私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

龍野歴史文化資料館で 秀吉の書状

2021-05-13 15:23:38 | 歴史探索
 5月13日(木)   天気:晴れ+雲    室温:25.5℃ 暑い

 きょうは たつの市龍野町のたつの市立龍野歴史文化資料館へ 特別陳列「新発見!秀吉
の書状ー播磨と但馬をつなぐ垣屋氏文書ー」 を見に行きました。  たつの市内の旧家から
新たに見つかった 豊臣秀吉の書状2点と合わせて、当館所蔵の秀吉関連史料を特別公開しま
す。 全国でも、当館でしか見られない秀吉関連史料の数々をぜひこの機会にご覧ください。





 


   ーーー 播磨と但馬をつなぐ恒屋氏文書 ーーー
 書状の宛先である恒屋孫市の先祖は、戦国時代の但馬守護職 山名氏の家臣四天王の一人と
して 知られており、山名氏が 播磨国を治めた時期には、播磨国守護代に 配置されました。
主君をしのぐほど 勢力を拡大していく中で、越前守・越中守・駿河守に分家しました。
 ※山名四天王は、室町時代から戦国時代にかけて 山名氏で重きをなした垣屋氏、田結庄氏、
  八木氏、太田垣氏の当主の総称とされる。 戦国時代においては、垣屋続成、田結庄是義、
  八木豊信、太田垣輝延の4人が当主であった。
 孫市は、駿河守の系譜につながる人物です。 駿河守は 轟城主(豊岡市竹野町)となり、
その子孫が 江戸時代になって 脇坂家に仕えたことが 但馬地方の伝承として残っていました。
 恒屋氏は 龍野藩士・村田家と婚姻関係があり、その関係で 本資料が 村田家に伝わったと
思われます。 今回の発見で 但馬の伝承が 播磨の地・たつので証明されました。
 但馬の城主に宛てた秀吉の書状が 播磨の地で 発見される! 時代と地域を越えた歴史浪漫を
 お楽しみください。

 恒屋孫一(市)宛 領地宛行状(天正11年8月)
 恒屋孫一が 莵原郡森村に 200石の知行が与えられた。 この年4月に 賤ケ岳合戦で
 柴田勝家を破った秀吉が 発給した 8月1日付の宛行状が 他にも多く伝わっている。

 恒屋孫市は、村田家文書や但馬に伝わる系図では、駿河守豊続の孫であるという。
豊続は 秀吉の配下となり 2千石の知行を与えられ、鳥取城攻めに参戦しているが、
孫市が どのような経緯で 秀吉から4百石を与えられたかは 不明である。
 室は、脇坂安治の養女で、玄昌院(安治の姪。 亡くなったのは 文禄3年(1594)のこと。

『 恒屋城は 頂上の北側が 後城(236m) 南側が 前城(199m)です。 この城は 永禄二年(1458)
 頃 赤松の家臣・恒屋氏が 築城 天正四年(1576) 羽柴秀吉により落城。 その折に 恒屋氏は滅
 亡したようです。 城の遺構 本丸、出丸、土塁、堀など 中世の山城の典型的機構が残り 城の下には
 堀をめぐらした居館跡も見受けられます 』・・・登山口の説明板による(恒屋氏が滅亡したというのは ウソです)
※2011.1.14に登った恒屋城跡のページは <こちら> を。


 下の恒屋氏系図の左に 駿河守・豊茂ー豊種ー誠長 がありますが、誠長の下に ー聖忠ー宗時ー
豊続ー豊実 と続きます。 孫市は 豊続の孫ということなので 豊実の子ということになります。

 轟城(豊岡市竹野町)は、別名青葉城とも呼ばれ、恒屋駿河守一族の居城として 14世紀初頭に
築かれたとされる。 天正5年(1577)の羽柴勢の但馬侵攻には、城主恒屋豊続が 毛利方に与し、
3年に及び 抗戦した。 現在 山頂にある秋葉神社には、恒屋豊続公の木造が祀られている。

 。。。   。。。。。   。。。。   。。。。。   。。。。   。。。。。   。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ルネッサンス・スクエアで ”... | トップ | 蘇武岳 そぶだけ 1074.2m »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史探索」カテゴリの最新記事