私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 生野道篇②

2019-01-07 10:24:48 | 歴史探索
 1月 7日(月)    天気:晴れ   室温:14.5℃

 年末に FMゲンキのフリーマガジン ”冬号” を入手し ”気まぐれ途中下車 姫路の旧街
道を歩く 生野道篇③(豊富~船津・山田” を 紹介しましたが ”秋号” の ”生野道篇②(砥
堀~仁豊野)” が見当たりません。 書いたつもりだったのですが・・。 今回は ”生野道
篇②(砥堀~仁豊野)” を 簡単に 紹介します。 見所は 14ヵ所あります。 裏のページ
には 付記として ”和辻哲郎 (姫路文学館 学芸員 徳重公美さんに訊く)があります。
 年末にアップした 姫路の旧街道を歩く 生野道篇③は <こちら> を。
     
    
1.大歳神社
  砥堀村の氏宮。 祭神は 大年神(穀物の神)。 1814年 伊能忠敬は 江戸への帰路
  中国地方内陸部を 測量しつつ東へ向かい、姫路で年を越しました。 左に大歳大明神の社あり・・
2.大樋(飾磨樋門)
  池田輝政が 姫路城築城の際に 船場川を外堀に 利用し 市川の城下町への氾濫を防ぐための
  流路固定工事(堤防)を行いました。 その後 本多忠政は 樋門を船場川の整備を行い・・
3.馬車道修築碑
  日本初の高速産業道路・馬車道の完成を記念して 生野橋のたもとに建てられた紀念碑。
4.有明道(糸の細道)
  在原業平が 増位山に連なる峰で 「播磨路や 糸の細道 わけゆけば 砥堀に見ゆる 有明の月」 という
  歌を詠みました。 以降、この峰を 有明峰とか 有明山と呼ぶようになりました。
5.採石場跡
  増位山東麓や 北麓は 姫路城石垣の採石場で 加工して 生野道を城下まで運搬したと考えられています。
6.権現山古墳
  7世紀中ごろの古墳と推定されています。 羨道は10m、玄室は4m、市内最長の横穴式石室。
7.巡礼道
  姫路市立そうめん滝キャンプ場へ至る道は 増位山にも通じており、さらに そこから広峰山、さらには
  書写山へも通じています。 このルートは 西国三十三所を結んだ巡礼道の裏道としても りようされていた。
8.新・旧生野道
  生野道は 砥堀交差点付近から 山裾を離れ、市川のほうへ近づいていきます。
9.姫路聖マリア病院
  現在 姫路聖マリア病院や協会のある場所は、昭和30年代まで 大和工業のの工場で 鋳鋼品や軌道の付属品が
  つくられていました・・。
10.和辻哲郎生家
  和辻哲郎は 明治22年 村医者の次男として生まれています。 この家には 特殊な形の小さな門があったそうですが
  当時の仁豊野に 門のある家は 和辻のほかに もう一軒あったという。 医者の家とお寺だけだった・・。
11.村の興亡
  江戸期の初めころまでは 市川の流路が一定せず、元禄のころに至るまでの間に 集落の興亡が 起こりました。
  慶長国絵路では 仁豊野村は存在せず、市川右岸には 橋爪村・西村・奇末村といった村が 表示されています。
12.泡子八幡神社
  仁豊野の鎮守。 境内の石灯籠には 「右 たじま 北条」、「左 ひめじ ひろみね」とあります。
  これは 道標でもあり、元は 仁豊野北交差点 北西隅にあったものと推定されています。
13.渡し
  元禄国絵図でも 後の天保国絵図でも 渡しの位置は 変わっていません。 和辻哲郎は 舟付場を利用して
  渡し場が作られており 底の平たい渡し船があって、針金の網を伝って 向うの川原の舟付場まで 動いて・・
14.生野道神西ルート
  元禄国絵図、天保国絵図のいずれも 仁豊野村から渡しで 市川左岸を北上するルートを 太い朱線で表示し
  市川を渡らずに 市川右岸を北上するルートを 細い朱線で示しています。 太いほうが 主筋、細いほうは 脇道・・
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コメント
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