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もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

180401 NHKドラマ「どこにもない国」感想3+…中国残留孤児について一言欲しかった。

2018年04月01日 17時14分31秒 | 映画・映像
4月1日(日):    

NHKドラマ「どこにもない国 前編75分・後編75分」~150万同胞の引き揚げ実現に奔走する男たち!満州で待つ妻と子の再会の日は来るか?~ を観た。歴史的に全く?無名の人々が、使命感を持って命がけで満州を脱出し、日本に戻りつき、GHQ占領下の日本政府に働きかけ、救出を求める全国遊説を行い、ついにはマッカーサーにまで面会し、葫蘆島を基地とする在満日本人の全面的日本帰還を実現した物語りは確かに知らなかったことを知ることができて感動的だった。

ただ、最後の瞬間まで「今か、今か?!」と待っていた、たったひと言の言及が出てこなくて、強い違和感が残った確かにエリートではあっても全く無名の市井の?男たちが、GHQにまで掛け合い時代を動かした物語りは素晴らしい。それで、多くの日本人が助かったことは大きな成果であり立派な日本人の存在を知ることができた。しかし、このドラマは、ハッピーエンドの市井の英雄譚で終わらせてはいけないはずだ。

多くの日本人が救われた一方で、多くの日本人が犠牲になったことも事実だ。「命を落とした者以外にも、当時、親を失った多くの子どもたちが中国人に引き取られ、中国残留孤児となった。戦後50年を過ぎた頃、帰還運動によって多くが日本に帰国を果たしたが、言葉や習慣の違いによって、未だに日本社会に適応しきれないで苦労している孤児の人々も多いというひと言をわずか20秒ほど付け加えるだけで、このドラマの<視野>は大きく広がり、<品格>はずっと上がったと思う。そのひと言が無かったことが残念である。

今のNHKの感性のほどが、こういう部分で分かってしまう。幼稚なナショナリズム、ポピュリズム、目先の格好良さにのみ引かれて全体を見られていない。センスが悪い。画竜点睛を欠く。九仞の功を一簣にかく。前にドラマ「坂の上の雲」の時にもこんな感じを受けたのを思い出した。
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171223 「コウノドリ(第2シリーズ)全11話」 感想5+α ※第3シリーズ「完結編」を確信!熱望!

2017年12月23日 13時15分44秒 | 映画・映像
12月23日(土):      

昨夜「コウノドリ(第2シリーズ)全11話」の最終回を観終わった。そして録画を既に3回観直している。その前の第1回から第10回までは何度も何度も見直して、ほぼすべて10回近く見直している。ほとんどBGMのように流しているのだ。他にいろいろな番組があるのに、俺はこの3カ月「コウノドリ」ばかりを流し続けていたことになる。逆に言えば、そうやって見直すことができる内容の作品だったということだ。

第1シリーズでは、コウノドリを<知のドラマ>ではなく、<情のドラマ>だから何度でも見なおすことができる。故桂枝雀師匠の「<知>には記憶があるが、<情>には記憶がない。赤ちゃんを一度見たら終わりではなく、何度でも見たくなるのが分かりやすい例だ。そして、筋書きも結末もすべてわかっている<落語という芸>が成立する理由もそこにある。」と述べてられていることを紹介したが、今回の「コウノドリ2」もまさに前回シリーズを踏襲して、<情のドラマ>になっていた。

しかし、今回の「コウノドリ2」は、単なる<情のドラマ>ではなかった。「満を持して」という言葉があるが、まさに今回は「満を持して放たれた内容」だった。つまり、第2シリーズでは、一定の視聴率は約束されている中で、ただ単に視聴者に阿るのではなく、「医療」を扱う作品としての社会的影響力の大きさを強く自覚し、社会の無知・無理解を少しでも物語りを通して啓発していこうという<志>を前回にも増して強く感じた。

本作品を繰り返し見直しながら俺が感じた言葉を列挙すると、中心にある<情のドラマ>ということに加えて、医療者・医療現場の<志操>、<節義>、<患者本位>、<奥行きの広さ>、分野を超えたチームとしての<総合医療>の大切さ、そして自らの<無知>に対する<謙虚>と<学び>、そして<理想>であった。これらをまとめれば、<損得を超えた価値観>の存在である。

書きながら気づかされるのは、このドラマが提示している世界観は、弱肉強食の肯定、弱者への責任転嫁と切り捨て、利益・能率第一、儲けて何が悪い!等の<新自由主義>を標榜する日本社会で、厳しい<現実?>の前で<損>だ、<能率>が悪いとバカにされ、貶められ、無理やり忘れさせられてきた大切な価値観の数々である。

別に、肩を怒らせて言うわけではないが、「コウノドリ」が提示してきた世界観は、まさに<新自由主義>、<グローバル>を標榜する<夜郎自大>な日本社会の風潮に対する真っ向からの<アンチテーゼ>であったのだと思う。心身を擦り減らしながら時にバーンアウトにまで追い込まれる患者本位の医師、助産師、看護師の存在、時に反発しつつもその医療者たちの良心を信じて人生の重大な決断を委ねる夫婦、そういった<理想>の世界を描きながら、優しいだけのドラマに堕さない、堕すことを許されない産科医療、救命救急医療、過疎の地域医療のまさに厳しい<現実!>が描かれている。

このドラマを、単なるお涙頂戴のドラマと考える視聴者は、自らの不明を恥じるべきだろう。第2シリーズでは、第1シリーズをずっと凌駕する<奥行き>と<厚み>と<使命感>への自覚を俺は感じた。ホームページに、新たに?厚生労働省とのリンクが貼られていたことにも、それがわかる。

そして、今回のシリーズの凄味は、それらのある種の教科書的<使命>を果たしながら、何度でも見直したくなる、見直すことのできる<情のドラマ>としてのクオリティーを維持するどころか、増幅して内容をより一層充実させていることだ。理由は恐らく2つ、主演の綾野剛には気の毒ではあるが、脇を固める俳優たちが今や主役クラスの一線級に成長して、それぞれが自らの持ち役を大きく成長させ、リアリティのある存在として活躍する広がりのある<群像劇>になったこと。コウノトリ先生は、いわば群像劇の中のナビゲーター的存在となった。そして、綾野剛は、その役目を見事に演じきった。次に、新しい登場人物の俳優たちが話の進行の中で違和感なく、個性的な役を演じきったこと、そして前回のシリーズで脇を固めた医師たちが効果的に順次表れて登場人物がどんどん増えながら物語り全体に<群像劇>としての厚みと広がりがいや増していったことである。これによって、今回新たに「コウノドリ」を見始めた視聴者だけでなく、前回シリーズを見ていた視聴者にとって堪らない最高のドラマになったのだ。初回に18トリソミーの赤ちゃんのナオトくんが2歳健診で登場したときには涙ぐんでしまった。

そして、<群像劇>として最高潮を迎えた最終回で、医療における<現実主義>を最も主張してきた、あのツンデレの優しき四宮先生(星野源)に能登半島の地域医療という最も<理想主義>的な選択をさせての過疎地に送り出し、助産師の小松さん(吉田羊)を病院外から妊産婦に寄り添う新たな施設の起ち上げに向かわせ、白川先生(坂口健太郎)をより高みを目指す大学病院へ送り、下屋先生(松岡茉優)はすでに救命救急の現場で不可欠な存在となりつつある。いわば、主役の綾野剛と、ドラマの要(かなめ)の大森南朋を残して見事にこの<群像劇>は見事に解体されたのだ。しかし、それはペルソナ総合医療センターの世界が見事に<解き放たれた>とも言える、つまりバラバラになったのではなく、そのフィールド、活躍の場を見事に広げて見せたとも言えるのだ。

俺は「コウノドリ」は、第2シリーズでもう終わりだと思っていたが、今回の終わり方を見て第3シリーズの可能性をほぼ確信した。スペシャル編を一本作るだけでは、もったいないほどの十二分な布石が打たれているのだ。「完結編」としての第3シリーズができても、何の不思議もないし、俺は是非観たいと思う。今回、このドラマを見ることによって俺自身本当に多くの<学び>を得たと思っている。本作品は、ある意味、どうしても必要な社会的使命をも担った、そして何よりも視聴者に何度も見直したくさせる<情のドラマ>、故桂枝雀師の落語のような噛めば噛むほど味わいのある、世の中(日本)に必要なドラマである。

俺がわざわざ指摘するまでもなく、物語の展開から、テレビ局の側は第3シリーズの制作を意識しているだろう。もしも不安要素があるとすれば、「原作コミックがどこまで量的に仕上がっているのか」という問題だけだと思う。今後は、原作者の鈴ノ木ユウ氏をテレビ局が全面的に支えて、次のドラマに向けて妥協のない話し合いを深めて、視聴者に阿らない付け焼刃でない内容を作り上げていってほしい。2年後?、今回の登場人物たちがよりパワーアップして、広い活躍舞台から「完結編」を作ってくれることを楽しみにしている。そのためには、シノリンを能登半島から呼び戻さないといけないが、それこそ「また理想ばかり言っちゃてダメだよね」「理想を言うやつがいなければ(世の中は)前には行けないからな」というサクラとシノリンのやり取りのようであって欲しいものだ。

最後に、俺は個人的には医療福祉士の向井 祥子役の 江口のりこさんが気に入っている。この人は、女“岸部一徳”に見えて仕方がないのだ。

第2シリーズってのは、やっぱり結構難しいと思うのだが、こんな風に嬉しい形で期待を裏切ってくれたのは、最近では中井貴一と小泉今日子のW主演の「最後から二番目の恋」以来である。でも、第3シリーズ「完結編」をこれほど期待した作品は「コウノドリ」が初めてかな? 心を残して終わらせる美意識もあるかもしれないが、「コウノドリ」では是非力を振り絞って、世の中の誤解、偏見、無知による幼稚な差別意識を少しでも払拭するために、もうひと頑張りしてもらいたい。

愚劣な独裁者の手先に成り下がっていながら、「受信料、受信料」と強権的に裁判で国民を脅迫しまくっている某国営放送も、「コウノドリ」ぐらいのレベルの高い作品をしっかり作ってからモノを言え!と言いたい。権力者にゴマをすりまくった超低レベルの大河ドラマ「花燃ゆ」や「おんな城主 直虎」を作っておきながら、強権的に「受信料」を誰かれ無しに取りまくろうとする姿は卑しくて、まさに片腹痛いわ!、と言いたい。
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171105 NHK-BS「山女日記 続編の上・下」 感想4 ※けっこう良かった。

2017年11月05日 23時30分19秒 | 映画・映像
11月5日(日):  

剱岳に1度だけ登ったことがあるのが自慢です。本当に怖かった。泣きそうでした。白馬岳、雪倉岳、奥穂高岳、鹿島槍ヶ岳、八ヶ岳連峰、五竜岳、御嶽山など登ったことがあります。特に雄大な五竜岳が好きです。称名滝を俺は見たことがあるのか、見たような気がします。でも、その時は値打ちがわからなかったなあ。

工藤夕貴さんが素敵さを失っていなかったのが何か嬉しかった。
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171028 NHKこころの時代「インドの大地に再び仏教を 佐々井秀嶺師」 感想4

2017年10月28日 18時43分04秒 | 映画・映像
10月28日(土):  

繊細な内容ではない。そのうちつまらない正体が出るだろう、と少し斜に観ていた。しかし、この佐々井秀嶺師は違った。「義理と人情 弱きを助け、強きをくじく」実践第一、「”ジャイ・ビーム!” アンベードカルの祈り」へと突き抜けてしまった。理屈や説明を超えて突き抜けてしまわれると認めざるを得なかった。

番組中で、アウト・カースト(ダリット)の解放に取り組み、仏教に改宗して2か月後に亡くなったアンベードカルのことが出てきた。「世界史B」教科書を調べると、山川出版社には載っていなかったが、帝国書院には載っていた。これはかなり根本的なセンスの違いの問題だと思った。

【番組紹介】岡山の山村で育った佐々井秀嶺さん(82歳)。悩み多き青年時代、自殺未遂を繰り返した末に、山で一命を取り留め、仏門へ入った。やがて単身インドに渡るが、そこで出会ったのは、差別と貧困の中で苦しむ仏教徒たちの姿だった。彼らの境遇と自らの生い立ちが重なり合い、彼らを救えるのは自分しかいないと確信する。佐々井さんが考える、仏教の根底にあるという差別への「大いなる怒り」、そして「闘う仏教」の精神について伺う。

佐々井秀嶺(ささい しゅうれい)
1935年 岡山県生まれ。25歳の時、高尾山薬王院にて得度。
1965年、交換留学生としてタイに渡り、その後インドに入る。1967年、龍樹菩薩の霊告によりナグプールに赴く。ナグプールは1956年、B・R・アンベードカル博士が数十万人の不可触民と共に、仏教に改宗した場所であった。以来、現地の仏教徒と寝食を共にし、アンベードカル博士の仏教復興運動を継承。1988年、百万人の市民の署名によりインド国籍を取得。インド名Arya Nagarjuna Shurei Sasai。毎年10月に行われる、ナグプールの大改宗式で導師を勤め、およそ1億人とも言われるインド仏教徒の最高指導者となる。ブッダガヤ大菩提寺の管理権を仏教徒の手に返す奪還運動を主導。 2003年より3年間、インド政府少数者委員会(マイノリティ・コミッション)の仏教代表に就任。仏教徒の社会的地位向上に尽力する。1990年代より、マンセル遺跡、シルプール遺跡に関わり、仏教遺跡の発掘、保存を展開する。2009年、44年ぶりに日本に帰国。翌年、ナグプール郊外に龍樹菩薩大寺を建立し、大乗仏教の祖師龍樹菩薩を顕彰する一大拠点を設ける。2011年より3年連続して帰国、東日本大震災の被災地を訪れ、犠牲者を追悼し、原発の非道を訴える。現在82歳。
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171003深更 映画「二百三高地」(舛田利雄監督:1980)感想 特5(別格!)

2017年10月04日 03時17分58秒 | 映画・映像
10月3日(火):  

明日も仕事があるのに、バカだなあと思いながら、目が離せなかった。何度見返してきただろう。NHK「坂の上の雲」よりも上だろう。この映画は別格だ。
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170926 NHKクロ現+「92歳の“安楽死宣言” 橋田壽賀子 生と死を語る」 感想5

2017年09月26日 23時38分43秒 | 映画・映像
9月26日(火):

序盤で「迷惑をかけたくない」という橋田さんの言葉が出た時には、非常に社会的影響力のある人の発言だけに「障害者や難病の人々、高齢者の”生存権”を脅かすのではないか」とちょっと焦った。ただ、最後まで観ていると、あわてふためいて騒ぐような内容ではなかった。

安易に言葉をはさむことはできないけど、ごく常識的な感覚の内容だったと思う。(その軽い印象が、逆に危険なのかもしれないが?)大切なことは、安楽死そのものではない。むしろ92歳の橋田さんが求めているのは、年老いても自らの意志を尊厳をもって生きるための選択肢の一つに<安楽死>というものを保障してほしい。「(保障された)死を見つめることで、(安心して)生きる(ことができる)」という声のようである。

それは障害者や孤独な高齢者の生存権とは切り離して考慮されるべきことなのだ。逆にそれをダメだと封じ込めることは、結局空々しい偽善を生じて本来のすべてに人に保障されるべき生存権を危うくすることにつながるだろう。一番大事なのは、人生の<選択肢>をできるだけ多く保障することだ。<安楽死>は橋田さんが言われるように「一つの安心」「心の保険みたいなもの」という言葉に尽くされていると思う。

結論なんて無い。俺はそんなこと言える立場にはない。ただ、すべての人が大切にされる社会であってほしいと思うのみである。ホスピス病棟を経営しながら自らもすい臓ガンで亡くなる姿を最期まで取材を許可したお坊さんが「傾聴」という言葉を強調されていた、のを思い出す。人間は、年老いても、病気で死を目前にしても、自らの思いや言葉をしっかりと聞いてもらえる(「傾聴」)だけで大きな生きる支えとなるということだ。橋田さんが、NHKの取材に答えていくうちに生き抜くことの大切さを語られていくのが印象的だった。

編集でなければ、自らを語り、傾聴される場を与えられたことによって橋田さんに生きる意志が強められたのだと思う。橋田さんのように人並外れた発信能力と業績を残された方でもそうであるとするのならば、俺を含めて、そんな力のない多くの消えゆく人々の声に耳を傾ける、そんな人々が自らの声にしっかりと傾聴してもらえる場を保障することが、予算はそれほどかからないで一つの福祉政策たり得る。人間を大切にする社会とは、お金をかけなくても、弱い状態の人に寄り添い、声をかけ、声を聴くことがごく当たり前の社会ということかもしれない。

【番組紹介】「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」など大ヒットドラマを連発してきた日本を代表する女性脚本家・橋田壽賀子さん(92)。ある“宣言”が大きな反響を呼んでいる。それは「私は安楽死で死にたい」というものだ。戦争一色だった青春時代を生き抜き、家族の姿を描く脚本で、時代の心をとらえ続けてきた橋田さんが、なぜ今、安楽死について語り始めたのか。生と死について突き詰めたという橋田さんの人生に、単独インタビューで迫る。
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170918 NHK「ありのままの最期 末期がんの“看取(みと)り医師” 死までの450日」 感想5

2017年09月19日 01時36分15秒 | 映画・映像
9月18日(月):     (※追記:異常にたくさんの方々がこの記事にご来訪頂きました。有難うございますm(_ _)m。)

今晩放送されたNHKドキュメンタリーを観た。良寛さんの「 うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ 」の句が思い浮かんだ。有り難い姿に最後は合掌した。

夫婦ともに医師で、僧侶。30年近く末期がん患者のホスピス(終末医療)に取り組んできた。夫の医師・僧侶が末期がんを発症し、余命わずかの医師の存在を聞きつけて駆け付けたNHK取材班に自分自身の闘病、衰え、亡くなるまでをすべて隠さず取材することを許可した。見送ったホスピス患者たちから多くのことを教わったので死ぬこと自体は怖くないという。放送は、自分の葬式後でいい。内容を確かめる必要もない。

潔い言葉に魅かれた。死の最期までを撮り切った記録である。後半は本人よりも彼を取り巻く人々の思いも一緒に描き出される。特に奥さんの医師・僧侶の思いの深さに観ているこちらも戸惑った。人間の死が、本人の問題だけでは決してないという当たり前のことを教わった。数日前に、キリスト教もいいかな、と思っていたが、偉いお坊様もきちんといるのだ。

克明な死の記録は、案外少ない。けれど、死に立ち会い、死を目の当たりにすることが多くなると慣れはしないが、極度に恐れる必要もないかな、と思えるようになる。できれば、事故などではなく、病院のベッドで十分な医療措置を受けて安らかに逝ければいいな、とは思うが、こればかりはまじめに努力はするが、求めすぎても仕方のないことかと思う。

亡くなったお坊様(栃木県 西明寺住職・医師 田中雅博 氏)については、偶然だが、4月29日のNHK心の時代~宗教・人生~「いのちの苦しみに向き合って~がんになった「僧医」の遺言~」でも録画が残っているので、後日じっくりとお話を伺いたいと思う。「死して朽ちず」とはこの方のことかもしれない。立派な最期だったと思う。
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170916 昨夜の追記:「奇跡の丘」を観て思うこと。無理だろうが、念仏よりも「アーメン」がいい?

2017年09月16日 15時15分45秒 | 映画・映像
9月16日(土):  ( 記録:昨日9月15日(金) 1215PV 335IP ちょっとIP数に驚いた。 )

昨夜の追記:

最近、何となく思っていたことだが、「キリスト教徒になってもいいかな。改宗したからって、俺の何かが本質的に変わるわけではないよな。」と思うのだ。尊敬する中村哲医師が、若い時に途中で自分の意志によってキリスト教信仰に改宗したという話も、何か理解できる気がする。

俺の家は浄土真宗西本願寺派で、念仏「南無阿弥陀仏」や、帰命無量寿如来 南無不可思議光 云々の「正信偈」に慣れ親しんでいる。でも、日蓮宗の寺に行けば、題目「南無妙法蓮華経」を唱えるし、真言宗寺院では「南無大師遍照金剛」や「オンナボキャーベーロシャノーマカボダラマニ ハンドマジンバラハラバリタヤ ウン」などと冗談で真言を唱えたりする。今でも「般若心経」は暗唱できるし、以前は比叡山の千日回峰行や禅寺の座禅に憧れたし、「白隠禅師座禅和讃」も暗唱できた。だから何?

念仏も題目も実は体(てい)のいい「仏教の一神教化」だと俺は思っている。仏教の教えはあまりに煩雑で膨大な経典は多過ぎるし、お寺がたくさんあるので、何となく仏教が生活に身近な感じがするが、どれほどの有り難い教えを知っているというのか。ニタニタした、したり顔の坊さんばかりを見て、仏の教えを本当に感じられているのか?

結局、不殺生戒をはじめ、ごく常識的な戒め以外に”教えらしい教え”を身近に感じることはない。まさに葬式仏教である。仏教学者にでもならない限り、どの宗派であっても一般の庶民にとって仏の教えは近いようで遠いことは変わりはない。結果として、かえって煩雑な仏の世界や仏教の教えの中で、阿弥陀仏だけ、法華経だけ、弘法大師だけを選んで、「南無○○○○」とだけ唱えていればいい。救いの主を一つに絞ってしまうのだ。信仰について考えることを放棄してしまう。

そうして仏教が疑似一神教化した瞬間、膨大な経典を持つ仏教と旧約・新約の聖書しか持たないキリスト教、コーランしか持たないイスラム教の関係は逆転する。キリスト教やイスラム教の教えは、一人の人間が神の教えを覚え込み、学び、実践し、信仰心をみがき、語り合うのに適した量である。膨大な経典があっても仏教は、一神教的に単純化された瞬間「すべての人が救われていることを信じればよいのだよ(本願誇り?)」と超単純化して、一個の人間が生きるための信仰の指針からはかけ離れてしまうのだ。

俺は若い時から仏像を観るのが好きだし、お寺に行くのも好きだったが、美術品鑑賞を気取って高い拝観料をとって威張っている有名寺院のあり方には正直「頭がおかしいんじゃないか」と反発と疑問を持っていたが、昨夜のような”キリスト教の映画”を観ると「信仰って何だ?」という原点に返った時、日本の仏教は信仰の体(てい)をなしていないし、日本の神道(しんとう)に至っては、信仰の論理すら持たない幼稚さだ(*あくまでも個人の感想です)。

もちろん、世界中でキリスト教徒の国々が殺戮と収奪・搾取の限りを尽くしていることをよく知っている。イスラム教の六信五行の窮屈な信仰生活はとてもじゃないが俺には受け入れられない。何よりも俺は豚肉が大好きだ。それでも、「本当に信仰心を持つのであれば、キリスト教徒となって、旧約聖書と新約聖書の世界を心の糧にして生きていくのは悪い選択ではない」という気がする。

今となっては改宗はどうせ無理だろうが、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて阿弥陀如来にすがるよりも、旧約・新約の聖書を読み込んで日々の生活の中で「アーメン」と唱えて全能の唯一神にすがって生きる方が白々しくない気がする思いが俺の中には確実に存在するのだ。まあ、信仰も個の意志よりも縁で決まる面が大きいので仕方がないのだろう。今さら、俺がクリスチャンになっても、俺は両親や家族と一緒のお墓に入りたいので火葬でお骨になるのだし、それは「最後の審判」を受けるには不都合なのかもしれないから。

悩んでいる訳ではないが、普段何となく宗教・信仰について漠然と思っていたことが、昨夜の映画の「イエス」の姿、言葉、行動に刺激されて少し明確な思いになったので記しておこうと思った。人間って、日々いろいろなことを思い、感じながら生きているものである。
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170915 映画「奇跡の丘 Il Vangelo secondo Matteo」(伊・仏:1964)感想5 ※マタイによる福音書

2017年09月16日 04時22分51秒 | 映画・映像
9月15日(金):          

NHKBSの深夜放送枠のプレミアムシネマでピエル・パオロ・パゾリーニ監督・脚本「奇跡の丘 Il Vangelo secondo Matteo」(伊・仏:1964:2h17m)を録画しながら鑑賞した。この映画は、複数ある福音書のうち、マタイによる福音書を映像化したものである。録画予約はしてあったが、同時に観ようとは考えていなかった。しかし、見慣れない古代パレスティナの風景・風俗がリアルに再現されていて、機関銃のように注がれるイエスの言葉を字幕で追いかけていくうちに目を離せなくなり、そのまま最後まで見続けてしまった。あと、映画の中に意図的かどうかは知らないが、どの場面でもハエがたくさん映り込んでいたのが妙に印象的だった。

俺は、もちろんクリスチャンではないが、若い時にキリスト教については、それなりに強い関心をもって多くの本を読んでのめり込んだことがある。今でも「エロイ エロイ ラマサバクタニ」「神よ彼らをお許し下さい。彼らは何をしているか知らないのです」や「クオバディス ドミネ」などの言葉がすぐに浮かぶ。特に、小学館・ラルース共同編集「聖書―Color Bible 全8巻」を蔵書として購入し通読していることで旧約聖書(1)~(6)、新約聖書(7)・(8)の内容を一通り映像的イメージとして持てている。話が飛んで恐縮だが、俺が最も興味を持っている旧約聖書の物語は「ヨブ記」である。また、遠藤周作の一連のキリスト教関係の本の記憶もある。

それなりに「イエスの生涯」については、わかっているつもりだったが、この映画を観ていて強く感じたのは、ずいぶん多くのことを忘れてしまっていることへのショックと、まだ覚えられていたことの確認・安心の繰り返しだった。また、イエスが旧約聖書の内容をしきりに引き合いに出して弟子らと語り、律法学者やパリサイ人らの偽善と激しく論議していることで、やはり旧約聖書を前提にして新約聖書の世界(=キリスト教)が成り立っていることを確認できた。その意味で、旧約とキリスト教への強い関心の回帰に役立つ機会となった。正直言って、自分の人生、間口を新たに広げることも大事かもしれないが、そろそろ年齢的に、これまで既に広げ掘り下げてきた世界をもう一度思い出し、掘り下げ直すことの方が大事なんじゃないかと思えることが多くなってきた。

この作品を観ていた感想としては、まず網羅的ではないが基本的エピソードはしっかり押さえているが、順番はかなり違う気がした。先述した古代パレスティナの風景・風俗の描写は、「これが欧米キリスト教徒たちの”原風景”なんだな」と貴重な体験になった。あと、イエスの母マリア役の女優二人とイエス役の俳優がとても良かった。特に、若きマリアを演じた女優には、ミケランジェロのピエタを連想した。イエス役の俳優を見て、イエスが30歳代前半で罪なくして処刑された若者であったことを思い知った。

ペテロの(教えを広める中で)「何度裏切られるまで赦せるのですか。7度ですか。」という問いに、イエスが「7度の70倍だ(ってことは無数であり、最期まで赦し続けろ!ってことだろう)」と答えたシーンも印象的だった。

また、今日では当たり前のイエスの語る神の言葉・行為が、当時のユダヤ教信仰の世界では、ことごとくうわべの飾りをはぎ取って、神への内面の本質的信仰心のみを強く求める”革命的”とも言える言葉・行動であった。イエスの存在そのものが、当時の世の中の価値を反転させる過激なものであり、身の危険を強く覚える中で、わが身の保身を求めようとする心を「悪魔よ去れ!」と叱咤し、自らを奮い立たせようとするイエス自身の必死さも印象的だった。

映画を観ながら、イエスのことを考え続けながら、自分が若い時と一番違って感じたことは、イエスの生きた時代の近さ、イエス自身に対する「そんなに昔の人じゃない」という感覚だった。理由の一つは、映像から見えるローマ帝国の風俗は案外と現代的であったこと、もう一つは俺自身が60代を身近に感じる年齢になったことだ。2000年前は、20代の時には自分の人生の約70~90倍ということは、途方もない昔だったが、50年以上生きてみて「50年なんて大して長くなかった」と実感として人生を感じている身には、自分の人生の35~40倍程度の繰り返しでイエスに至れると考えてしまうと「案外、近い時代の人だ」と感じてしまったのだ。

イエスを意外と近い人だと感じ、彼が当時の社会にとっては革命的な宗教改革者であったことなどを確認する中で、叱られるかもしれないがオーム真理教の麻原彰晃を思い浮かべてしまった。しかし、同時に麻原は多くの人を騙し、多くの人の命を奪い、傷付けたのに対して、イエスは多くの人を「奇跡」(?)によって救い、誰一人も傷付けなかった。この一点だけでも、キリスト教とオーム真理教は決定的に違うことを確認した。

あと、イタリア語で、ヨハネをジョバンニと発音することを知って、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思い出し、カンパネルラは英語?で何と言うのだろう、と考えた。また、インマヌエル・カントのインマヌエルは「神は我々とともに」「天、共に在り」である。シモンが改名してペテロ(「岩」)になった。

イエスを銀貨30枚で売り渡したユダは、「罪なき神の子」を罪に落としてしまったことを悔い、パリサイの司祭どもに銀貨を投げ返し、エルサレムの街を走り抜け、郊外の木で死に急ぐように首をつったシーンが、知っていたが、欠かせないシーンであることを確認した。それから、サロメが、ヘロデ・アンティパスの前で舞を披露した褒美にバプテスマ(洗礼?)のヨハネの首を切って盆に載せることを求めたシーンもきちんと描かれていた。

ザッカーバーグら世界一の金持ちらが、信じられないような寄付行為をしたり、キリスト教世界で盛んなチャリティーもこの映画を観ていて、何となく実感をもって感じられた気がした。彼らの寄付行為は単なる善行ではない。聖書に記された教えに従っているのだ。もちろん、すべてのキリスト教徒がそうだなどという気は全くないが、その一面が存在することも確かなのだろうと思った。

イスラム教で、ムハンマド(人間)の役を俳優がすることはあり得ない。キリスト教では、イエス(神の子)の役を平気で人間の俳優がやってしまえる。考えてみれば、面白い対比である。

【ウィキペディア】『奇跡の丘』(きせきのおか、伊: Il Vangelo secondo Matteo、英: The Gospel According to St. Matthew、「マタイによる福音書」の意)は、1964年(昭和39年)製作・公開、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のイタリア・フランス合作映画である。/「マタイによる福音書」に基づいて処女懐胎、イエスの誕生、イエスの洗礼、悪魔の誘惑、イエスの奇跡、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ゴルゴダの丘、復活のエピソードが描かれている。/ヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞を受賞。
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170822 「マトリックス レボリューションズ」(2003:アメリカ) 堪能しました!感想5

2017年08月22日 01時46分26秒 | 映画・映像
8月21日(月):            

先週の「マトリックス リローデッド」(2003:アメリカ)に続いて、「マトリックス レボリューションズ」(2003:アメリカ) を今、観終わった。最後は、「風の谷のナウシカ」みたいになったが、堪能しました。感想は「やれやれ、アメリカの巨大資本が作り出す映画作品というのは、まったく途方もない…」の一言だった。キャストでは、俺はセラフとメロヴィンジアンが好きでした。あと、本作品での、黒人俳優の活躍、表現は非常に好ましく感じた。黒人の存在の方が人間の原初の姿に思えてきて心地よかった。

忘れていた! 本作品には三船敏郎へのオマージュが含まれていた。少し嬉しかった。

もし宜しければ、以下の記事を訪れてみて下さい。
「184冊目 鈴木光司「リング」(角川ホラー文庫;1991)  評価4」  2012年03月22日 05時29分28秒 | 一日一冊読書開始
「185冊目 鈴木光司「らせん」(角川ホラー文庫;1995)  評価5」  2012年03月23日 05時18分55秒 | 一日一冊読書開始
「186冊目 鈴木光司「ループ」(角川ホラー文庫;1998) 評価5」  2012年03月24日 07時58分19秒 | 一日一冊読書開始
「187冊目 鈴木光司「バースデイ」(角川ホラー文庫;1999)  評価4」  2012年03月30日 03時23分28秒 | 一日一冊読書開始
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170813 昨夜、小さな奇跡と喜び。中村哲医師の録画を2つ発見。静かな覚悟の言葉。

2017年08月13日 17時43分20秒 | 映画・映像
8月13日(日):       

いま、俺が最も尊敬する日本人の一人がアフガニスタンで旱魃に立ち向かい用水路を開削している中村哲医師である。きっかけは、昨秋NHKで放送されたETV特集「武器ではなく命の水を~医師・中村哲とアフガニスタン~」(2016年:70歳、アフガニスタン32年目)であり、繰り返し数十回観直し続けるとともに、彼の著書を読んで感嘆してきた。

しかし、ずっと疑問に思っていたことは、俺は去年初めて中村医師を知ったのではない。もう十数年前から知っていて、ずいぶん昔に彼を強く尊敬の目で意識していたのだ。ただ、当時は著書を読むこともなかったので、なんとなくそのまま忘れてしまっていたのが、昨年秋の放送を録画して再度火がついたという次第であった。

昨夜遅く突然「俺は中村哲さんの録画をもっているかもしれない!」と思い至り、手元のDVDファイルを丁寧に探してみた。最大の懸念は、録画した膨大なビデオテープはあるが、今はビデオ再生機がもう無いのだ。テープなら確認するすべすらないことになる。少し時間はかかったが、昔にビデオテープからDVDにダビングした?と思われる下記のDVD録画2本見つかった。画質もそれほど悪くはない。

*NHK 心の時代「長き戦いの地で~医師・中村哲」(2001.11.25:55歳)アフガニスタン18年目
*NHK ETV特集「アフガニスタン 永久支援のために~中村哲 次世代へのプロジェクト~」(2010.11.14.:64歳)アフガニスタン27年目

各60分、内容は非常に充実していて素晴らしかった! 思い付きで探してみたら、お宝発見!って感じである。中村哲医師は、かなりすさまじい内容を、物静かな語り口で非常に論理的に話をされる。観念的な上滑りの言葉ではなくて、一つ一つの言葉に覚悟に裏付けられた太い根が生えている感じである。既に、いずれも数回観直している。今後繰り返し観ていこうと思っている。
               
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170728 ジョン・ローン主演、坂本龍一共演、BSシネマ「ラストエンペラー」(伊・英・中、1987)感想5

2017年07月28日 23時54分17秒 | 映画・映像
7月28日(金):        

昨日録画したジョン・ローン主演、坂本龍一共演、BSシネマ「ラストエンペラー」(伊・英・中、1987)を観た。何回目だろう。とにかく久しぶりだ。セリフはすべて英語。日本語字幕。

愛新覚羅溥儀が主役。共産党に戦犯として逮捕、強制的反省、思想教育を受け続けるシーンをベースとして、そこから過去を回想し、最後はそのシーンを超えて釈放後の中国文化大革命を眺めながら市井の庭師としての死去で終わる。

まず、亡くなる直前の西太后による皇帝推挙・3歳の皇帝即位(1908)、実母、乳母など大切な女性たちとの別れ。その後、孫文の辛亥革命で清朝滅亡(1912)。紫禁城の外では、袁世凱、蒋介石と権力者は変わっていくが、祖先の残した莫大な財宝によって城内では大勢の宦官や女官に囲まれ、変わることなく主(あるじ)として少・青年期を送る。その間、ピーター・オトゥール演じるイギリス人ジョンストン(「紫禁城の黄昏」著者)が皇帝の家庭教師を務める。二十一か条要求、五・四運動などで日本の姿が見え隠れする。籠の鳥だったのが、20歳過ぎで城外に追放され、天津に移ると甘粕正彦が取り入る。

やがて、満州国建国、日本に政治利用され、皇后もアヘン中毒で廃人にされる。日本敗戦、中国共産党の勝利、中華人民共和国建国。戦争犯罪者として共産党による長く厳しい思想教育、模範囚として釈放、恩人の文化大革命でのつるし上げに遭遇、最後は紫禁城太和殿に忍び込み、そこで姿を消す。1967年逝去(61歳)。

中国「最後の皇帝」の数奇な運命をたどった映画である。2:43は、結構長いはずだったが、最後まで観てしまった。最後が紅衛兵の若者たちの(滑稽で愚かな?)姿を俯瞰するように終わる形で、歴史を裁かず偏らない姿勢に好感を持てた。愛新覚羅溥儀は決して愚かではなく、明晰な頭脳の人物として描かれている。そういう人物が、歴史に押し流されるように数奇な人生を送るのである。ピーター・オトゥールの存在感はなかなかのものだった。

念のため、【ウィキペディア】の解説:溥儀の自伝『わが半生』を原作に、ベルナルド・ベルトルッチが監督、脚本を兼任した。メインキャストである溥儀の青年時以降の役は、香港生まれの中国系アメリカ人俳優のジョン・ローンが演じた。
  西太后による溥儀に対する清朝皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に第二次世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、満州国の皇帝になり、退位し連合軍に抑留された後、文化大革命のさなかに一市民として死去する1967年までの出来事をメインに溥儀の人生を描く。歴史的事実には重きをおいておらず、大胆な創作が随所に盛り込まれている。
  第60回アカデミー賞作品賞並びに第45回ゴールデン・グローブ賞 ドラマ部門作品賞受賞作品。


溥儀について【ウィキペディア】の解説:愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、アイシンギョロ・プーイー、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、大清国第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満州国執政(1932年3月9日 - 1934年3月1日)、皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1964年から中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員。
  中華圏最後の皇帝であり、その生涯を題材にした映画から『ラストエンペラー』として知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝と称された。辛亥革命後は遜清皇室小朝廷として大清皇帝の尊号で保護されるも張勲復辟事件で復位して12日間で再び退位、北京政変で追われて天津の日本租界で日本政府の庇護を受けて満洲国の執政に就任、帝政移行後の大満洲帝国で皇帝に即位して康徳帝と称し、満州国軍大元帥や満州国協和会名誉総裁などを兼任。大満洲帝国の崩壊とともに退位し、赤軍の捕虜となって中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所からの釈放後は一市民として北京植物園に勤務、晩年には満州族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
  字は「耀之」。号は「浩然」。辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。また、唯一火葬された皇帝のため「火龍(龍は皇帝を指す)」とも呼ばれる。
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170724 お薦めTV:NHK「亜由未が教えてくれたこと」(170722:再放送)感想5

2017年07月25日 00時18分18秒 | 映画・映像
7月24日(月):   

NHKの若手製作者が、自分の家族に対する取材だから実現した、ある意味で奇跡的なドキュメンタリー。世間で東大理Ⅲに4人兄弟を送り出した母親が注目されている時代の対極の作品。しかし、実は、母親のすごさは同じだ!

【内容紹介】今年の5月9日に、『ハートネットTV』では、「亜由未が教えてくれたこと」という番組を放送しました。NHK青森の坂川裕野ディレクターは、神奈川県の津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖容疑者の「障害者の家族は不幸」という言葉を否定したいがために、実家に戻り、亜由未さんにカメラを向けることになりました。坂川ディレクターの妹の亜由未さんは、肢体不自由と知的障害のある重症心身障害者です。
  坂川ディレクターの実家は、東京の板橋区にあります。小さい頃から妹とは自宅でともに暮らしていましたが、世話や介助をしたことはありませんでした。しかし、今回は、番組のために妹さんの知らない一面や家族の苦労を知ろうと、1か月間介助をしたいと両親に申し出ました。
  「亜由未が教えてくれたこと」
介助の目標はただ世話をすることではなく、妹を笑顔にすることでした。「自分の家族は幸せなんだ」と示したくて、がんばりますが、妹の亜由未さんは思うように笑ってくれません。そんなときに、母親の智恵さんは、「結果的に笑顔なのと、笑顔を求めるのは違う」と息子をたしなめます。
  「障害者は笑顔でないといけないの?」という智恵さんの問いかけは、坂川ディレクターだけではなく、メディアすべてに向けられた問題提起でもあるような気がしました。昨年、バリバラでは「感動ポルノ」というテーマで、「障害者が非障害者を感動させるための道具にされていないか」という問題提起を行い、大きな反響を呼び起こしました。しかし、その一方で、昨年の津久井やまゆり園の事件の後には、さまざまなメディアが「幸せな障害者像」や「明るい障害者像」を示すことで、犯人の優生思想に対抗しようとしました。
  そんな中、母親の智恵さんは、「障害者を無理に笑顔にする必要なんてない」と言います。それはなぜなのか、ご自宅を開放したコミュニティスペース「あゆちゃんち」に話をうかがいに行きました。
  不幸だと生きていてはいけないの?

木下:「障害者の家族は不幸だ」という植松聖容疑者に対抗する意味で、息子さんは妹の亜由未さんを笑顔にしようとがんばります。それに対して、母親である智恵さんは、「結果として笑顔になるのと、笑顔を求めるのは違う」と戒めますよね。あの言葉の真意は、どこにあるのでしょうか。

坂川:犯人の植松容疑者は、「障害者の家族は不幸だ」と言ったわけですが、それに対して、「いや、私たちは不幸じゃありません」なんて言い返すよりも、「不幸な人間は殺されなければならないのですか? 生きるのが許されるのは幸福な人間だけですか?」という根本的なことを問いたいのです。
  「見た目は不幸に見えるかもしれないけれど、実は幸せです」なんて言う必要さえないと思います。「不幸で何がいけないの」と言いたいですね。人生、幸せだと感じたり不幸だと思ったりいろいろなんですから、「不幸なら生きている価値はない」なんて、冗談ではないと思います。

木下:亜由未さんは、いつも笑っている、明るいイメージが強いですね。その姿を視聴者に見てもらって、植松容疑者の言葉を否定したいという、坂川ディレクターの気持ちはよくわかります。

坂川:どうしてもSNSなどに上げる写真は笑顔のものが多くなりますから、いつも笑っているように思われてしまうのです。でも、ふだんは笑っていないことも多いですし、体調によって、全然違います。だから、ネットの中だけの亜由未しか知らなくて、初めて介助に来られる方は、「え、あゆちゃん、笑わないの!」と不安になられることがあるようです。でも、私たちもそうですけど、年がら年中笑ってるわけではないし、笑ってなくても充実していることってあるのに、笑顔ばかり求められたらしんどいと思います。

木下:介助する側にとっては、利用者の笑顔は仕事をしていく上で、大きなモチベーションになると言いますが。

坂川:学生時代に読んだ本で、安倍美知子さんという障害当事者の方が書かれた『ピエロにさよなら』という本があるのです。著者の美知子さんが、リハビリ中に一生懸命足を引きずりながら笑顔でがんばっていると、お父さんも先生もみんな笑顔になっていく。でも、本当はそうするのは辛くて、シンドイことだったのです。でも、「私が笑わなくなると、みんな去っていくのではないか」、そう思って、いつも笑っていたというのです。私はその本のことが忘れられません。
  亜由未はたまたま笑う障害者ですけど、表情がわかりにくかったり、笑わない方もおられます。明るい笑顔の障害者だけに人気が集まり、そうでない人には支援が手薄になるとしたら、それもおかしなことです。人間はいろいろな表情をもっていて、一日のうちでも変わりますし、逆に一日中、機嫌の悪い日だってあります。亜由未もいろいろな顔をするし、私は、それが「いいな」と思っています。詩人の相田みつをじゃないですけど、「人間だもの」と言いたいですね。
木下 真
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170623 キムタクが首相になるTVドラマ『CHANGE』(チェンジ;2008)感想5 ※現実との落差を味わう。

2017年06月24日 02時52分40秒 | 映画・映像
6月23日(金):    
  持ち帰りの仕事をやりながら、録画をBGMとして観始めたら、面白くて今第9話まで観続けている。明日には、全10話を観終わるだろう。
  ドラマでは政治の理想が描かれる。だから政治のあるべき姿、考え方と今の現実の政治の落差が笑えるほどによく見える。
  良い作品だ。時代もまだ良かったのかもしれない。関心のある人はネットで検索してみて下さい。
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170618 映画「ロビンフッドの冒険」(アメリカ:1938)感想4

2017年06月18日 18時27分25秒 | 映画・映像
6月18日(日):      

 102分。 BS録画。 観るともなしに観始めた。ロビンフッドの物語りをよく知らなかった。第3回十字軍の英雄リチャード1世(獅子心王)が、遠征帰途でオーストリア公に囚われたといううわさが伝わる。留守中のイングランドで王弟ジョンの一味が王位簒奪を企て、サクソン人の人々に重税をかけて圧政をしく。

 リチャード1世への忠誠を誓い、帰還を待つサクソン人貴族ロビン卿は、サクソン人の民衆と協力して王弟ジョン一味の野望に公然と抵抗運動を組織する。個性的な仲間とヒロインのマリアン姫とのロマンスを絡めて見ごたえのある物語りに仕上がっていた。

 盧溝橋事件の翌年、日本で国家総動員法が可決した1938年にアメリカはカラー画面でこんな映画を製作していたのだ。いつもながらに恐れ入る。ウィキペディアで調べたが、ロビンフッドのモデルは何人もいるが、特定の人物ではなく、伝承の寄せ集めの中から出来上がった人物らしい。「弓の名手で、イギリスのノッティンガムのシャーウッドの森に住むアウトロー集団の首領で義賊」という設定(イメージ)は実は比較的新しいもので、19世紀あたりから描かれるようになったという。緑色の服をまとう人物として描かれる。

 最後は、リチャード1世の帰還によって悪党どもの悪だくみは失敗に終わり、王弟ジョンはイングランドを追放されてめでたしなのだが、実際には当時イングランド王はフランスに広大な領地をもっており、リチャード1世の在位中(1189~1199:日本は鎌倉時代初め)、イングランドに居たのはわずか半年くらいだったそうだ。

 ロビンフッドの敵役の王弟ジョンはのちにイングランド王(位1199~1216)となり、フランス王フィリップ2世と争い、フランスの領土の大半を失い(失地王)、ローマ教皇インノケンティウス3世から破門され、失政を重ねた上で貴族・聖職者からマグナ=カルタ(大憲章)を突き付けられて屈服することになる。

 ウィキペディアによれば「公開以来、本作は批評家から高い評価を得ており、1995年には「文化的、歴史的、芸術的に重要な映画」としてアメリカ国立フィルム登録簿に登録された」そうだ。確かに良い出来栄えの映画であった。

ロビン・フッド/マリアン姫/ガイ・オブ・ギスボーン/ジョン王子/ウィル・スカーレット/アーサー・ア・ブランド/タック修道士/リトル・ジョン/粉屋のせがれマッチ/ノッティンガム州長官/ベス/獅子心王リチャード/ヘアフォード司教/ディコン
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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)