私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

播磨国 五の宮めぐり

2015-11-06 16:17:15 | ドライブ
 11月 6日(金)  天気:晴れ   室温;25.2℃

 この前 歴史教室で 田中先生が 播磨には 五の宮があるが めぐってみたらどうか と言
われました。 「播磨国五の宮」 の謂れは よく分かりませんが 平安時代から中世にかけて
格付けが行われたようです。 五の宮は 1:一宮町の伊和神社、2:多可町加美区の荒田神
社、3:加西市北条の住吉神社、4:姫路の白国神社と 5:高岳神社の五社で 車で 一の宮
から順に 時計回りに 五の宮へ回ると 一日で 回れそうです。
 というわけで きょうは 播磨五の宮めぐりに 行きました。 きょうは 天気は まずまずでした
が 暑くて ACなしでは 走れませんでした・・。
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しかし 五の宮を回る前に 総社に お参りしないと・・・。 11月5日 姫路へ行ったついでに
総社に お参りしてきました。 総社・射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は 播磨の国の
総鎮守で 播磨国内大小明神一七四座の神々が 祀られています。 

< 射楯兵主神社 由緒 >
 射楯兵主神社は 欽明天皇二十五年六月十一日に 飾磨郡伊和里水尾山に兵主大神をお祀り
してから 千四百年の歴史があります。  また 射楯大神は 奈良時代より 飾磨郡因達里に
お祀りされていたことが 『播磨国風土記』 から うかがえます。  「延喜式神名帳」 に 「射楯兵
主神社二座」 とあり 平安時代には 二柱の神さまが 一緒に祀られていたようです。
 安徳天皇養和元年(1181)に 播磨国内大小明神一七四座の神々を お祀りし 播磨国総社
を称され 播磨一円の人々より 信仰を集めました。  古来より 「八難苦厄を祓い 幸せをよび
こむ神社」 として 多くの方々に お参りいただいております。

 神の使い・撫でみみづくは 知生の象徴として崇められ 吉兆を運ぶ瑞鳥と言われています。
境内の 「撫でみみづく」 を撫でて ご神恩を頂いてください。

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 きょうは 9:09 出発。 国道179号線、県道26号線を走り 山崎で国道29号線にでて
さらに 北上。 山登りをしなくなって この辺りを走ることが なくなりました。
10:21 一の宮・伊和神社に 到着。 裏の駐車場に 駐車。 ここまで 36.9km。
≪ 播磨一の宮伊和神社御由緒略記 ≫
 御祭神 ; 大己貴神(おおなむちのかみ 大国主神、また 伊和大神)
 伊和神社の創祀 ; 大己貴神は 国土を開発し 産業を勧めて 生活の道を開き 或いは
医薬の法を 定めて 治療の術を教えるなどして 専ら 人々の幸福と 世の平和を図り給う
た神であります。

 大神は 播磨国に 特別の御恩恵を垂れ給い 播磨国内各地を 御巡歴になって 国造
りの事業をされ 最後に伊和里に至りまして 我が事業は終わった 「おわ」 を仰せられ
て 鎮まりました。 ここに於いて 人々が その御神徳を慕い 社殿を営んで 奉斎したの
が 当神社の創祀であります。
 その御神徳により 古来 農業、工業、商業等 産業の神、縁結びの神、福の神、病気
平癒の神、又 交通安全の神として 崇敬されております。
 一説に 成務天皇甲申年二月十一日卯(144)、 或いは 欽明天皇二五年甲申歳
(564)の創祀とも 伝えております。

 鶴石は 本殿の裏にあり 成務天皇甲申年 伊和恒郷の夢に 「我を祀れ」 との御神託が
あり 一夜のうちに 杉・桧などが群生して 多くの鶴が 舞っており 大きな白鶴が 二羽石上
に 北向きに眠っていたので その所に社殿を造営したという。 その石を 鶴石といい 社殿
が 北向きであるのも そのためであるという。

 本殿の東と西に 播磨十六郡神社があります。 この横長の長屋風の造りを 総社という?
播磨16郡とは 赤穂郡、佐用郡、揖保郡、飾磨郡、宍粟郡、神崎郡、多可郡、賀茂郡、印南
郡、加古(賀古)郡、美なぎ郡、明石郡 の12郡のうち 揖保郡を 揖東・揖西郡に 飾磨郡を
飾東・飾西郡に 神崎郡を 神東・神西郡に 賀茂郡を 加東・加西郡に分けた 16郡です。
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 10:40 伊和神社を後にして 荒田神社へ向かいます。 荒田神社へは 県道8号線を 一
本道? 坂の辻峠までの県道は 道幅は狭く 登り坂で ヘアピンカーブが多く 走り難い・・。
この峠には 過去に 2、3度 来たことがあります。  神河町へ下り 国道312号線を越えて
高坂トンネルを抜け 多可町へ下ります。 国道427号線に突き当たる 一つ手前の信号の左
手に 二の宮・荒田神社があります。

 ここで 大失敗! 裏から入ったため・・・。 詳細は 秘密。 11:43 着。 ここまで 45.4km。
≪ 荒田神社 由緒 ≫
御祭神:少名彦命  相殿:木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 素盞鳴命(すさのおのみこと)
境内神社:八幡神社、春日神社、秋葉神社、愛宕神社、天満神社、蛭子神社、大神宮
 播磨風土記に出てくるが 天平勝宝元年(729)五月七日 宇神立に 天神の降臨があり
その夜 大雨が降りしきり 為に 田畑をことごとく流出した。 里人 大いに恐れて 相集まり
神助を乞い 宇野尻に祠を建立して 荒田神社と唱う。 今もこの地を神立(こだち)という。

 後に 延暦二年桓武天皇の御代 征夷大将軍 坂上田村麻呂 当地方を管領するようになり その
神徳あらたかなるを聞き 社殿を改造し 社領を寄進し 盛んなる祭儀を行った。 又 八千代村大屋
を経て 安楽田、以前は 荒田村と言っていて 当地の社名は 荒田神社という。  昔は 荒田から
奥荒田まで 一つの荘園であったと思われる。  ・・・・・・   時に 大原大納言道広卿 御参向あり
播州正一位二ノ宮荒田神社と宣下された。 爾後 社運は 隆盛なりしも 元亀、天正の乱世となって
衰微した。  明治七年二月 郷社に 大正三年十二月に 県社に加列昇格される。


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 12:11 荒田神社を後にして 加西市の住吉神社へ向かいます。 国道427号線へ出て 南へ
行き 糀屋の信号で 右折して 県道24号線に乗れば 一本道。 この道は 何度か 走ったことが
あります。 中国道の加西ICの前を過ぎ 玉野の信号で 右折。 北条町駅の前を通り 少し進むと
右手に 住吉神社があります。   13:00 到着。 ここまで 27.8kmでした。

≪ 播磨国三の宮 住吉神社 由緒 ≫
 播磨国三の宮 住吉神社は 古くは 「酒見大明神」 亦は 「住吉酒見社」 といわれ 全国に 数百社
ある住吉神社の中で 住吉大社神代記に 「おおよそ大神の宮 九ヶ所にませり」 と記された九社
のうちの一社(住吉酒見社) に 数えられ 約1300年の歴史を有する旧県社であります。
御祭神 : 中社殿 底筒之男神 神宮皇后 酒見神
        東社殿 中筒之男神 大歳神
        西社殿 表筒之男神 仲哀天皇 応神天皇 神宮皇后 八幡神
 面白いのは 本殿が 中社殿、東社殿、西社殿と 三つ並んでいるのです。 こんなのは
初めて見ました。  三の宮とは 関係ないでしょうが・・・。

≪由緒≫ 養老元年(717)に 年老いた夫婦の神が 五人の王子を伴い 河内町にある鎌倉山に
来られた。 お伴をしていた佐保の神が 三重北条の里に行くことを勧め その途中に 御神宝を
盗んで逃げいった。 翁の神は すぐに 二人の王子に命じて 佐保神を追わしたが 捕えることが
できずに かえってきた。 ・・・・ 老夫婦と三人の王子が立っていた。 そして 山酒人に 一夜の
宿を乞うと 酒人は 家に招き入れ もてなした。 酒人が どこから来たのかを尋ねると 摂津の
住吉から来たと答えたので その証拠を求めると その一晩のうちに 広大な土地が 全て平地と
なり 稲苗が 松林となってしまった。 酒人は 大変驚き 当地の住人たちと相談して その松林の
中に 神殿を建てて 酒見大明神と呼ぶようになった。

 隣に 泉生山酒見寺があるので 寄ってみました。 太鼓橋を渡ると 酒見寺の金堂です。
行基菩薩が 開山した真言宗のお寺で 聖武天皇の勅願寺として 歴代天皇の帰依深く・・・。

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 13:25 住吉神社を後にし 白国神社へ向かいます。 県道24号線を西へ走り 福崎北ランプ
から 播但道へ入り 砥堀ランプで降ります。(210円) 国道312号線に出て すぐ右折。
踏切を渡り 県道518号線で 競馬場の白国の信号で 右折して 北へ。 弁天池の間を進み
小学校裏の白国神社の駐車場へ。  13:55 駐車。 ここまで 20.4kmでした。
 播磨国四の宮・白国神社は 安産と育児の神様です。

≪ 四の宮 白國神社 略記 ≫
 祭神 神吾田津日売命(木花咲耶媛)、 稲背入彦命、 阿曽武命
 創立 当神社は 今を去る千七百年の昔 景行天皇の皇子稲背入命が 大和から当地方へ下向された時
この白国の地に 宮殿を構えて 播磨地方を統治された。 ある日のこと その御阿曽武命の妃高富媛が
ご出産にあたり 大変苦しまれた。 命は 倉谷山の峰に 白弊を立て 神吾田津日売命を祀り 一心に
安産を祈願されたところ 女神が 忽然と現れ 「妾が 神吾田津日売である。 汝の祈りは 天に通じている。
妾が この地に永く留まって 婦人を守護し 安産させましょう」 と お告げになると 白弊が 天高くに舞い
上がり その白弊と共に お隠れになった。 阿曽武命が 館に帰られると 無事に 男子を出産されていま
した。 その神徳に感謝され 早速 倉谷山の麓に社殿を設け 神吾田津日売命を 祀られたのが 白国
神社の創立である。

御神徳 神話によると 神吾田津日売命が 一夜にして 妊まれたので 夫の瓊々杵命(ににぎみのみこと)
が疑われ 「自分の子ではない」 といわれた。 媛は 憤然として 「私は 今から生みますが 私の
腹の子が もしあなたの子でなければ 必ず消滅するでしょう。 又 あなたの子であれば 無事生ま
れるでしょう」 と言って 八尋殿(産室)をつくり その中に入って いよいよ出産という時に 御殿に
火をつけて 燃えあがらせ その中で 天つ神をお産みになりました。 この様に 神吾田津日売命(
木花咲耶媛) は 純潔の神様であり どのような逆境でも 安産なさいました。 今日 尚 播磨一円
より 参詣する人々が 絶えないのは 御神徳の如何に高いかを 物語っています。

 八幡社は 祭神は 誉田別神(応神天皇)  社殿は 享保14年の建造を伝えられ 旧白国神社
の本殿であり 白国神社本殿造営に当たり ここに 移されました。

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 14:15 白国神社を後にして 五の宮高岳神社へ向かいます。 野里を抜けて 姫路城の南へ
でて お城の前を まっすぐ西へ進み 田寺3の交差点で 左折して 南へ行くと 右手のこんもりとした
森が 高岳神社のある蛤山です。 14:42 下の社務所の前に停めました。 ここまで 7.9km。
 ここまで回った神社には 由緒を書いたパンフレット類がありましたが 高岳神社にはありません・・。
どこかで 盗ってこないと・・・・。 

≪ 五の宮 高岳神社 由緒 ≫
 祭神 応神天皇  仲哀天皇  崇道天皇  事代主命  猿田彦神
     住吉大神  伊予親王  藤原夫人  宇賀魂神  市杵島姫神  水分神
 高岳神社は 延喜式内社で 古来播磨国「五の宮」として崇められ、皇室を始め 国司領主武将の
尊信極めて厚く、その由緒の古く 正しいことにおいては  国内屈指の古社です。

 延暦元年(782)に 征夷大将軍 坂上田村麻呂は 幣帛を奉って 武運を祈り、寛元年中には
鎌倉幕府執権 北条経時が、家人の佐貫十郎を遣わし 銀貨一包・太刀一口を 献じて 祈雨祭を
行っています。  また 播磨国守護 赤松氏を始め、姫路城主松平侯、酒井侯は 何れも神殿を供し
走馬を献じ、社殿を造修し、神供料を献納するなど、敬神以て 民生の安定、郷土の進展を図っており
地方の衆庶も 深く尊信の至誠を致した。  このように 由緒尊い神社であることから 明治45年に
兵庫県より 神饌帛料供進社に指定され  さらに 昭和7年には 県社に 昇格しました。

 この聖域の中心である巨大な霊岩は 世に蛤岩と称せられている。 ある時 土地の人が この岩上で
蛤を拾い、福徳長寿の幸を得たので、このように 名付けられたそうです。
この巨岩の頂上には 一つのくぼみがあって、四季を通じ 常に霊水をたたえ、しかも この水が 干満と
共に満ち引きする という神秘が 伝えられています。
 この前 西国街道を歩いたとき この蛤石を見に来ましたが あの時は お昼で 逆光で 岩は黒かっ
たのですが きょうは 日が西に傾き 岩に日が当たり 岩肌がよく見えます。 秋の日は つるべ落とし。 

 15:04 帰路につきます。 南の国道2号線に出て 西へ戻ります。 夢前橋を渡り 太子町を
走り 15:29 家に帰ってきました。 本日は 9:09に 出発し 15:29 帰りました。
 昔は 栄えた神社も 今は 訪れる人も 少なく 荒田神社、住吉神社、高岳神社は 普段は
誰もおらず 祭りのときだけ 賑わうようです。 手水舎の水も涸れています。
 播磨には 「天台六山」 といわれるお寺がありますが  6ヵ寺とも 以前 訪れたことがあるので
再訪するのは 止めておきましょう。 (一乗寺、普光寺、隋願寺、八葉寺、円教寺、神積寺)
 本日の走行距離は 伊和神社まで 36.9km、荒田神社まで 45.4km、住吉神社まで 27.8km、
白国神社まで 20.4km、高岳神社まで 7.9km、 家まで 10.9kmで 計:149.3kmでした。
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