シャンソン歌手リリ・レイLILI LEY フランス語シャンソンポエムの世界
先日 日本シャンソン協会から 届いた アンシャンタン プリュス
という 小雑誌の 大野修平さんというシャンソン評論家の記事で
シャンソン歌手LEO FERRE
レオフェレの ことが 書かれてあり
その内容に とても 共感が持ててしまいました。
ガッテン
その記事を そのまま 抜粋いたします。
勿論 フランス語のポエム詩は 既に 韻を踏んだり pASの数に
制限があったりなど 規則的で 高度な技術で作成してあり
芸術作品ではありますが
レオフェレは 自分の詩だけではなく
ヴェルレーヌ ランボー アポリネールなどの古典の詩人の
詩に作曲して 自ら歌うという
本格派の シャンソン歌手です。
レオ・フェレは書いた。
「詩は叫びだ。詩は 音楽のように聴かれなければならない。読まれるためだけに書かれ
活字の中に込められている詩はすべて完成したものではない。
詩は声帯を通してはじめてその性を得る。
ちょうどヴァイオリンが それに触れる楽弓によってその性を得るように。」
LA POESIE EST UNE CLAMEUR、 ELLE DOIT ETRE ENTENDUE COMME LA MUSIQUE、
TOUTE POESIE DESTINEE A NETRE QUE LUE ET ENFERMEE DANS SA TYPPGRAPHIE
N`EST PAS FINIE;
ELLE NE PREND SON SEXE QU`AVEC LACORDE VACALE TOUT COMME LE VIOLON PREND SON
SEXE QU`AVEC LE SIEN AVEC L`ARCHET QUI LE TOUCHE.
私の昔々
声楽家時代に 歌っていた曲は
ほとんど 古典の詩人の曲ばかりで フランス歌曲もさんざん歌いましたけれど
なかでも ボードレールの「旅への誘い」という詩の
デュバルク作曲の名曲 芸術歌曲は
私の レパートリーでした。
その 旅への誘い の詩に レオ・フェレが 作曲したシャンソン
は 私のお弟子さんの男性で レオフェレが大好きだった方が
習いにいらしていた8年くらい前
ご一緒に 学んだことがあり
そのことが とても印象に残っています。
なぜ 敢えて デュバルクの古典名曲のメロディーが世間で有名なのに
その 詩を フェレが 何故シャンソンにしたのかなぁーと
思ったものですが
旅へ誘い L`INVITATION AU VAYAGEは 退廃と甘美 官能の美的な詩。
声として 語りたい 落ち着きある
シャンソン的な 作曲が フェレ
クラシックのデュバルクの作曲は 壮大で優雅
ゴージャスな美声と 豊かな声量が必要な作品です。
私の感覚では そう感じています。
大野修平さんの記事の中にも 書いてありましたが
敢えて 大作曲家デュバルクの 秀作があるのに
シャンソンとして作曲をした レオフェレの 言い分は
デュバルクは 詩を全て 活用せず省略した部分があり
フェレは 全部 メロディーに乗せたのです。
先日 芸大の親友とも話したのですが
クラシックの歌曲は 言葉が 少ない。
逆に シャンソンは とんでもない言葉数
ということで・・・
クラシック歌曲では 声の美を聞かせる為
シャンソンは 言葉の美を 聞かせる為
ということになります。
でも 語るにした所で 歌う声 音を出すとき
魂や 心や 時としては美的な音の色 色々な音色が
無ければ 無意味なので
どちらにしても 人間の 声というものが
人間の言葉を 表現して
ヴァイオリンには 言葉がないから・・・
歌は 文学と音との合体で より 人間的な味が必要な
特殊楽器というわけです。
そして 詩を 感性で理解して 自分の色を
奏でなくてはならない・・・
LA VIE EN ROSEを 歌うとき 私は ピンクのバラを
想像しないで・・色的には 白いバラです。
白いバラの花ことばが 「私は貴方に相応しい」だからかもしれませんが。
先日 日本シャンソン協会から 届いた アンシャンタン プリュス
という 小雑誌の 大野修平さんというシャンソン評論家の記事で
シャンソン歌手LEO FERRE
レオフェレの ことが 書かれてあり
その内容に とても 共感が持ててしまいました。
ガッテン
その記事を そのまま 抜粋いたします。
勿論 フランス語のポエム詩は 既に 韻を踏んだり pASの数に
制限があったりなど 規則的で 高度な技術で作成してあり
芸術作品ではありますが
レオフェレは 自分の詩だけではなく
ヴェルレーヌ ランボー アポリネールなどの古典の詩人の
詩に作曲して 自ら歌うという
本格派の シャンソン歌手です。
レオ・フェレは書いた。
「詩は叫びだ。詩は 音楽のように聴かれなければならない。読まれるためだけに書かれ
活字の中に込められている詩はすべて完成したものではない。
詩は声帯を通してはじめてその性を得る。
ちょうどヴァイオリンが それに触れる楽弓によってその性を得るように。」
LA POESIE EST UNE CLAMEUR、 ELLE DOIT ETRE ENTENDUE COMME LA MUSIQUE、
TOUTE POESIE DESTINEE A NETRE QUE LUE ET ENFERMEE DANS SA TYPPGRAPHIE
N`EST PAS FINIE;
ELLE NE PREND SON SEXE QU`AVEC LACORDE VACALE TOUT COMME LE VIOLON PREND SON
SEXE QU`AVEC LE SIEN AVEC L`ARCHET QUI LE TOUCHE.
私の昔々
声楽家時代に 歌っていた曲は
ほとんど 古典の詩人の曲ばかりで フランス歌曲もさんざん歌いましたけれど
なかでも ボードレールの「旅への誘い」という詩の
デュバルク作曲の名曲 芸術歌曲は
私の レパートリーでした。
その 旅への誘い の詩に レオ・フェレが 作曲したシャンソン
は 私のお弟子さんの男性で レオフェレが大好きだった方が
習いにいらしていた8年くらい前
ご一緒に 学んだことがあり
そのことが とても印象に残っています。
なぜ 敢えて デュバルクの古典名曲のメロディーが世間で有名なのに
その 詩を フェレが 何故シャンソンにしたのかなぁーと
思ったものですが
旅へ誘い L`INVITATION AU VAYAGEは 退廃と甘美 官能の美的な詩。
声として 語りたい 落ち着きある
シャンソン的な 作曲が フェレ
クラシックのデュバルクの作曲は 壮大で優雅
ゴージャスな美声と 豊かな声量が必要な作品です。
私の感覚では そう感じています。
大野修平さんの記事の中にも 書いてありましたが
敢えて 大作曲家デュバルクの 秀作があるのに
シャンソンとして作曲をした レオフェレの 言い分は
デュバルクは 詩を全て 活用せず省略した部分があり
フェレは 全部 メロディーに乗せたのです。
先日 芸大の親友とも話したのですが
クラシックの歌曲は 言葉が 少ない。
逆に シャンソンは とんでもない言葉数
ということで・・・
クラシック歌曲では 声の美を聞かせる為
シャンソンは 言葉の美を 聞かせる為
ということになります。
でも 語るにした所で 歌う声 音を出すとき
魂や 心や 時としては美的な音の色 色々な音色が
無ければ 無意味なので
どちらにしても 人間の 声というものが
人間の言葉を 表現して
ヴァイオリンには 言葉がないから・・・
歌は 文学と音との合体で より 人間的な味が必要な
特殊楽器というわけです。
そして 詩を 感性で理解して 自分の色を
奏でなくてはならない・・・
LA VIE EN ROSEを 歌うとき 私は ピンクのバラを
想像しないで・・色的には 白いバラです。
白いバラの花ことばが 「私は貴方に相応しい」だからかもしれませんが。