私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

播磨の陣屋

2020-02-26 17:28:16 | 歴史探索

 2月29日(土)   天気:曇り   室温:18.7℃

 あるカフェで コーヒーを飲みながら 置いてあったバンカル2020年冬号を見ると 「播磨
の陣屋」 が特集されていました。 それをめくると 1.乃井野陣屋、2.平福陣屋、3.山崎陣
屋、4.林田陣屋、5安志陣屋、6.福本陣屋、7.小野陣屋、8、三草陣屋、9.若狭野陣屋が
載っています。 まだ 小野陣屋と三草陣屋には 行ったことがありません。
 陣屋とは、江戸時代の幕藩体制における、大名領(藩)の藩庁が 置かれた屋敷、また 徳川幕府
直轄領の代官の住居および役所が 置かれた建物のことである。
 一般的には 石高が3万石以下の国持ち大名や 城持ち大名以外の大名が 持った屋敷です。 また
上級旗本も知行地に陣屋を構えた。

1.乃井野陣屋
  元禄10年(1697) 森長俊によって築かれた。 三日月藩森氏は、延宝4年(1676) 津山藩主
  森長武が弟長俊に美作国勝山郡内に一万五千石を分与したことに始まる。 元禄10年(1697)
  津山藩主森長成が 嗣子なく没して 改易となると、所領を播磨国佐用郡・揖西郡・宍粟郡内に
  移され 三日月陣屋を構えた。 三日月藩森氏は 長俊の後、長記・俊春・俊韶・快温・長義・長篤・
  長国・俊滋と 九代続いて 明治に至る。



2.平福陣屋
  平福陣屋の松井松平家は 初代の康朗が 岸和田藩主松平家から 5000石の分地を受け 成立した
  家柄。 平福は 寛永17年(1640)利神城廃城後、松井松平家領となる。 天保7年(1836)には
   所領が 福島の中畑(中畑陣屋)に移された。 その後は 幕府天領であったが 文久3年(1863)に
  旧領のうち 2500石が 松平家に復し、明治まで続く。





3.山崎陣屋
  山崎藩は、姫路藩初代藩主 池田輝政の四男輝澄を藩祖とする。 慶長20年(1615)5月、輝澄の
  同母兄で 岡山藩主の池田忠継が 早世すると、忠継が 相続していた母良正院の遺領分10万石のうち
  播磨国宍粟郡3万8千石を分与されて 鹿沢(山崎)に 陣屋を構え立藩した。 寛永8年(1631)には
  赤穂に転封となった弟輝興の所領3万石を 加増された。・・・





4.林田陣屋
  豊臣政権下で 尼崎郡代700石であった建部光重の子・政長を藩祖とする。政長は 池田輝政の養女を
  母とする池田家一族であった。 池田利隆・忠継兄弟の幕下の大坂の役で 戦功を挙げ、元和元年(1615)に
  伯父の池田重利とともに 摂津川辺郡・西成郡尼崎藩1万石を与えられ 大名に取り立てられた。
  元和3年(1617)、宗主である姫路藩主池田家の転封により 林田に移り、林田藩が成立した。
  建部家は 外様大名でありながら、明治維新まで 10代政世まで 250年余りに亘り 林田藩を治めた。



 

5.安志陣屋
  安志小笠原家は、小笠原秀政の嫡男忠脩に始まる。 大坂の陣で 忠脩が討死にした時、長次が幼少のため、
  本家は 小笠原忠真(豊前小倉)が 継ぎ、長次は 分家扱いとなった。
  長次は、播磨龍野~豊前中津城主となり 8万石を領し、その後 5代続いたが 世継ぎ無く 改易となった。
  享保2年に 小笠原長興に 安志1万石を与えられ 家名存続を許された。 長興が 安志に陣屋を構えて以後、
  7代続いて 明治に至った。 遺構は 何も残っていない。 真光寺に移築された城門が残っているだけ・・。



6.福本陣屋
  播磨国主で 姫路城を築造した池田輝政を父、徳川家康の次女督姫を母とする三男松平輝澄の嫡男政直が
  興した、福本藩の御殿跡です。 大正二年に 大歳神社が遷座されて、小規模ながらも 池泉回遊式の大名
  庭園の一部が保存されました。 寛文三(1663)年に 造営された福本陣屋の縄張りは、南北約600m、
  東西約450mの範囲を占め、陣屋の西に 但馬街道を通し 南惣門と北惣門の関所を設けました。

 この庭園は 元禄年間に描かれた絵図面通りに 現存する庭園として 大変貴重で 蓬莱
島を置き 武運長久を祈る大名庭園としての特徴があるそうです。




7.小野陣屋
  小野陣屋は承応2年(1653)、二代藩主一柳直次によって築かれ、それまでの陣屋から移転した。
  小野藩は 一柳直盛の次男直家から始まった。直家は 播磨国小野と伊予国内に 2万8600石を領し、
  伊予川之江に 川之江陣屋を構え、播磨小野を分領として 代官所を構えた。 しかし 寛永19年(1642)、
  直家から婿養子直次への相続が 末期養子としてとがめられ、小野藩は 1万石の藩となった。
  以後10代にわたって 一柳氏は この地を領して 第11代 末徳の代に 明治維新を迎えた。
  陣屋は 台地の先端部に築かれている。 周囲は 断崖になっていて。東側には かつて 3つの池があり、
  堀の代わりをしていた。 現在 跡地は 小野市立小野小学校となっており 遺構は 残っていませんが、
  旧講堂が 小野市立好古館となっています。
  

8.三草陣屋
  三草陣屋は 寛保2年(1742) 丹羽薫氏によって築かれた。 薫氏は 大坂定番に任ぜられ 越後国高柳から
  美作国・河内国に移され 更に 播磨国に移り 一万石で 三草に陣屋を構えた。 丹羽氏は 参勤交替のない
  定府大名であった。 現在は 学習塾の敷地となり 入口付近に石碑が建てられているのみである。

 三草山城は 要害の地であることから 室町時代 三草山城が築かれ、幾多の戦乱の舞台にもなりました。
 城主は 赤松出羽守則友といい、山名氏との戦いにおいて 戦功のあった人です。


9.若狭野陣屋
  寛文十一年(1671)、赤穂藩主浅野長直の孫・浅野長恒が 分家したことにはじまり、長恒は 江戸幕府
  直参の旗本となり、若狭野に陣屋を構え、若狭野十二ヶ村三千石の知行がみとめられました。 これが若狭野
  陣屋の始まりです。 陣屋は 三千石の旗本宅としては 豪壮で、1600平方メートルの敷地内に 本宅(六室)
  内庭のほか、門・倉庫・馬屋・武器庫などがありました。 現在、札座(藩札をつくったところ)の建物で
  あった法界庵と、那波野の西法寺に、移築された 陣屋門が残っています。




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10.網干陣屋
  この地は、かつて羽柴秀吉が別邸(鶴松亭)を建てたところで、江戸時代初頭は姫路藩領であったが、曲折の後、
 寛永十四年(1658)に龍野藩領となった。 万治元年(1658)、当時の龍野藩主京極高知は 四国の丸亀藩へ
 移封されたが、網干地区二十八ヶ村(一万石)だけは 引き続いて京極家領となり、以来明治まで 丸亀藩の飛地で
 あった。  丸亀藩は、この地に 網干陣屋を設け、代官・奉行などを配置していた。 明治維新で建物は ほとんど
 取り払われたが、門だけが残された。 かつて揖保川の近くに西面して建っていた陣屋門は、明治三年(1870)
 この地に移築され、永らく興浜の壇尻庫として利用されていた。 現在の建物は、老朽化した旧陣屋門を参考にして、
 昭和62年度に 改築されたもので 旧にならって 軒丸瓦には 京極家の家紋が用いられている。


 あぼし一番街の角に 境橋があります。 万治元年(1658)から 明治維新まで 興浜地区は
丸亀藩(京極家)の所領 新在家地区は 龍野藩(脇坂家)の所領に分割されていました。 この
石橋は 両藩の境界堀割に 架けらていたので 境橋と呼ばれていました。 昔は ここに 通用門が
設けられ 朝夕 時刻を定めて 門が 開閉されていた・・。

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