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私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

たつの市揖西町の土師神社 他

2018-05-29 14:39:36 | 歴史探索
 5月29日(火)    天気:曇り    室温:28.1℃

 きょうは たつの市揖西町土師の土師神社へ行きました。 近くの菅原神社へ寄り
帰りに 揖保川町大門の宝積禅寺へも寄りました。 先日 龍野の吉田純一さんにい
ただいた 「郷土誌 ふるさと龍野 第三号」 を見ていると 歴史探訪三に ”野見宿禰
(のみのすくね)と 少宅秦公(をやけのはたのきみ)” というページがあり その中
に  もともと 揖保郡はと呼ばれていた龍野の地は 地名の由来に 渡来人がかかわっ
ていることは 先号で 紹介した。・・・・天穂日命は 『播磨国風土記』 に 書かれて
いる天日槍命と 同一人物である。 そうすると 土師氏、その一族であった野見宿禰は
渡来人の先祖を持つことになる・・・・もちろん、学問の神様として 有名な菅原道真も
その一族の一人である・・・というくだりがあります。

 たつの市揖西町に 土師(はぜ)というところがあり ここに 野見宿禰を祀る土師神
社があるし、隣の南山には 菅原神社もある。・・・・・
 というわけで きょうは 龍野歴史探訪の一環として 土師神社と 菅原神社を 訪れま
した。 次回は 小宅神社と 粒坐天照神社を 訪れたいと思いますが いつになるか・・。

 土師神社の説明板には  村社 土師神社(鎮座地 揖西郡土師字梶ヶ谷)
祭神 野見宿禰 保食神 八幡皇大神 琴比羅大神 神功皇后 菅原道真 素盞嗚尊
由緒 初め 保食神を祀る稲荷神社なりしも 此地付近は 往古 土師氏一族の居住し
   た地にして 龍野町日山に 野見宿禰の墓と伝ふるものあり。 しかも 宿禰の
   霊を土師の十町南方なる 大陣原神社といふに祀り 今に 大陣原神社付近
   に於いて 彼等土師の一族が 焼き捨てた埴輪・円筒の・破片が あたりから大
   量に発掘されており 大陣原あたりが 須恵器生産の中心地であったと思われる。

  明治41年 現在地に 社名を変更して 移転したという。 大陣原神社こそは
  野見宿禰を守神として 何百年という歳月を 窯業に携わってきた人たちの心の
  よりどころであったに相違ない。 このように 土師地区は 土師氏の祖神野見宿
  禰伝承が 心の風土の中にも 抜きがたく根づき 発展してきた。
  そして 未来へ誇りをもって 語り伝えられていくことであろう。


 東の揖西町南山にある菅原神社へ行きます。 ここには 学問の神様 菅原道真公が
祀られています。 鳥居にかかる額には 南山天満神社とあり 菅原神社の表示は 本
殿の額にありました。 絵馬堂には 絵馬がたくさんありますが 風化して・・。



 帰りに 揖保川町大門の宝積禅寺(ほうしゃくぜんじ)に寄りました。 このお寺は
姫路医療生活協同組合の広報誌 ひめじNo.451(2月1日号)に載っていました。
 臨済宗 妙心寺派 長谷山 宝積寺は 奈良時代に 行基が建てたとされ 室町時代に
嘉吉の乱(1441年)で 一時 焼失しましたが 明暦3年(1657)に 盤珪国師
(禅師)が 再建したと言われています。

 宝積禅寺は 江戸時代までは 長福寺と呼ばれていましたが 徳川八代将軍吉宗の子の
幼名が 長福丸となり その名を憚って 当時 寺院にあった 宝積坊に因んで 「宝積禅
寺」 に 改名しました。

 ご本尊の十一面観音は 平安時代後期の作といわれ 同時期製作の薬師如来立像・釈迦
如来立像が 両脇に安置されています。 宝積禅寺には 揖保川町金剛山の龍隆寺に護持
されていた 多くの仏像が安置されています。 その中の十二神将は 薬師如来及び薬師
経を 信仰する者を守護するとされる 十二体の武神で 市内でも珍しく 完全に揃った江
戸時代の作品と言われ 鮮やかな色彩も残っています。

 この十一面観音と 十二神将が 見たかったのですが きょうは お留守のようで 見ること
はできません。 仏像の見学は 寺院へ事前に連絡が必要。 日曜日の朝5時から 座禅が
あるそうなので そのとき来れば・・・。  下に資料の写真を載せておきます。




≪追記≫
 冒頭の「郷土誌 ふるさと龍野 第三号」 歴史探訪三に ”野見宿禰と 少宅秦公” という
ページがあり 二項は 小宅(をやけ)の秦氏 で 概略 下記のことが
 小宅は 『播磨国風土記』 の時代にさかのぼる地名である。 当時は 少宅と書いた。 少宅
里の元の名は 漢部里(あやべのさと)であったという。 漢部は もちろん漢人、すなわち
渡来人が住んでいたことから 名づけられた里である。
 ところが 少宅という里名も 渡来人にかかわる名前である。 風土記は 川原若狭の祖父
が 少宅秦公(はたのきみ)の娘を娶って その家を 少宅と名づけた。 その後 若狭の孫
である智麻呂が 里長、すなわち 村長になって 庚虎の年(690年)に 漢部里を 少宅里に
改称したというのである。・・・・・
 さて 少宅里にある小宅神社の祭神は 品陀和気尊と息長帯姫尊である。・・・・・・
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