私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 生野道篇③

2018-12-28 11:51:52 | 歴史探索
 12月28日(金)   天気:曇り   室温;14.5℃

 きょうは 最近入手した FMゲンキのフリーマガジン Genki79.3の ”冬号” の
気まぐれ途中下車 「姫路の旧街道を歩く 生野道篇③(豊富~船津・山田) を紹介します。
記載されている見所は 20ヵ所あります。
 生野道篇①は 大黒壱丁町~白国 で  生野道篇②は 砥堀~仁豊野 でした。
 生野道篇②は このブログで 紹介しなかった・・・? ※1月7日 ② を追加しました。
  
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1.市川の流れ
  慶長播磨国絵図では、市川西岸に 橋爪村や西村があり、対岸は 上野村となっていますが
  元禄の国絵図では、橋爪村は 東岸に移り、西村と上野村は 消滅しています。
2.焼堂碑
  南北町時代の武将 塩治高貞の妻 顔世御前は 美人の誉れ高く、これに懸想した足利家の
  執事 高師直は、顔世を奪い取るため 讒言により 高貞に謀反の疑いをかけ 討ち取ろうとします。
  高貞と妻子は それぞれ手勢とともに 京を出て 領国の出雲を目指しますが・・・お堂とともに焼け落ち
3.甲八幡神社
  甲山の名は 「播磨国風土記」 で 伊与都比古の神(伊予の神)と宇知賀久牟豊富命(地元の神)が
  戦った時に 兜が落ちたことに由来する。 伝承では 応神天皇が播磨巡幸の折、ここに登ったとのこと・・
4.もう一つの生野道
  生野道と接続する村道の三叉路に 「右 ひろみね ひめじ 左 ごちゃく」 という道標がありました。
  ・・・という訳で この村道も 昔は 生野道として利用されていたのかも 知れません。
5.生野道・馬車道 分岐点
  ここから北は 生野道を改修して 馬車道に転用しています。 なぜ 以南の生野道は馬車道ルートに
  採用されなかったのか?・・・それは この地域の地理的特徴である河岸段丘の高低差のためと考えられ・。
6.太尾城跡
  太尾山上には 戦国期に 赤松氏の家臣 太尾兵庫頭興次が 城を構えていましたが、羽柴秀吉の中国攻めで
  落城しています。 「赤松家播磨作城記」 には 1469年 後藤基信が居城し 5代のちに落城と
7.太尾北口の道標
  正面 「たんは ほうてう道」、左側面 「ひめし ひりみね道」、背面 「たしま しそう道」。
  北条は 播磨と但馬、丹波、京などの諸地域を結ぶ陸上交通の要衝で、北播磨の中心的な宿場町でした。
8.生野道・支線 分岐点
  平田川を渡って すぐの左手にある木のたもとにある石仏が 彫られた小さな道標に 「右 たしま 左 みたち」
  とあります。 御立は この付近の村です。
9.仁色廃寺
  「昔、仁色村の西光寺野に 古い大きな寺があった。 ところが 羽柴秀吉が 播磨に攻め入った時、
  この寺を占領して 焼き払うというので せめて 仏様だけでも避難させたらということで 上野村と
  中野村にわけて持ち帰った。
10.焼野池東の道標
  「右 北条 左 たしま」。 但馬方面への道は 田の畔のような感じです。
11.米出し道(年貢道)
  年貢米を 市川の積み出し場(通称 「こめつんば」)まで 運ぶのに用いられたので このように
  呼ばれていました。
12.岩部ー三又の渡し
  藩政時代の市川には 福崎新村から 仁豊野村まで 横渡しはなく、このため 「急ぎの用で 無理をして徒歩で
  川を渡ろうとして 毎年 溺死する者が出ている」 として 享保年間に 両岸地区の大庄屋らが 連名で
  姫路藩主に 願い出、これにより 三又村と対岸の岩部村とを結ぶ渡し舟の運行が 始められました。
13.西光寺野開発 顕彰碑
  船津・山田にかけて広がる西光寺野は 水利に恵まれず、一面松林や雑木林の状態でした。 江戸初期に
  仁色村の福永彦太夫らによって 新田開発が行われて 以降は 大きな開発は 行われませんでした。
14.船津
  船津の沖積平野では 8~9世紀頃に 条里制が布かれ 播磨国の国衙との連絡のために 船着き場が設けられたと
  考えられています。 「船津」 とは 船着き場のことで これが やがて付近一帯の地域を示す地名となりました。
15.多田廃寺
  西多田の諏訪神社の北西300m付近に、白鳳期創建の東西両塔をもった薬師寺様式の大伽藍があったとされて
  います。 圃場整備のため 現在は何の痕跡もありませんが 塔心礎2個が 諏訪神社境内に保存されています。
16.多田の六地蔵
  元禄元年(1688)の銘があり 市内最古級の六地蔵とされています。
17.立場瓦発祥 顕彰碑
  西光寺野西側一帯は 良質の粘土層が分布しており、1805年に 姫路小利木町の小林又右衛門が 御用瓦師として
  大沢に 窯を開いてから 船津瓦の産地になりました。 この辺りの生野道は 西光寺野の坂が連続するため、太尾、
  大沢、辻川に 「立場」 と呼ばれる休憩所があり そのため、「立場瓦」 とも呼ばれました。
18.人参役所跡
  江戸後期、河合寸翁が主導して 西光寺野で 朝鮮人参栽培が始められました。 1830年には 人参製役所が設けられ
  薬用人 岡庭小平太・小兵衛 父子らにより 明治初年まで 人参栽培が行われました。
19.正八幡神社
  745年 もしくは 875年の創建とされています。 平安末期に 船津郷の鎮守となり、天正期に船津郷と的部北条郷
  12ヵ村の惣氏神に発展しました。 現在の社殿は 明治22年の再建ですが、それまでの社殿は 西向きだった・・。
20.糠岡(ぬかおか)
  西光寺野は 「播磨国風土記」 では 伊和大神と新羅から来た天日槍が 戦った場所の一つとされ、糠塚(通称)が
  風土記の糠岡に比定されています。 一説では、応神天皇の時代に 百済から渡来した人々が
  朝鮮式山城を築いて住んでおり、「城牟礼(キムレ)山」 とも言われたそうです。
  
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