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私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
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歴史教室10月 赤松氏中興の祖・赤松円心

2023-10-17 14:10:18 | 歴史探索

 10月17日(火)   天気:晴れ   室温;27.8℃

 きょうは、公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は、元城郭研究室長の中川秀昭氏の 「赤松氏

中興の祖・赤松円心」 です。 11月は 赤松則祐で、12月は 赤松満祐の予定です。 今回は、コピー

機の調子が悪く、資料の配布に手間取り、また 出席者が 多く 急遽 机やi椅子を追加するなど てんやわん

やでした。   公民科へと 歩いていると 民家の際先に 金木犀が 咲いて、稲刈りも行われています。

 。。。。。 赤松氏中興の祖・赤松円心 。。。。。

1.赤松氏の系譜と赤松円心

 1)赤松氏とは

  ・『太平記』(巻六):「播磨国ノ住人、村上天皇第七御子具平親王六代ノ苗裔、従三位季房ガ末裔・・」

  ・赤松氏は、村上源氏(姓を賜り臣籍降下した皇族の一つ。村上天皇の皇子具平親王の子)の出自と称す。

  ・従三位季房ー源季房・・季房は、右大臣 源顕房の子といわれ、丹波守、加賀守を歴任するが、作用荘に・・

   ※作用荘:九条家領、佐用郡の大部分、山崎・千種・上郡にまたがる広大な荘園

  ・宇野(山田)入道則景の四男・家範が 「赤松」を名乗る。 赤松氏の祖

  ・赤松氏は 「悪党」か?・・通説:「村上源氏の流れをくむ悪党」(近年新しい説も提示される)

               新設:「赤松氏は、佐用荘赤松村を本貫地とした六波羅配下の関東御家人

 

 2)赤松則村(円心)ー赤松氏中興の祖ー  赤松家範ー久範ー茂則ー則村(円心)

  ・生誕年に二説:①弘安2年(1279)生、②建治3年(1277)生~観応元年(1350)没

  ・父:赤松茂則 母:不詳、正室:不詳、長男:範資、次男:貞範、三男:則祐、四男:氏範

  ・名字の地:佐用荘赤松村

  ・『太平記』:「従三位季房ガ末裔、赤松入道円心トテ弓矢取テ無双ノ勇士ナリ

  ・中世日本を変えた人物:後醍醐天皇皇子・護良親王の求めに応じ、いち早く鎌倉幕府打倒の兵を挙げ

  ・寺社建立:法雲寺、白旗八幡宮

  

2.赤松円心挙兵

 1)後醍醐天皇・護良親王の倒幕活動(「元弘の乱」のはじまり)

  ・文保2年(1318):後醍醐天皇 即位。 院政廃止し 天皇親政とする

  ・正中の変(正中元年(1324)):後醍醐天皇が 日野資朝・俊基と倒幕計画を画策したが、幕府に露見

  ・元弘の変(元弘元年(1331)):後醍醐天皇、再び倒幕計画画策、幕府税の攻撃に陥落、隠岐配流

  ・後醍醐天皇 隠岐脱出(正慶2年(1333))、伯耆国 船上山を拠点に、鎌倉幕府倒幕の論旨を発す

 2)円心、苔縄城を築き 挙兵

  ・則裕、円心の下へ護良親王の令旨もたらす(正慶2年(元弘3年・1333)

  ・赤松円心、苔縄城 築城、挙兵(正慶2年(元弘3年・1333)1.21)

   ・円心、大塔宮護良親王の令旨を奉じ、赤松村に近い苔縄山に城郭を築き、六波羅(鎌倉幕府)の討伐の・・

     挙兵時、円心は 55歳、範資(長男・32歳)、貞範(次男・26歳)、則裕(三男・20歳)

   ・西からの備え:備前守護・加地氏配下の伊東氏と船坂峠で交戦(次男・貞範の活躍)

   ・摩耶山の合戦:摩耶寺のある摩耶山に城構え 立てこもる。 三十三間堂で 六波羅軍に 惨敗。

  ・足利高氏上洛~幕府軍から倒幕軍へ

   ・足利高氏、名越高家ら 上洛し六波羅軍を援助

   ・足利高氏、丹波・篠村八幡宮で 討幕軍に加わる決意表明(正憲2年(1333))

  ・六波羅探題総攻撃~六波羅探題陥落(正慶2年)・赤松円心・足利高氏・千葉忠顕 三方から攻撃、陥落

  ・鎌倉幕府 滅亡(正慶2年5.22):六波羅探題滅亡後、新田義貞が鎌倉に侵攻、執権北条高時 自害

3.建武の新政

  ・御醍醐天皇、京都へ帰還(正慶2年(1333).6.5

   ・帰還ルート:船上山~播磨路~書写山円教寺~増位山随願寺~法華山一乗寺~福厳寺~京へ

   ・円心ら 福厳寺(神戸)で 後醍醐天皇を出迎え、軍功を賞される。 そのご、円心 播磨守護に任ぜられる

  ・建武の新政:元弘3年(1333).6・・・後醍醐天皇による新政(天皇親政)始まる:建武へ改元

   <論功行賞>:円心への冷遇 赤松円心:播磨守護職

   ◆護良親王事件 背景:護良親王と足利尊氏の征夷大将軍をめぐる対立

    ・建武元年(1334).11 後醍醐天皇、護良親王を幽閉し 鎌倉に配流 (護良親王足利直義に殺害される)

    ・円心、播磨守護職を解任され、佐用荘地頭職のみ 安堵される  ◆足利高氏、足利尊氏に

4.円心と足利尊氏の反乱

  ・中先代のの乱(建武2年(1335)).7:北条高時の遺子・高行が 信濃国で挙兵、足利直義を襲撃し、

     鎌倉占拠。 直義は 護良親王を殺害。 尊氏は、鎌倉へ侵攻し、・・鎌倉陥落。

    <後醍醐天皇と足利尊氏との決定的な決裂>

  ・円心、反後醍醐・反建武政権

   ・円心は、尊氏の出兵要請に応じ、次男貞範を派遣。 箱根・竹之下の戦いなどで 尊氏勢勝利し、新田勢・・

   ・建武3年.1 後醍醐天皇、比叡山へ逃れる中、尊氏入京。 北畠顕家勢など 欧州勢が迫り、尊氏勢は退却。

   ・尊氏、兵庫発(建武3年2.12) 九州へ。 途中 室津寄港、室津軍議:山陽道、四国などに足利一族、

     在地の豪族配置。 <軍議で打ち出された軍事体制が 室町幕府・守護体制の原型にになる>

    ※「播磨ハ赤松」:播磨は 円心が 国大将・守護兼務、播磨国守護 赤松氏の基盤に

  ◆円心、白旗城を築く~50日間の籠城戦 建武3年(1336).3~5

    ー西国に下向した尊氏の軍が 上京するまで 新田勢の猛攻に耐える城ー

   ・新田軍は 6万余の軍勢で 白旗城を 二重三重に取り囲み 昼夜を問わず 50日余にわたり攻め続けたが

     結局 落とすことはできなかった。  ー”落ちない城”ー

 

  ◆感状山城

  ・感状山城は、赤松円心の三男、赤松則祐の居城として知られています。 足利尊氏の追討をしていた

   新井田義貞の率いる軍勢を 則祐が 50余日にわたり足止めをした功績により、尊氏から 則祐に感状を

   与えたことから 感状山と呼ばれるようになったといわれています。 ただし・・・

 

   <円心の策略> 小寺頼秀を新田軍へ使い:播磨守護職の論旨がいただけたら、後醍醐天皇に味方と

   ・白旗城の兵糧の不足目立つように

    ・三男・則祐を大宰府に派遣。 尊氏に大軍を率い上洛要請 <急ぎ東上あるべし>

    ・尊氏の東上を知り、新田義貞、白旗城から撤兵(建武3年.5)

   ・湊川の戦い 建武3年5.25

    ・楠木正成(湊川)、新田義貞(和田岬) ・新田軍、敗れ京へ落ちる ・楠木軍敗れ、正成 自害

   ・室町幕府成立 建武3年11月 ・足利尊氏、光厳上皇を奉じ 入京(建武3年6月)

    ・光厳上皇の弟・豊仁親王を擁立し、光明天皇 即位(建武3年(1336)8月)

    ◆足利尊氏。「建武式目」を制定し、室町幕府成立(建武3年11月)

     ・足利尊氏、征夷大将軍に任じられる(暦応元年8月)

   ・この頃、円心、播磨国守護、長男・範資、摂津国守護職に

     ・後醍醐天皇、比叡山に逃れ 尊氏勢と京都攻防戦展開

   ・後醍醐天皇、吉野へ(南北朝時代のはじまり) 建武3年(1336)12.21

    ・新田一族・金谷恒氏との東播・西摂合戦

    ・円心、苔縄に 法雲寺建立(開山住持・雪村友梅) (建武4年)

  ※松雲寺は 則祐が 建立したといわれています。
 

   ◆赤松園死す 観応元年(1350)1月11日 於:京都・七条邸

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 ※栖雲寺:細野登山口から 平坦な林道を 林の中を少しし進むと栖雲寺跡(廃寺)があります。

     円心の次男・貞範が 建てたといわれています。 江戸時代に 松雲寺に合祀された。

     宝林寺と法雲寺と栖雲寺は ほぼ正三角形の位置にあります。
 

出典・参考文献:『赤松円心・満祐』 高坂 好著、『赤松氏五代』 渡邊 大門著、

 『赤松一族盛衰記』 神栄赳郷著、『姫路市史第2巻』 、 『赤松一族の盛衰』 熱田公監修 など
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