8月 7日(日) 天気:晴れて暑かった 室温;33.5℃
今晩 7:30 から BSプレミアムで 『空海 至宝と人生』という番組が 放送されました。 第1集は 「仏
像革命」です。 日本に 密教を持ち込んだ空海が 京都・東寺の講堂に 21体の仏像からなる立体曼陀羅
を作ります。 当時 疫病が流行し 嵯峨天皇から 国難を救うため 東寺を託されました。 仏像は 怒りの
表情で 人を救うことができるのでしょうか?
第2週は 「名筆の誕生」で 嵯峨天皇、橘逸勢とともに 三筆とと言われた 空海の名筆が 紹介され 第3
集は 「曼陀羅の宇宙」 です。 曼陀羅が 発するメッセージは・・。
空海は (宝亀5年(774)~承和7年(835)) 平安時代初期の僧で 弘法太子の名で知られ 真言宗の
開祖。 延暦23年(804) 天台宗開祖の最澄とともに 遣唐使として 中国へ渡り 長安(西安)で 中国の
僧・恵果に付いて 密教の奥儀(仁王教、理趣教) を学び 滞在2年で 帰国。 当時中国では 儒教、道教、
仏教などが 盛んで 空海が 選んだ密教の僧・恵果は 高齢で 空海に いい時に 来てくれた。 生きている
うちに 私の知っていること 全てを 教えよう と言って 密教の奥儀を 授けられました。 その後 恵果は 亡
くなり 中国の密教寺院は 全て 破壊されたそうです。
遣唐使として 中国へ渡ったときも 苦難の連続で 4隻の船も 空海の乗る1隻目と 最澄の乗る2隻目は
無事でしたが 3、4隻は 嵐のため遭難。 着いた中国も かなり 南の地点で 長安までは 長い苦難の道
程だったようです。 中国に 20年滞在予定を 2年で 帰国したため お咎めを受け 帰国後 しばらく 大宰
府の観世音寺にとどまり その後 嵯峨天皇に呼ばれ 東寺を 託されるのです。 東寺は 796年 創建の
真言宗の総本山で 真言密教の根本道場となるのです。
番組では 夢枕獏が 中国を訪れ 空海の足跡をたどり ドラマ 「怒りの仏像」 を書き 演じられます。
当時の中国に どのような仏像が あったのか 今は 知ることは 出来ませんが 空海が 持ち帰った”白
描図” を 元に 怒りの表情の仏像を造るのですが 仏師との葛藤もあり・・・。 現在の仏師・松本明慶が
実演していましたが 仏像の 額の皺(3本)、眉、眼、鼻、口元などを 少し削り 表情を変えると 怒りの
表情が ごく簡単に 表わされるようです・・。
東寺の講堂には 中央に 重文・大日如来像があり 東に 国宝・梵天坐像、西に 国宝・帝釈天騎象像
が あり 四天王立像が 四方を守ります。 西には 国宝・不動明王坐像があり 五大明王の国宝・降三
世(こうさんぜ)明王立像、国宝・軍荼利(ぐんだり)明王立像、国宝・大威徳(だいいとく)明王騎牛像など
があるそうです。 本来 如来像は 悟りを開いたものなので 飾りは 持たないのですが 飾りを たくさん
付けています。 東寺の五大明王像は 7月5日の 「仏像の祈り」 にも あります。
空海が 仏師に これまでにない 「怒りの仏像」 を彫るよう依頼。 怒りながら 慈悲の心を持つ。 慈悲
の菩薩と 怒りの明王・・・ 宇宙の心、人の心を 表わしたい・・ 心を形あるものに・・ 仏(仏像)が 人の
心になる・・ 人の心にあって 導く・・ 言葉だけでは 伝わらない・・・
これらの仏像による 「立体曼陀羅」 が 839年に 完成したのは 空海が 62歳で亡くなってから 4年
後のことです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。
第2週は 「名筆の誕生」 です。 平安時代 「三筆」と 称えられた空海は 多彩な書を 生み出してい
ます。 空海は 中国に渡ったとき 王義之を手本として 書を学び 中国の影響を受け 類い稀な才能
を 発揮します。 空海が 修業道場を開いた高野山には 空海の書が 残されています。 書家の石川
九楊さんが 訪れます。 下の写真のろうこ指帰(しいき)は 空海24歳のときの書で 王義之の字と似
ている? 中国の名筆・王義之の書を すでに 自分のものとしていた・・。
40歳のころ 比叡山の最澄に宛てた 直筆の手紙が 三通(国宝・風信帖) 残されています。 行書と
草書を 見事に使い分けています。 空海の名筆を代表する書です。 三通が 全く違う・・・。
「忽恵帖」 からは 軽やかな心情を うかがうことが できるそうです。 空海の書には 時代を 越えたメ
ッセージが 込められているのです。
「飛白体」と言われる書体は かすれ、かすみの美で 書家・岡本光平氏が 竹で 作った筆で 「梵」の
字を描いています。 「雑体書」は 空海が 中国・唐で学び 心を惹かれた書体で 波打つように描かれ
文字の中に 龍と白鳥が 潜んでいる。 益田池の完成を祝った書では 同じ字も 違った形で 描かれて
いるそうで これらの草書体の文字から ひらがな誕生への道が 拓けていく・・・・。
「崔子玉座右銘」は 空海 晩年の書と言われ 「無道人之短、無説己之長」(人の短を道いう
なかれ 己の長を説とくなかれ) と 書いてあるのだそうです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。
第3集は 「曼陀羅の宇宙」です。 中国・唐へ渡った空海が 曼陀羅を見出だし 日本に 持ち帰るこ
とが できたのは 何故? 胎蔵界・金剛界の 両界曼荼羅には 密教の神髄が 描がかれており 何故
空海に 密教の神髄が 理解できたのか? また 曼陀羅には 密教の教えが 描かれており 密教の
神秘的な 文字では 伝えられないことを 絵で 伝えようとしている。
また 曼陀羅には 宇宙の星の神様が 描かれていて 大自然との一体感を 表わしている・・・。 曼陀
羅に描かれた仏像を 実際の仏像で 表わし 立体曼陀羅といわれる。
胎蔵界曼荼羅の真ん中の赤い所は ハスの花を表わし 仏の中心は 大日如来で 慈悲の心が広が
ってゆく様子が 描かれている。 森羅万象 すべてに 大日如来の心が宿り 大日如来は 私たちの心
の中ある。
金剛界曼荼羅は 悟りに至る9つの段階が 幾何学的な 画像で描かれ 人々に悟りの道を教え 悟り
への道へ導く・・。 悟りの知恵を表わし 人間の多様性を表わしている。
大日如来の周囲に描かれた仏像を じっと見ていると 仏像が動き出す・・。 インドの踊り・舞踊では 手・
指の形が 何かを表わし 舞踏家の森山開次が インド舞踊を学び 曼陀羅のイメージを踊るのですが・・・。
。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。
≪追 記≫10月11日(火)
「京都2000年の旅」 ”知られざる物語” 東寺と幻の西寺 という番組が放送され
嵯峨天皇から 空海に任された東寺は 今も栄えているのに 守敏(しゅびん)に 任された西寺が なぜ
廃寺になったのか? 話は まるで 陰陽師の安倍晴明と芦屋道満の争いのようです。
当時 京都は 平安の干ばつといわれる干ばつに見舞われ 天皇が 空海に雨乞いを 命じたそうです。
すると 年齢も位も上だった守敏が 私がやるのが筋でしょうと言って 水の神・龍神が住む 神泉苑で
雨乞いの祈祷をしますが まやかし程度の雨しか 降りません。 そこで 空海が 雨乞いをしますが・・・。
守敏が 水の神様を閉じ込めたため 雨が降りません。 空海が よくよく調べると 天竺に 守敏より位
の高い神様・善女龍王が 閉じ込められずにおられ 空海が この龍王を呼び寄せ 再度 雨乞いをする
と 三日三晩 雨が降り 田畑が 潤ったそうです。
これにより 法力を失った 守敏は 待ち伏せして 空海の背に 矢を放ったが 地蔵に当たり 空海は 難
を逃れた。 今でも 矢取地蔵尊の お地蔵さんの背中に 矢の跡があるそうです。
廃寺となった西寺跡は 今は 史蹟公園になっていて 礎石が残っているだけ・・・。 どこだったか 当時
の平安京の模型(東寺、羅生門、西寺) があるようです・・・。
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今晩 7:30 から BSプレミアムで 『空海 至宝と人生』という番組が 放送されました。 第1集は 「仏
像革命」です。 日本に 密教を持ち込んだ空海が 京都・東寺の講堂に 21体の仏像からなる立体曼陀羅
を作ります。 当時 疫病が流行し 嵯峨天皇から 国難を救うため 東寺を託されました。 仏像は 怒りの
表情で 人を救うことができるのでしょうか?
第2週は 「名筆の誕生」で 嵯峨天皇、橘逸勢とともに 三筆とと言われた 空海の名筆が 紹介され 第3
集は 「曼陀羅の宇宙」 です。 曼陀羅が 発するメッセージは・・。
空海は (宝亀5年(774)~承和7年(835)) 平安時代初期の僧で 弘法太子の名で知られ 真言宗の
開祖。 延暦23年(804) 天台宗開祖の最澄とともに 遣唐使として 中国へ渡り 長安(西安)で 中国の
僧・恵果に付いて 密教の奥儀(仁王教、理趣教) を学び 滞在2年で 帰国。 当時中国では 儒教、道教、
仏教などが 盛んで 空海が 選んだ密教の僧・恵果は 高齢で 空海に いい時に 来てくれた。 生きている
うちに 私の知っていること 全てを 教えよう と言って 密教の奥儀を 授けられました。 その後 恵果は 亡
くなり 中国の密教寺院は 全て 破壊されたそうです。
遣唐使として 中国へ渡ったときも 苦難の連続で 4隻の船も 空海の乗る1隻目と 最澄の乗る2隻目は
無事でしたが 3、4隻は 嵐のため遭難。 着いた中国も かなり 南の地点で 長安までは 長い苦難の道
程だったようです。 中国に 20年滞在予定を 2年で 帰国したため お咎めを受け 帰国後 しばらく 大宰
府の観世音寺にとどまり その後 嵯峨天皇に呼ばれ 東寺を 託されるのです。 東寺は 796年 創建の
真言宗の総本山で 真言密教の根本道場となるのです。
番組では 夢枕獏が 中国を訪れ 空海の足跡をたどり ドラマ 「怒りの仏像」 を書き 演じられます。
当時の中国に どのような仏像が あったのか 今は 知ることは 出来ませんが 空海が 持ち帰った”白
描図” を 元に 怒りの表情の仏像を造るのですが 仏師との葛藤もあり・・・。 現在の仏師・松本明慶が
実演していましたが 仏像の 額の皺(3本)、眉、眼、鼻、口元などを 少し削り 表情を変えると 怒りの
表情が ごく簡単に 表わされるようです・・。
東寺の講堂には 中央に 重文・大日如来像があり 東に 国宝・梵天坐像、西に 国宝・帝釈天騎象像
が あり 四天王立像が 四方を守ります。 西には 国宝・不動明王坐像があり 五大明王の国宝・降三
世(こうさんぜ)明王立像、国宝・軍荼利(ぐんだり)明王立像、国宝・大威徳(だいいとく)明王騎牛像など
があるそうです。 本来 如来像は 悟りを開いたものなので 飾りは 持たないのですが 飾りを たくさん
付けています。 東寺の五大明王像は 7月5日の 「仏像の祈り」 にも あります。
空海が 仏師に これまでにない 「怒りの仏像」 を彫るよう依頼。 怒りながら 慈悲の心を持つ。 慈悲
の菩薩と 怒りの明王・・・ 宇宙の心、人の心を 表わしたい・・ 心を形あるものに・・ 仏(仏像)が 人の
心になる・・ 人の心にあって 導く・・ 言葉だけでは 伝わらない・・・
これらの仏像による 「立体曼陀羅」 が 839年に 完成したのは 空海が 62歳で亡くなってから 4年
後のことです。
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第2週は 「名筆の誕生」 です。 平安時代 「三筆」と 称えられた空海は 多彩な書を 生み出してい
ます。 空海は 中国に渡ったとき 王義之を手本として 書を学び 中国の影響を受け 類い稀な才能
を 発揮します。 空海が 修業道場を開いた高野山には 空海の書が 残されています。 書家の石川
九楊さんが 訪れます。 下の写真のろうこ指帰(しいき)は 空海24歳のときの書で 王義之の字と似
ている? 中国の名筆・王義之の書を すでに 自分のものとしていた・・。
40歳のころ 比叡山の最澄に宛てた 直筆の手紙が 三通(国宝・風信帖) 残されています。 行書と
草書を 見事に使い分けています。 空海の名筆を代表する書です。 三通が 全く違う・・・。
「忽恵帖」 からは 軽やかな心情を うかがうことが できるそうです。 空海の書には 時代を 越えたメ
ッセージが 込められているのです。
「飛白体」と言われる書体は かすれ、かすみの美で 書家・岡本光平氏が 竹で 作った筆で 「梵」の
字を描いています。 「雑体書」は 空海が 中国・唐で学び 心を惹かれた書体で 波打つように描かれ
文字の中に 龍と白鳥が 潜んでいる。 益田池の完成を祝った書では 同じ字も 違った形で 描かれて
いるそうで これらの草書体の文字から ひらがな誕生への道が 拓けていく・・・・。
「崔子玉座右銘」は 空海 晩年の書と言われ 「無道人之短、無説己之長」(人の短を道いう
なかれ 己の長を説とくなかれ) と 書いてあるのだそうです。
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第3集は 「曼陀羅の宇宙」です。 中国・唐へ渡った空海が 曼陀羅を見出だし 日本に 持ち帰るこ
とが できたのは 何故? 胎蔵界・金剛界の 両界曼荼羅には 密教の神髄が 描がかれており 何故
空海に 密教の神髄が 理解できたのか? また 曼陀羅には 密教の教えが 描かれており 密教の
神秘的な 文字では 伝えられないことを 絵で 伝えようとしている。
また 曼陀羅には 宇宙の星の神様が 描かれていて 大自然との一体感を 表わしている・・・。 曼陀
羅に描かれた仏像を 実際の仏像で 表わし 立体曼陀羅といわれる。
胎蔵界曼荼羅の真ん中の赤い所は ハスの花を表わし 仏の中心は 大日如来で 慈悲の心が広が
ってゆく様子が 描かれている。 森羅万象 すべてに 大日如来の心が宿り 大日如来は 私たちの心
の中ある。
金剛界曼荼羅は 悟りに至る9つの段階が 幾何学的な 画像で描かれ 人々に悟りの道を教え 悟り
への道へ導く・・。 悟りの知恵を表わし 人間の多様性を表わしている。
大日如来の周囲に描かれた仏像を じっと見ていると 仏像が動き出す・・。 インドの踊り・舞踊では 手・
指の形が 何かを表わし 舞踏家の森山開次が インド舞踊を学び 曼陀羅のイメージを踊るのですが・・・。
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≪追 記≫10月11日(火)
「京都2000年の旅」 ”知られざる物語” 東寺と幻の西寺 という番組が放送され
嵯峨天皇から 空海に任された東寺は 今も栄えているのに 守敏(しゅびん)に 任された西寺が なぜ
廃寺になったのか? 話は まるで 陰陽師の安倍晴明と芦屋道満の争いのようです。
当時 京都は 平安の干ばつといわれる干ばつに見舞われ 天皇が 空海に雨乞いを 命じたそうです。
すると 年齢も位も上だった守敏が 私がやるのが筋でしょうと言って 水の神・龍神が住む 神泉苑で
雨乞いの祈祷をしますが まやかし程度の雨しか 降りません。 そこで 空海が 雨乞いをしますが・・・。
守敏が 水の神様を閉じ込めたため 雨が降りません。 空海が よくよく調べると 天竺に 守敏より位
の高い神様・善女龍王が 閉じ込められずにおられ 空海が この龍王を呼び寄せ 再度 雨乞いをする
と 三日三晩 雨が降り 田畑が 潤ったそうです。
これにより 法力を失った 守敏は 待ち伏せして 空海の背に 矢を放ったが 地蔵に当たり 空海は 難
を逃れた。 今でも 矢取地蔵尊の お地蔵さんの背中に 矢の跡があるそうです。
廃寺となった西寺跡は 今は 史蹟公園になっていて 礎石が残っているだけ・・・。 どこだったか 当時
の平安京の模型(東寺、羅生門、西寺) があるようです・・・。
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