く続く。
昔読んだ小説に知性的で賢いが<目を開けながら、心を閉ざし何も見ないで生きる>登場人物がいたが、あれはこんな状況下なのだろうか。戦後に生まれて、それなりに厳しい状況も切り抜けて生きてきたつもりだが、まさかこんなひそひそ話をしないといけないような息苦しい時代に直面するようになるとは思いもしなかった。市民が監視し合い、特高警察の足音がもう少しで聞こえてきそうな気がする。
あのような時代は、誰か特定の悪者がいて、人々を追い込んだというよりも、<無知な大衆>の正義感(全能感)と善意の中で形作られていったのだ、と今は思う。
最後にもう一度深呼吸をして気を取り直そう。そして、用心しながらも「前を向いて生きて行こう」と思う。
今日はすごく嫌なことがあった日だった。