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きょうは、公民館の歴史教室に出席しました。 今月は、元城郭研究室長の中川秀昭氏の 三ヵ国守護・
赤松義則 です。 赤松円心、則祐に 続く第3弾です。 ホップ・ステップ・ジャンプで、赤松家の隆盛を
築きました。 次回は、嘉吉の乱の赤松満祐の予定です。 今回の資料も 6ページびっしりあるので、一
部を割愛します。 今回も出席者が多く、20人以上? 旭陽校区以外の人も 来られているのでしょうか。
。。。。。。。 三ヵ国守護・赤松義則 。。。。。。。
Ⅰ.室町幕府3代将軍・足利義満と赤松義則
1.赤松義則ー赤松氏絶頂期の教養人
・没年の月日及び年齢に数説:正平13年(1427).9.21 70歳没 (根拠:『満済准后日記』)
・父:赤松則裕、 母:佐々木導誉(高氏)女
・正室:不詳 子:満祐(嫡男)、祐尚、(則友)、義雅、則繁、直操、(則槃)
・父・則祐61歳で没に伴い、14歳で 応安4年(1371) 赤松総領家 家督継承ー応安5年(1372)に
播磨・備前・摂津 守護職(有馬郡分郡守護)・・父・則祐の屋敷を引き継ぎ、二条西洞院邸に住む
・足利家と赤松家の強い絆ー将軍・足利義満と同い年かつ幼なじみ
※義満が 幼児の時、細川清氏が 南朝に降り、京都を攻めた時 一時期 播磨に逃れ 赤松則祐に匿われた
・将軍・足利義満・義持の55年間にわたり 幕府の宿老として 重んじられる
「四職家」:侍所所司に任じられる家、赤松、山名、一色、京極家
「三管四職」:「三管」とは、管領家である 斯波、細川、畠山の各氏
・《守護領国制の確立》:国人たちの守護被官化~播磨の武士たちを赤松氏家臣団として掌握
・《山名氏(明徳の乱)》、大内氏(応永の乱)など 外様の有力守護が没落する中で、義則は、
巧みに生き残りを果たす
・《播磨・備前・美作(播備美) 三か国領有》 有力守護大名に発展》:赤松総領家による三国の支配確立
・《文人義則ー歌人・連歌への造詣》
・《厚い信仰心ー京・五山僧との交友》 ・禅宗庇護、赤松五社宮の修復、伊和神社の修理・造営
・書写山円教寺の「女人登山禁止」に関与(応永5年(1398)
・太清宗涓(たいせいそうい)を 師と仰ぎ、建仁寺内 に 龍徳寺 建立 ※太清宗涓の師は 雪村友梅
2.足利義満と赤松義則 ~幼くして 室町幕府将軍 及び 赤松総領家 相続~
・2代将軍 足利義詮 没 38歳 貞治6年(1367).12.7
・足利義満、10歳で 室町将軍家 家督相続 貞治6年(1367)
・足利義満、11歳で 第3代 征夷大将軍 就任 応安元年(1368).12.30
3.赤松則祐 61歳 応安4年(1371).11.29 於:二条西洞院邸
・赤松義則 14歳で 赤松総領家 家督継承 応安4年(1371)
・赤松義則 播磨・備前・摂津国守護(有馬郡分郡守護)に補される 応安5年(1372) 15歳
幼い義則を補佐:播磨守護代:宇野備前の守、備前守護代:浦上助景、せっつ:赤松光範(七条家)
◆この頃の南北朝の動向:南朝との激しい抗争も 一段落ー南朝の和睦が模索される段階
・山名時氏、楠木正儀の北朝帰順
Ⅱ.赤松義則の活躍
1.康暦の政変と義則の活躍 康暦元年(1379).2
・管領・細川頼之・・対立・・斯波義将(よしゆき)前執事
・足利義満の命:赤松義則、土岐頼康討伐のため美濃国へ。 近江国浜大津へ転戦
・しかし、義満、義則らを呼び戻し、高秀・頼康を罷免→義将派は、反発、頼之の罷免を迫る
・義則、功により 赤松家で初めて侍所 所司(頭人)になる 康暦元年(1379) 22歳
・将軍御所室町殿(花の御所)完成 康暦3年(1381)
・赤松氏範(円心4男・南朝方)、一族、郎党ともに 播磨清水寺で 挙兵 至徳3年(1386).9
氏範の軍勢は 義則らに攻められ、一族・郎党 100人余人は 播磨清水寺で自刃。 氏範57歳
2.明徳の乱 義則の奮戦 明徳2年(1391).12 ー将軍・足利義満の有力守護大名潰し(山名氏標的)
・「六分の一殿」 山名氏(全国に66ある国の11カ国を持つ)
・山名氏の惣領家をめぐる対立(時義⇔満幸)←義満、山梨潰しの好機と判断
・明徳元年(1390):将軍義満、満幸、氏清に 時熙・氏之(時義遺児)の討伐を命ず
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・赤松義則、当初 山名氏家勢と戦うも、山名氏清 押小路から 進軍し、赤松勢の側面を攻撃⇒赤松勢苦戦し、
将士多数討死」、義則、ひるまず 大内勢に加え 一色詮範らの加勢を受け、山名氏清の首級を挙げた
3.赤松義則、美作国守護に 補される 明徳3年(1391).1 35歳
ー 赤松惣領家による、播磨・備前・美作 三国の支配確立 ー
・論功行賞 明徳3年(1391).1.4
・大内義弘:和泉・紀伊、 ・一色満範:丹後、 ・細川頼之:丹波、 ・畠山基国:山科、
・佐々木高詮:隠岐・出雲、 ・山名時熙:但馬、 ・山名氏之(氏幸):伯耆
Ⅲ.南北朝の合一 南北朝の動乱も終焉の時を迎えようとしていた
・明徳2年(1391):南北朝合一へ向けた折衝
・北朝方・足利義満提案の合一条件:南朝に伝わった「三種の神器」は 北朝に譲渡する、ほか
・南朝・後亀山天皇は 義満の提案に 合意 明徳3年.10.28 後亀山天皇 三種の神器携え 嵯峨大覚寺へ
・南北朝合一 明徳3年(1392).閏10.5
・「三種の神器」は 土御門内裏へと運ばれ、57年ぶりに、南・北両朝の合一が実現
Ⅳ.足利義満の退位と足利義持、4代将軍に就任
・足利義満(37歳)、将軍職を 嫡子・義持に譲る 応永元年(1394).12.17
義満、出家し 法名「道義」に改める 応永2年(1395).6.20、義満は、義持の後見人として権力保持
赤松義則も出家(38歳)、法名「性松」を名乗る
・応永の乱 赤松義則、境へ 先鋒で活躍 応永6年(1399).10~12
・義満の有力守護大名潰しの一環(大内氏標的)
貞治2年 大内弘世、南朝方として活躍も、周防、長門守護職と引き換えに 幕府方に帰順
大内弘世の子・大内義弘は、将軍義満の配下で活躍。 山名に代わり幕府を代表する大大名に
・義満、大内氏の勢力拡大に恐れをいだき、大内義弘を挑発し 挙兵に導く、義弘に九州へ出陣命令
・赤松義則、先鋒を命じられ 義弘討伐に出陣 応永6年11.8
・応永6年(1399).11末、境で戦いが始まり、激戦展開、しかし、応永6年12.21 大内義弘 討ち取られる
ー 外様守護大名の脅威は ほぼ解消され、室町幕府は 安定期を迎える ー
・足利義満 急逝 51歳 応永15年(1408).5.6
Ⅴ.赤松氏一族
1.赤松一族の不幸
・応永28年(1421).9.26 :赤松義介祐(義則弟)、若党に 寝所に入ったところを殺害される
・応永30年(1423).1.5 :赤松出羽守(則友・義則3男)、畠山満家邸からの帰り、落馬、翌日に没
・応永31年(1424)3 :赤松則範(義則の子)、細川持之邸で 近習安藤某を殺害し 逃走
・応永34年.9.21 :赤松義則 没 70歳 於・京都 二条西洞院邸 墓所:龍徳寺(建仁寺内)
◆赤松氏の守護領国制
◇応永の半済(はんぜい)令(応永元年)
・室町幕府が、国内の荘園、国衙領 年貢の半分の徴収権を 守護に認めた
◇在京制:畿内近国(室町殿御分国)の守護は、京都にいることを義務付けされた
※在京して幕政にかかわるも者たちを 「大名(たいめい)」と呼び、斯波、細川、畠山、山名、土岐、赤松、
◇分国支配:室町殿御分国内の守護(赤松氏など)は、分国支配は、守護代に補任された有力被官を中心に行った
◇守護所の設置:重要な地点に守護所設置
◆赤松氏の分国支配体制
・守護代が 守護の代理として 職務に当たる ※守護代の職務:家臣に対する軍事指揮権、紛争の処理、犯罪人の
<播磨国の領国支配>
・守護館(則祐~義則の間) ・越部:新宮町(城山城の麓)
・守護・赤松義則:京・二条西洞院邸 在住
・守護代の拠点:広瀬(山崎町)、石見(御津町)
◇奉公人:領国支配のための事務官僚
・在京奉行人:守護赤松氏のもとにあり、奉行人奉書を発給、守護の命を播磨に伝達する役割
・在国奉行人:守護代とは別に 守護の命を承り淳行(じゅんぎょう・執り行う)する
・守護・赤松氏の命令:守護⇒守護代⇒郡使・守護使
◆国衙在庁官人の被官化
・国衙在庁官人 ・小河氏の被官化 ~明徳年間(1390~94)国衙の掌握
出展・参考文献:『赤松氏五代』 渡邊大門著、『播磨赤松一族』 濱田浩一郎著、『赤松一族盛衰記』 神縈赳郷
著、『赤松一族八人の素顔』 播磨学研究所編、『赤松円心・満祐』 高坂好著、『足利義満』 小川剛生著、
『足利義満と京都』 早島大祐著、『図説室町幕府』 丸山裕之著、『赤松一族の盛衰』熱田公監修など
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