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もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

181227 リドリー・スコット監督「ブレードランナー ファイナル・カット」(2007/1982)感想4

2018年12月27日 18時09分00秒 | 映画・映像
12月27日(木):  

BS録画を観た。何度目だろう?。独特の未来世界。 

*デッカード=レプリカント説
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181226 重松清原作、大森寿美男脚本・監督映画「アゲイン 28年目の甲子園」(2015)感想4+

2018年12月27日 03時29分21秒 | 映画・映像
12月26日(水):    (集英社文庫:2014)
BS録画を繰り返し観た。重松清の作品は、優しい。奥行きがある。中井貴一、柳葉敏郎はやはり良い役者だ。丁寧に良く作り込まれた達者な佳品と言える映画だった。

負け犬とは、負けた奴ではなく、負けることから逃げた奴のことだ。
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181225 映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(字幕)」(1984)感想特5

2018年12月26日 02時44分57秒 | 映画・映像
12月25日(火):    

若い時に観て、はまった映画。何十年ぶりだろう・・・。ストーリーは忘れていたが、今日放送のBS録画(CMカット編集3:25)を何げなく見始めて止まらなくなった。最初の立ち上がりの強烈なシーンで目が離せなくなり、そのまま字幕放送だが、他のことをできないまま有無を言わせぬ感じで最後まで釘付けになった。最後のシーンも忘れられない強烈な記憶になっているのを思い出した。

他人の評価は知らない。俺にとっては人生に刻まれた傑作映画の一つであることを確認できた。この映画を観ていてなぜか「(若き日の)憧れ」という言葉が自分の中で映画と重なっているのを感じた。

本編中の「アマポーラ」の甘いメロディーはこれまでの人生で折にふれ、気づけば口ずさんでいる音楽だった。
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181201 山田洋次監督映画「学校」(1993)を観た。日本は25年前より貧しく卑しくなっている。

2018年12月01日 15時23分25秒 | 映画・映像
12月1日(土):                   

昨日、念願の山田洋次監督の映画「学校」(1993)のBS放送があった。録画をして久しぶりに繰り返し観た。

中国残留孤児を母に持つ中国人青年(日本国籍?)、在日コリアンのオモニ、戦後の混乱期貧しく仮名文字すら学べなかった高齢の労働者、不登校の女の子とヒビのいった夫婦(その後離婚、家庭崩壊)、何らかの理由で学べず働きながら、あるいはぶらぶらしながら寄る辺なく学びに来ている若い男女、心身ともに少し弱くて普通の学校に通えなかった青年、みんなが自らの「居場所」がなく、誇りを持てなかった人たちである。それでも、前を向いて生きよう、前を向いていきたいと思った時に「学校に行きたい。学びたい。」と考えた。

競争ではなく、学力ではなく、みんながお互いの「学びたい」という思いを大切にし合いながら集い、寄り添いながら学ぶ場所、それが夜間中学だった。そして、夜間中学の存在意義をまさに体現した存在としての西田敏行、竹下景子をはじめとする先生たちがいる。誰がなんと言おうとここには「学びたい」という思いだけを大切に認め合うユートピアが存在している。

25年前の映画である。月並みな問いだが、「今の日本は当時よりも少しは良くなっただろうか。」。俺には、状況はかえってひどくなっている、としか思えない。何よりも本質的なことは、25年前には「世の中を少しでも良くしていこう。良くしていかねばならない。今はできていなくても、日本社会にいる人間はみんな人間としての尊厳を持てるように大切にされなければいけないのだ」という前向きな理念、志(こころざし)が生きていた。いつの時代も理想が実現することは難しいだろう。しかし、この前向きな理念、志(こころざし)さえ大切にされていれば、社会に希望が持てる。

今の日本は、あの頭の悪いどぶの目をした男を担ぎ上げて、自分たちの利益やゆがんだ主義主張を押し通そうという少数の勢力が日本社会を乗っ取る腐敗した構造ができ上り、かつての未来への希望ある展望は失われている。今のままではどぶの目をした男が政権の座から墜落しても、この男を利用できてきた構造自体は残っているので、別の神輿が担ぎ出されて目先を変えても結局同じ状態が続くだろう。

再び手を変え品を変え「パンとサーカス」が供されて、少なくとも2025年まで「日本人(とは何か?)」はバカ踊りを続けるのだ。本当に大切な、そして難しい「人間存在の多様性を認め合い尊重されなければならない」「一人一人の個人が人間として尊重されなければならない」という課題は置き去りにされ、政府がきちんと向き合うことはない。それらは、ますます少数の限られた個人のボランティアの取り組みに片付けられて、問題は深刻化し後戻りできないところに行きつくしかない。構造的差別、構造的貧困、「自分さえ良ければよい」「今さえやり過ごせればいい」という刹那主義の蔓延する中で、目の前で苦しみ泣いている人間の存在が見えなくなる。すべては<自己責任>、弱い者が自分より弱い者を探し出して安堵しながら、さらに弱い者いじめをする。強者は高みの見物をして、自分の力の固定化、世襲化にのみ力を注ぐ。

25年前の映画なのに、ここで提示された問題を日本社会は何ひとつ自らの意志と努力で解決できなかった。すべては弱者による自己解決と老齢化による消滅を待つのみだった。それでも、当時は「それではいけない」という前向きな理念と志(こころざし)があったが、今は意図的に(!?)無関心がはびこらされてそれらすら忘れ去られている。

日本社会の抱える問題は、どぶの目をした虚言癖の男と口と心のねじ曲がったゲスが政権に付いたこの6年間で取り返しがつかないほど、それこそ不可逆的に深刻化してきた。古くからの弱者、マイノリティの取り組まねばならない問題は、ほとんど置き去りにされたままで、新たに取り組むべき弱者、マイノリティの問題が、今後急速に加速度をもって雪だるま式に増えていく。衆議院を何ら審議しないまま強行採決した外国人労働者受け入れの法案は、日本の将来にとって恐るべき禍根を残すだろう。

事実上の移民となる外国人労働者の数が一定数を越えた段階で、今の日本社会の形は大きく決壊して無残なことになるだろう。何より、外国人労働者は日本のこれまでの価値観とは違う、例えばイスラム教など独自の強固な価値観(ドグマ)を持つ人々であり、少子化の日本社会にあって急速に多くの子供を産み育て始めるだろう。しかし、忘れてならないのは彼らは「人権を尊重されるべき人間なのだ」ということ、「彼らは日本で子供をもうけ、その子供たちは<日本生まれの人間>であり、急速に増加していく」ということ。簡単に、ルールに従って帰ってもらうべき存在ではないのだ。人間を<道具>のように付け外し自由と考える国家や社会は恐ろしい世界だ。

また、急速に増える外国人労働者やその子ども(<日本生まれの人間>)は、単に弱い存在ではない強固なドグマを持ち、これまでの日本社会や民主主義の手続きとは相容れない存在の人々もいるだろう。住民間で様々な問題、軋轢が生じるだろう。法治主義を掲げても、“差別に対する絶望”を前提にした若者の<暴力>、<自爆>を防ぐ手立てはあるのか。イスラムの教えに対応する社会の準備はできているのか。

目先の労働者不足を解消するために、女性や障碍者、社会的弱者の人権、社会参加、低賃金労働者の待遇改善などの問題を置き去りにして、受け入れを急いだ外国人労働者の労働条件が人間らしいまともさを保障されたものとなるとは思えない。今後ますます矛盾は広がり深刻化していくことだろう。人間はすべて、賢さ以外に弱さ、愚かさ、過激さなども抱えた存在だ。いつまでも不当な差別や暴力に耐えるだけの存在ではない。人間としての存在を主張し、闘いを挑み、時に暴力、犯罪にも手を染めることもありうる。そんな時、「予想もしていなかった」として国家権力の暴力で対応するのか。<日本で生まれた外国人>の若者たちに、警察は銃口を向けるのか。あり得ない。

いくら十分に起こりうる事態を想定しておいても足りることはないだろう。それなのに内容スカスカの目先だけしか見えてない外国人労働者受け入れ法案を現政権が強行採決するのを「実行力がある」「頼もしい」とする一定数の国民がいることが空恐ろしくなる。将来必ず、日本人(って何?)、日本社会は天罰を受ける。その責めはすべて現在の我々にある。子どもたちにひどい矛盾と苦しみを付けとして残していくことに心から申し訳ないと思う。

若い時の俺は少なくとも「世の中は、いや日本社会は、少しずつであってもよくなる方向に進んでいくのだ」と信じて疑わなかった。今、それが大きな誤りだったと言わざるを得ない。25年前の弱者・マイノリティの人権問題が、愚劣な政治屋の不作為、ポピュリズムに迎合するマスコミの無責任、グローバルのはずが内向化して無関心・無行動の日本人(って何?)たちのもとで、何も解決しないで、むしろ後退してきた。弱者・マイノリティの差別・人権問題は新たな装いに改めて拡大再生産されていく。

息を吐くように政治屋や官僚が嘘をつき、見せしめの弱い者いじめを平気でする。当然のように<人権>が軽視され、踏みにじられる。それを多くの子供や若者が見つめている。絶対、教育によくない!。今後、悪い影響が必ず出てくる。沖縄、福島、地震・台風の避難民、自分さへ関わらなければよいと思っていたことが、いつの間にか大変な思いをして納めている血税は、どぶに捨てられ、数千億、兆を超える莫大な金がアメリカからの武器購入に回されている。もう少しだけでも従米的でない自立的安全保障政策を模索し防衛費をしぼったお金を社会保障費に回せれば、日本の社会は劇的に変わるはずなのだが、一体日本の政策はどこを見て行われているのか。今の日本は、アメリカの最大の植民地だと言っても過言ではないだろう。

今の時代「国益を犯す」というのが、絶対的なきめ言葉になっているそうだ。しかし、「国益」とは何か。誰の利益が、国の利益なのか。「国民」の利益か、全くそういう風に見えないのはどうしてだ。そもそも「国家」とは何のために存在するのか。そこに住む人々の福利、社会保障を目的とするものではないのか。こんなことを考える俺は日本国籍を持っているが「非国民」なのか。今時「日本人」って何なのか。由緒正しい「日本人」というのがいたとして、そいつらだけが「日本人」なのか。そいつらが「日本(って何?)」のことを本当に思ってくれているのか。そんな風には全く思えないのはどうしてだ!

そろそろ、朝起き後の頭のさえた状態が鈍ってきた。昨夜、録画撮りしたかった山田洋次の映画「学校」(1993)を久しぶりに繰り返し観て感じた由無しごとを、特に推敲もせず徒然なるままに書き連ねてみただけなので、乱文お許しいただきたい。また、手を入れられたら入れます。

結局、今の日本は25年前よりもよくなっていないどころか、前向きな理念、志(こころざし)が失われた分だけ卑しく悪くなっている。何よりも未来に希望を持てなくなっている。そして、これはファシズムの起こるお膳立てができ上ったということだ。

181215追加政治がこれほど平気で簡単に悪用されるものだとは知らなかった。戦後日本は間違いなく、悪い方で“新たなステージ(段階)”に突入した。すでに取り返しのつかないことになっているが、それでも一刻も早く新たな対抗運動を創り上げなければいけない。
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181104 <男たちの旅路>シリーズ「車輪の一歩」(1979)感想特5

2018年11月05日 01時35分27秒 | 映画・映像
11月4日(日):         

久しぶりに観た。40年前と比べて、多くの駅にエレベーターが備えられた。車いす用のタクシーもあるそうだ。しかし、街の風景の中に単独の車いすを見かけることは少ない。見かけるのは皆、平たい道路を行く電動車いすだ。日本はあまり変わっていない気がする。

俺にとっては、ものを考える際の原点のような作品である。「(人間らしく生きるためであれば、)他人に迷惑をかけることを恐れるな。むしろギリギリの迷惑はかけなければいけないのではないのか。(そのくらいの助け合いを社会は懐深くもつべきだ。)」「歩き回れる人間のルールを守ろうとすること自体がおかしいのだ」「人間らしく生きるために、あえて迷惑をかけることを遠慮しない障害者の姿が世の中にどんどん見かけるようになることで、世の中の人々の意識を変えさせればよい。決して楽ではないし辛いかもしれないが、灯台のような存在になればよい。」

それにしても鶴田浩二さんが当時55歳だというのは衝撃である。若いけど渋すぎる!

軽蔑するNHKさんにお願いです。本作品をBS放送で是非再放送してほしい。その意義は大きい。NHKの果たしてきた社会的役割の大きさを示すことにもつながるに違いない。
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181030 映画「ホタル」(2001)感想5

2018年10月31日 03時30分14秒 | 映画・映像
10月30日(火)深夜:  

何となく観て、最後まで観切ってしまった。朝鮮人特攻兵をめぐる物語。寝不足で明日の仕事が心配だ。
敬愛してやまない高倉健さんは、本当に良い仕事を残したと思う。この映画は、理屈を超えた映画だ。
2018年の腐り果てたアベ政権下の日本では制作できなかった映画だろう。
2001年の日本は、まだまともな時代だったということだ。

【あらすじ】鹿児島県知覧。カンパチの養殖を生業としている山岡は、肝臓を患い透析を続けている妻・知子とふたり暮らし。子供がいない彼らは、漁船“とも丸”を我が子のように大切にしている。激動の昭和が終わり、平成の世が始まったある日、山岡の元に青森に暮らす藤枝が雪山で自殺したとの報せが届いた。山岡と藤枝は共に特攻隊の生き残りだった。それから暫く後、山岡はかつて特攻隊員に“知覧の母”と呼ばれていた富屋食堂の女主人・山本富子から、ある頼みを受ける。それは、体の自由が利かなくなった自分に代わって、南の海に散った金山少尉、本名、キム・ソンジェの遺品を、韓国の遺族に届けて欲しいというものだった。実は、金山は知子の初恋の相手で、結婚を約束した男でもあった。複雑な心境の山岡は、しかし知子の余命が長くて一年半だと宣告されたのを機に、ふたりで韓国へ渡ることを決意する。だが、金山の生家の人たちは、山岡夫妻の訪問を決して快く迎えてはくれなかった。それでも、山岡は遺族に金山の遺品を渡し、彼が残した遺言を伝えた。金山は日本の為に出撃したのではなく、祖国と知子の為に出撃したのだと。やがて歳月は流れ、21世紀。太平洋を臨む海岸に、その役目を終えた愛船・とも丸が炎に包まれていくのを、ひとり見つめる山岡の姿があった。
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181027 感慨:昨夜、ジブリ「もののけ姫」(1997)放映について

2018年10月27日 14時26分43秒 | 映画・映像
10月27日(土):                      

昨夜「もののけ姫」の放送録画を観た。故合って3日前にもDVD録画を観ている。3日前に見たDVD録画よりも、昨夜の放送録画の方が音声が鮮明だった。その分、前に聞き取れなかった部分が聞き取れた気がする。「もののけ姫」は数えきれないほど見直してきたが、そのたびごとに新たな感慨と前向きな疑問を与えてくれる。

「穢れ」とは、”け(生命力)枯れ”を引き起こすものだろう。それは死、血液、怪異(癩などの病者も含まれるか?)などである。生理、出産に伴う穢れとして女性差別にもつながる。聖地への<女人禁制>や時代錯誤な大相撲<土俵での女性差別>にもつながる。そして、言うまでもなく<被差別部落>の人々への<差別・偏見のもと>である。

俺の母は、幼い時、手を引いて近所の神社をお参りする時たまに俺だけ鳥居をくぐらせ、自分は鳥居の脇を通ってお参りすることがあった。今ならそれが生理の日であったことは、容易に想像がつくが当時は幼心に「妙なことをする」と思ってみていた。ことほど左様に「穢れ」による差別意識の根は深いのだ。

「もののけ姫」では、大量の火をつかい、鉄を作る<聖なるたたら場(製鉄所)>の労働力の中心に(穢れてるはずの)女性たちを置き、経営者のえぼし(烏帽子?)自身も女である。「誰もが恐れて近づかない」一角で癩病者に居場所といたわりと仕事を与えている。また、その仕事が殺人の兵器開発という皮肉!。

数え上げればきりがない多くの矛盾と限界、境界(境い目)を抱え込みながら、物語自体はまとまりよく流れていく。ただ「これはどういうことだろう」、「これは何を象徴しているのだろう」と、ふと立ち止まると案外と底の見えない淵に立たされている気にさせられる。
 
奈良朝の五色の賤(陵戸、官戸、公奴婢;家人、私奴婢)や平安朝の朝廷に降伏、移住させられた蝦夷<俘囚(ふしゅう)>、中世の下人・所従などは<奴隷>的存在であろう。

中世の散所?、芸能民や山水河原者と呼ばれた存在から江戸の穢多・非人へとつながる<被差別民>の系譜と<奴隷的存在>の系譜との違い、関係性が、俺には未だにわからない。どうしても整理がつかない。わかりたい!、知りたい!のだけれど、どうしてもわからない。誰も教えてくれない。時代から忘れ去られている。

しかし、「もののけ姫」が構想16年、制作3年と言われた1990年代は、網野史学が席巻し、横井清さんらをはじめ日本史学会が果敢にこの差別・非差別の問題に切り込んでいた。そんな中、白土三平の「カムイ伝」も1970年代、80年代と変わりなく、大いに読まれていた。今、そういう熱気は日本から消え失せた気がする。

何のための歴史学だ・・・?と正直思う。「もののけ姫」は、1990年代まで日本史学会が持ち続けていた本当の意味での挑戦的なアカデミズムの集大成のような作品だったのではないかと思う。しかし、そのあとに続くものがない。

鑑賞後に調べてみて、宮崎駿監督が堀田善衛と司馬遼太郎の愛読者あり、司馬さんらと対談集「時代の風音」(朝日文芸文庫:1992)を出していて、俺はそれを蔵書しているのが分かった。「もののけ姫」に網野善彦の影響があるのはよく知られているが、宮崎駿と司馬、堀田両氏との交流も見逃せない。できれば近いうちに「時代の風音」(朝日文芸文庫:1992)なども読んでみたいと思う。

以下、断片的に、
・冒頭、蝦夷の集会所が、鳥取県三仏寺投入堂(奥の院)によく似ていた。
・はじめの方で出てきた市場のシーンは有名な備前福岡の市をモデルにしてるのかな。
・サンという少女は、どういう経緯でシシガミの森に捨てられたのか。
・ディダラボッチとなる夜のシシガミの姿は何となく腑に落ちる。一方で、昼のシシガミの姿、特に顔のモデルは俺には恐ろしげに感じる。それでいて既知の印象を受ける。いったい何なのか。オリジナルと言っても、そこにはやはり何かもとになる複数の図像や発想があるはずだろう。その<もとになるもの>が知りたい。
・祟り神となったイノシシの体から出てくる粘り気を伴なう生き物のような<にょろにょろ>は何なのか。何の象徴なのか。
・朝日を受けたシシガミ(ディダラボッチ)が倒れて、すさまじい旋風を引き起こした後、アシタカの祟り(おそらく癩病)のあとは癒され薄くなり、湖に避難していた癩病の女性は癒され治っていた。一瞬のシーンだが印象的だった。このシーン(特に後者)は「何のためにつけられたのだろう」「アシタカはともかく、この女性ひとりの癩病が癒されても、癩病に苦しむ人間はどんどん生まれ続けるのだ。単なるハッピーエンドの象徴としては軽すぎるだろう・・・?」「それとも業病に苦しむ癩病者として差別され居場所のない人々の癩病という病を取り除いた下にはこんなに<健やかで美しい人間性>があることを見せつけているのか、そのために必要だったのか」これもまた考えさせられるシーンだった。
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180825 NHK教育で今晩放送されたアニメ映画「聲の形」(2016)を録画して観た。NHKの英断。感想5

2018年08月26日 01時50分40秒 | 映画・映像
8月25日(土):    

酔っぱらいながら観るには不謹慎な<真面目な映画>だと途中から気が付いたが、すでに遅し。かなりいかれた状態で最後まで観終わった。

さすがにNHK教育で初めて放送するアニメ映画として、良い作品だった。いかれた頭であまり整理できないが、まず登場人物一人一人にしっかりとした人格がが与えられていて<群像劇>としてよくできていた。高校生一人一人の微妙な心の動きが丁寧に表現されているのが良い。次に、耳の聞こえない「障害」者問題を、当事者と家族の苦しみだけでなく、彼らを取り巻く人々の戸惑い、反感も敢えて赤裸々に踏み込んで表現している。単純な悪い差別者の存在を否定する。一方で、知ろうとしない無関心と知らない無知によって差別が生まれることを感じることができた。「手話」も自然に紹介されている。

「いじめ」「学校での人間関係の薄さ」「不登校」「アルバイト」などが自然に取り上げられている。主人公の男女の家が両方とも「母子家庭」に見えたのは偶然か。この映画が、30カ国前後の多くの国々で公開されているのは、日本アニメ及び日本の評価を高めることになると思う。
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180810 久しぶりにNHK版「トンビ」を観た。涙がとめどなく流れた。

2018年08月10日 22時35分07秒 | 映画・映像
8月10日(金):  今、相当きつく酔っぱらってます。ただの酔っぱらいです。だから本音です。この世界観が俺の理想です。これでいいのだ!m(_ _)m。



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180728 映画「青い鳥」(2008:重松清原作、阿部寛主演)感想5

2018年07月29日 00時33分45秒 | 映画・映像
7月28日(土):    

上映時間1:46。 何度目だろう。ただ久しぶりに観て、やっぱり良い作品だと改めて思った。重松清の原作も読んでいる。ちょっと琴線に響いたのでよしなしごとを書く。
 
いじめ自殺騒動(未遂、本人は転校)が一段落した中学の2年1組に代用教員のムラウチ先生(国語)が担任として着任する。彼は、極度の吃音だった。開口一番「卑怯だな。忘れるなんて。先生はどもります、あんまり上手にしゃべれません。でも、本気でしゃべります。だからみんなも本気で聞いてください。本気の言葉を本気で聞くのは当たり前のことです。みんなはそれができなかったから先生はここに来ました。」と言い、撤去されていた生徒の机を教室に戻す。「○○君、お帰り」と。

それだけでなく、毎朝「おはよう、○○くん」と声をかけ続ける。クラス全体が戸惑い、一部の生徒は激しい反発をするが、ムラウチ先生の言葉には表面だけを繕う建て前が無く、その本当の声は徐々に生徒たちに届き始める。本当の声とは、いじめを反省するというのは、整った反省文を書いて、あとは忘れてしまうことではない。本当の反省とは、その事実を忘れないで覚えていることであり、それは<罰>ではなく、<責任>である、ということ。
 
先生の思いが浸透するにつれて、クラスは混迷を深め、保護者からの突き上げも強まっていくが、ムラウチ先生は意に介さない。これは期限のある代用教員だからできることでもある。いじめを形式的に処理しようとして始まった「青い鳥」の悩み投書箱や原稿用紙の枚数(5枚以上)にこだわって書かせられる反省文のウソ臭さも際立っていく。生徒たちが、級友を自殺未遂に追い込んだことを自らの問題として考えることができ始めたとき、休職していた担任の復帰でムラウチ先生は学校を去る。たった一つのことでも生徒たちに伝えることができれば、それは立派なことだと思う。

「0067 重松清「青い鳥」(新潮社;2007) 感想5 」
「130805 念願のBSシネマ「青い鳥」(2008)の録画ができた! 横目で観終わった。 感想5 」

阿部寛は、いい俳優である。モデル出身なのに?一体、彼はいつの間にこんな良い俳優になっていたのだろう。是枝裕和監督の映画との親和性も納得できる。「坂の上の雲」の秋山好古も良かった。

ここから先は、俗な言葉だが、いじめを忘れようとする学校の教師集団や生徒の様子は、本質に向き合おうとしない姿そのものであり、それは過去の侵略戦争の歴史や差別の歴史を見つめずに、忘れ去ろうとし、実際忘れてしまっている今の日本の姿に重なる。歴史は良いことだけではなく、醜く悪いこともきちんと忘れずに覚え続けることこそがあるべき真実の解決策である。今の日本は「無かったことにする」ばっかりだが、それがいちばん歴史から厳しい仕返し(しっぺ返し)を受けることになることすら思い至らなくなってしまった。今はアベ・アソウ・創価学会政権の下で醜い腐臭のする時代を生きている自覚すら失った時代なのだ。
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180713 映画「殿、利息でござる!」(2016)を観た。感想5

2018年07月14日 02時22分29秒 | 映画・映像
7月13日(金):     

原作、磯田道史「無私の日本人」(2012)。最後まで観てしまった。江戸時代後期、明和年間、仙台藩吉岡宿の伝馬役負担を解決するために殿様に資金を貸し、年利1割の利息で吉岡宿の人々を救おうとする試み。実際にあった江戸時代の話である。史実に基づく存在価値のある作品である。
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180617 久しぶりに韓国映画「接続 ザ・コンタクト」を見た。感想5 ハン・ソッキュとチョン・ドヨンは最高!

2018年06月18日 02時02分57秒 | 映画・映像
6月18日(日):  

韓国は、こんな素敵な映画を作れる国なのだ、このブログ記事を見た人には、是非鑑賞を薦める。この映画の良さを理解できないという人には、私のブログに来ていただく無くても結構です。私の感性は、この作品やハン・ソッキュ主演「八月のクリスマス」の世界観を最高に素晴らしいと感じる感性なのです。 今、酔っ払ってます。だから、本当のことを言ってます!
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180601 映画「深夜食堂」(2015)感想5

2018年06月02日 04時16分03秒 | 映画・映像
6月1日(金)深夜:      

観るともなしにBS録画をつけていて、目が離せなくなった。俺はこういう人情系の映像世界が好きだ。オムニバス形式の映画だが、特に多部未華子の話が良かった。小林薫のマスターを中心にした多彩なキャスト陣がとてもいい。オダギリジョーの交番巡査もとてもよかった。TBS系列のテレビシリーズだったそうだが、全く知らなかったのはかなり大きな抜かりであった。知っていれば必ず録画していたのだが。


ここがポイント!:「いいよ、出世払いで。」に「出世なんかしません!
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180407 「探偵!ナイトスクープ30周年記念」番組を観た。゛爆発卵”は神の領域!昔の「全国アホ・バカ分布図」も思い出した。

2018年04月07日 21時19分46秒 | 映画・映像
4月7日(土):     
「探偵!ナイトスクープ30周年記念 視聴者が選ぶオールタイムベスト10!ベスト3の発表 2018年4月6日放送分」を観た。昔は良く観ていたが、最近はほとんど見なくなっていた。改めて久しぶりに、しかも30周年のベスト10版を観ると、もう圧倒的である。「探偵!ナイトスクープ」は関西の笑いの神髄を極めた神番組としか言えない。間違いなく戦後の日本文化形成に大きな足跡・影響を残した作品である。今回放送分「謎の爆発卵」の話は、確かに昔観たことがあるが、もう奇跡的に面白かった。また、岡部まりさんの復帰とキダ・タロー先生のご健在ぶりが嬉しかった。     

その勢いで、所蔵していた10年前に録画した「20周年記念特番 グランドアカデミー大賞」(104分)を探し出して見直したら、さらに恐ろしいほど腹を抱えて笑い続けてしまい収拾がつかなくなった。この番組は本当にすごい! ex.タケモトピアノのCMが流れると赤ちゃんが泣き止むetc.

昔、この番組の影響で番組プロデューサー松本 修「全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路」(太田出版:1993/7)を購入して夢中で読んだことを懐かしく思い出した。

≪ウィキペディア≫で当時の様子を少し再現しておく。
アホ・バカ分布図(アホ・バカぶんぷず)は、1991年(平成3年)に朝日放送(ABCテレビ)のバラエティ番組探偵!ナイトスクープ』の企画の一つとして放送された、日本列島上における日本語の「アホとバカの境界線」を探る企画。あるいは、その分布や境界線を示した地図そのものを指す場合もある。
【発端】
  1990年(平成2年)1月20日放送の『探偵!ナイトスクープ』で、ある大阪生まれのサラリーマンの男性が、東京出身の妻と言い争う際に、自分は「アホ」妻は「バカ」と言い、お互い使い慣れない言葉でなじられ傷付くという経験から、「ふと『東京と大阪の間に「アホ」と「バカ」の境界線があるのでは?と思」い、「東京からどこまでが『バカ』で、どこからが『アホ』なのか調べてください」と番組に依頼して来た。この依頼を担当した北野誠が、アホとバカの境界線を調べるべく東京駅から調査に乗り出したものの、名古屋市中心部にある栄駅前でサラリーマンにインタビューしたところ、「アホ」でも「バカ」でもない第三の言葉として「タワケ」が使われていたため、急遽「アホ」と「タワケ」の境界線を探ることに変更。滋賀県との県境にほど近い岐阜県不破郡関ケ原町大字今須の住宅街で「アホ」と「タワケ」の境界線と思われる地域を発見したため、岐阜県不破郡関ケ原町が「アホ」と「タワケ」の境界である、といった結論を出した。
  ところが、当時局長だった上岡龍太郎は、「で、バカとタワケの境界は?」と問いかけた。更に当時の秘書である岡部まり(長崎県出身で福岡県の短期大学を卒業)が、「私の地元ではバカって使っていました」という、新たな証言まで飛び出した。
  その結果、他の探偵からも「大阪の西の境界線はどうなっているのか」などの質問が相次いだため、上岡は「今年一杯かかっても、きちっと地図に境界線を入れてください。」と北野に継続調査を行うことを命令。こうして、本格的なアホとバカの境界線の調査に探偵局は乗り出したが、視聴者からの情報投稿を元に第一次、第二次の分布図を作成した後、しばらくこの件に関する調査は休止状態となった。
  視聴者からは本件について継続調査を望む声が強かったというが、番組の制作予算の都合や、その他の企画の進行状況との兼ね合いで、調査再開は約1年後を待つことになる。
【アホ・バカ分布図の完成】
  1991年(平成3年)に入ると、朝日放送の上層部が「今年は『探偵!ナイトスクープ』で民放祭(日本民間放送連盟賞)を狙う」として、番組プロデューサーの松本修に「民放祭を取れるような企画はないか」という相談を持ちかけた。当初松本はあまり乗り気ではなかったというが、「賞のためなら、通常の番組制作費とは別枠の特別予算が組める」ことを聞いた松本は「アホ・バカ分布図」の企画再開を決意した。
  追加予算を得た番組スタッフは、言語学者の徳川宗賢のアドバイスを受けつつ、それまでの予算規模では困難だった、地方公共団体にある教育委員会への大規模なアンケート調査を行い、1991年(平成3年)5月に「日本全国アホ・バカ分布図」が完成。アンケート結果に基づく追加ロケを行ったうえで、特別番組として放送された。
  実際に詳しく全国の地域を行脚、調査をしてみると、京都を中心とした、同心円状に離れた同じ距離の違う地方で、同一の方言が使われていたことが判明するなど、日本語の方言における「方言周圏論の検証例」として『日本語学上大変貴重な』調査結果を出すことができた。この放送内容は後に日本方言研究会でも取り上げられるなど、大きな反響を呼んだ。
【分布図の完成、その後】
  投稿から調査・研究がなされ、発表されるまでの過程は、その結果とともに、松本修プロデューサーによって『全国アホ・バカ分布考 はるかなる言葉の旅路』(太田出版、新潮文庫)に余すところなく収められ、この特番はビデオ化までされた。
  そして、1991年(平成3年)日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞受賞・第29回ギャラクシー賞選奨・第9回ATP賞グランプリを受賞した。
  この「アホ・バカ分布図」は、1991年(平成3年)から1992年(平成4年)ごろまでスタジオ観覧のプレゼントになっていた。かなり大量に印刷したため、上岡は探偵の立原啓裕に「イベントでアホ・バカ分布図を配れ。もう、大量に余っていて困る」と言っていた。
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180403 大河ドラマ「西郷どん」脚本で剽窃!これは「翔ぶが如く」(1990年)へのオマージュの限度を超えている!

2018年04月03日 23時26分27秒 | 映画・映像
4月3日(火):     加山雄三の島津斉彬、とっても良かった!

昨夜、3月25日(日)放送の「西郷どん(脚本 中園ミホ)」第12話の録画を観ていて、何とも言えない違和感で気持ちが悪くなった。あるはずのない既視感である。島津斉彬の渡辺謙が、将軍家輿入れの決まった篤姫に対して、13代将軍家定の人となりの真実を打ち明けるシーンで、「あれれ、このセリフ、言い回しとそっくりなシーンを見たことあるぞ。」心なしか、渡辺謙の演技もセリフをなぞるような違和感を感じさせるものだった。

今日、仕事が終わった後で、所蔵している大河ドラマ「翔ぶが如く」(1990年)のDVDを調べたら、第7話「篤姫お輿入れ」の最期のシーンで全く同じセリフ、言い回しが出てきた。これはひど過ぎる。いくら同じNHKの大河ドラマ同士だからと言っても、一応、原作者は林真理子で、全く違う作品なのに、最も重要で感動的なシーンをまるごと盗用するとはひど過ぎる

これはもはや過去の作品に対する<オマージュ>の域を完全に踏み越えている。<剽窃>、<盗用>というべきである。現に視聴していた俺自身が、観ていて違和感で気分が悪くなったのだから。「西郷どん」の原作者欄に司馬遼太郎を書き込むべきである。これは、NHK大河ドラマ自身の自己否定である。そして、視聴者に対する詐欺行為、裏切り行為というべきだ、と思うが、如何?! NHKの倫理観を疑わずにいられない。

以下は、司馬遼太郎原作、脚本小山内美江子「大河ドラマ「翔ぶが如く」(1990年)第7話「篤姫お輿入れ」の最期のシーン」をもみが観て書き起こしたものである。斉彬は加山雄三、篤姫は富司純子である。そして、出来栄えは、こちらの方が圧倒的に良かった!
斉彬:いよいよ明日は晴れの日と迫った。
篤姫:はい
斉彬:幸せにと祈りたいが、わしは改めてそなたに赦しを請いたい。
篤姫:何を仰せられまする。お役に立つことならばと、篤は薩摩の磯にてお答え申し上げ、その気持ち今も変わりございません。
斉彬:よう言うてくれた。今はニッポン国が立ちいくか、滅びるか、危急の時勢ゆえ、そなたが大奥へ輿入れするは、いわば国のため、民のためである。
篤姫:はい。
斉彬:江戸城に入って将軍家の後継ぎには一橋公をお決めあるよう、上さまのお心を定めるのがお篤の務めである。
篤姫:はい。
斉彬:しかしながら将軍家のお心を決め、と言うても大奥とは様々な思惑が渦巻くところである。
篤姫:それは幾島からも聞き及んでおります。精一杯努めます。
斉彬:それも夫となるお人と合いむつみ、めおとの情が通うてこそかないやすきことであるが、わしはまだ上さまについてお篤に話しておらぬことがある。
篤姫:はい。
斉彬:上さまにはご病弱にあらせられる。
篤姫:はい。
斉彬:おそらくお篤に子は授からぬであろう。上さまにはめおとのこともかなわぬお生まれ付きじゃ。人として生まれ、熱き肌を交わすことも、母となることもできず、あたら大奥におなごの一生を埋もれさすことを思うと今さらにして、わしはそのほうに…、じゃがわしはそなたにわが島津のむすめとしてはたらいてもらいたい……
篤姫:はい。命かけて、仰せのこと果たし参らせます。
斉彬:よう申してくれた。婚儀があいすんで大奥に入ったら、あるいは二度と会うことかなわぬかもしれぬ…、体をいとわれなされ。
篤姫:お殿さまも、お健やかに…
斉彬:幾島、杯(さかずき)の用意を。
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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)