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私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

西脇市高松町の和布山 313m

2025-07-25 14:22:05 | 山歩き

   7月25日(金)    天気:晴れ    室温:30.9℃

 今回の山歩きは、2008.4.14に登った 西脇市の南部、高松町の和布山 313.4mです。 長明寺の

駐車場に車を停め、頼政池の傍から山へ取りつきます。 ここへは、金城山に登るのに 何度か来たので、様子は

分かっています。 金城山は、登山口が分からず、シダヤブと格闘したり、頂上から 北端の雨乞いの峰へ行こうと

歩きましたが、途中で 雨が降ってきて 断念したこともあり 苦労させられました。

   

 和布山は、登山口の頼政池から 北へ進むと、昔のハイキングコース?があり、尾根をほぼ一本道で 登ることが

きます。 和布山の四等三角点を踏んで、さらに北へ登り、電波塔の山へ。 展望を楽しんで、さらに北の鈴堀山34

2mまで 行きます。 鈴堀山は 登った当時は 山の名前が分からず、テレビ塔の山と呼んでいました。 鈴堀山から 東

尾根がのびていて、尾根を東へ登ると 金城山へ登れますが、今回は 金城山には 登りません。 鞍部へ降りて、南

箙谷を下り、金城池に降ります。 下山後、長明寺の頼政・鵺(ヌエ)の像を見ます。 頼政の鵺退治の話は 割愛。

 道標のある分岐に登りました。 ここは 南から登って切る道と 南西から登ってくる道の合流点です。 この

道標のあるピーク(220m)が 高松山なのでしょうか? ここからは 一本道で 尾根を北へ登ります。

 電波塔のある所から 少し北が 鈴堀山 342mのようです。 鈴堀山は、「播磨国風土記」に 応神天皇が この

地を巡行したとき 、鈴を落としたので、土を掘って 鈴を探したことから 名付けられたと言われているそうです。

 下の四天王岩は、箙谷の賽の河原にあるものですが、金城山に登って、降りてきたとき、散歩中の元住職さんに

お会いして 教えていただきました。 本来 中央の岩は 帝釈天ですが、ここでは 我々自身で、山に登る我々を 四天

王が 守ってくれているのだそうです。 東南西北の四方を 持国天、増長天、広目天、多聞天が 守っている形です。

それにしては、多聞天と持国天の位置が違う・・。 当時 90歳くらいだったので もう聞くことはできない・・。

 

 高松山・長明寺は、651年 法道仙人開基の真言宗高野山派のお寺ですが、山号の高松山が あるのか 探しまし

たが 見当たりません。 金城山に登ったとき、下山後、長明寺の元住職さんにお会いし、箙谷にある 四天王岩のこ

となど いろいろ教えていただきました。   源頼政は、平家と戦って、宇治川のほとりで 亡くなったはずですが、

近くに 頼政の墓があったり、頼政池があったり、頼政・鵺の像があるのは なぜでしょう。 当時、この辺りは 頼政

の所領地だった?  下の写真には、2007.2.25に 長明寺から金城山に登ったときの写真も含まれます。

     

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加東市の廻谷ミニアルプス 330m

2025-07-17 14:27:58 | 山歩き

  9月17日(木)     天気:雨・風     室温:28.5℃

 今回の山歩きは、2008.4.27に登った 加東市上三草の廻谷ミニアルプス 330mです。 2024.1.

4にアップした 数曽寺山・ミニアルプスの西にある山並です。 「山であそぼっ」を参考にしたと思いますが、最近

「山であそばっ」は 亡くなった? インターネットを見ても、数曽寺山には 登る人もいるようですが、廻谷は 誰も

らないようです。  私も登ったことは 覚えていますが、どこを どう登ったのか、覚えていません。

 やしろ台(侵入禁止?)の奥に 車を置いて、廻池の西から 山にとりつき、北へ歩き、300m小ピークからいった

ん コース外れ、西へ降りて、三等三角点:永富村305.4mを踏みます。 このルートには 三角点がないので、

コースを外れても 三角点を踏まないと・・。 コースに戻り、北の330mピークへ。 さらに 北へ進み 鉄塔を越え

て、鞍部へ降り、鞍部から東へ。 峠?に降りて、廻谷を南へ歩き、廻池の傍を歩いて、車に戻ります

   

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丹波市山南町の天狗山 558m

2025-07-14 14:43:28 | 山歩き

  7月14日(月)     天気:雨・風     室温:29.5℃

 今回の山歩きは、2008.3.29に登った 丹波市山南町の天狗山 557.5mです。 6月11日に 山南町

の首切地蔵尊から 高山660mに登ったページを アップしましたが、この時、けやき坂に降りて 北の天狗山にも

ろうかと 思いましたが、山は 逃げることは ないので またいつか 来ることができると、断念しました。

 天狗山は、全国には いくつあるのでしょう。 私も 近くの天狗山を3つ、4つは 登ったような気がしますが・・。

   

 天狗山は、高山に登ったときの記憶があるので、それを思い出し、地蔵公園の駐車場に車を置いて、林道高山線

東へ歩き、林道終点から ケヤキ峠に登り、峠から 北へ登ります。 尾根の小ピークを越えて、天狗山へ登ります。

 さらに、山頂から 尾根を北東へ降りて、天狗岩へ行きます。 東に 送電線・鉄塔があるので、巡視路があり 歩

きやすい道です。  下山は、登った尾根道をピストンします。

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丹波市春日町の黒井城跡・千丈寺山・ヨコガワ峰

2025-07-09 15:38:04 | 山歩き

  7月 9日(水)    天気:晴れ    室温:31.9℃

 今回の山歩きは、2008.4.5に 登った 丹波市春日町の城山(黒井城跡)356.6m~千丈寺山346

m~ヨコガワ峰363.6mです。 黒井城跡から ヨコガワ峰へ縦走します。 黒井城跡には 以前 登ったことがあ

り、2021.1.20に ブログを書きましたが、この時は ヨコガワ峰には 登らなかったので、再挑戦しました。

 城山(黒井城跡)は、猪ノ口山とも言われ 干支の山でもあるようです。

  一度 登ったことがあるので、山の様子が分かっているので、今回は 大野峠から 降りたところに 自転車を置いて、

興禅寺の上に車を置いて、黒井城跡、兵主峠、千丈寺山、大野峠、ヨコガワ峰を縦走し、大野峠に降りて、自転車

で  興禅寺の駐車場に戻ります。

       

 国指定史跡・黒井城は、別名を保築城、保月城とも呼び、城山(猪ノ口山)357mにある城で、南北朝時代

の建武2年(1335) 春日部荘を領した 赤松筑前守貞範(則村の次男)が はじめて 山頂に城を築いたことから

その歴史が始まります。   その後、約200年間 数代の城主をへて、戦国動乱のさなかの天文23年(1554)

荻野氏が 城主となり、一族の荻野直正が 秋清を倒して 入城し、悪右衛門と称します。 直正は、その勢威の拡大

ともに、全面的に大改修の手を加えたのが、現在の黒井城跡です。  山頂の本城部分には、荒々しい野面積み

の石垣を積み上げ、これを囲んで 中腹には 三段曲輪・太鼓の段・石踏の段・西の丸・東出丸などの曲輪を配して

御を固めています。

   
 さらに 枢要な尾筋には、千丈寺・龍が鼻・射場・百閒馬場などの 砦跡があり、また 山中のいたるところに 曲

輪跡・土塁・堀切などの防御施設が 埋もれていて、周囲約10kmにおよぶ 猪ノ口山系全体が 巨大な城となって

います。  天正7年(1579)8月 さしも堅固を誇った黒井城も 丹波平定を急ぐ 明智光秀の大軍の前に 落

城を遂げました。 その後 400年余りの間、何ら人の手を加えられることもなく、今でも 戦国時代の様子をそ

のまま残している城跡として 全国的に 高い評価を受けています。

 

 大野峠から集落へ降りて、停めておいた自転車で 興禅寺の駐車場へ戻ります。 興禅師は 春日局が生まれた場所

です。 大梅山興禅寺は、曹洞宗の寺院で、本尊は 釈迦如来。 もとは、黒井城主の赤井悪右衛門直正の下屋敷跡で、

直正の夫人が 関白近衛家の娘であったことなどから、近衛家をはじめ多くの寄進を受けた記録が残っています。

 天正7年(1579)8月 黒井城落城後は、明智光秀の家臣・斎藤利三が 居住し、当地を統治。 利三は、坂本城に

いた妻・お安と子どもたちを この陣屋に呼び寄せ、天正7年の年の瀬に 娘のお福(後の春日局)が 当地で誕生し

ました。   門前には、「春日局出生地」の碑があり、境内には、「お福産湯の井戸」や「お福の腰かけ石」が

ます。 お福は、物心のつく3歳の冬まで 当地で育ち、天正10年(1582)4歳の春には 亀山城にいましたが、

父・藤利三は、本能寺の変後、山崎の合戦で敗れ、処刑された。 お福は、その後、母方の一族・稲葉重通の養

女となり、稲葉正成との婚姻を経て、慶長9年(1604)26歳で 徳川家光の乳母となりました。

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福崎町の飯盛山 と 住吉山・八千草山 257m など

2025-07-03 15:06:29 | 山歩き

  7月 3日(木)    天気:曇り    室温:31.6℃

 今回の山歩きは、2008.3.9に登った 福崎町南部の飯盛山 197.5mと 住吉山200.0m~八千草

山 257.0m~福井谷(四等三角点)183.1mです。 これらの山は、200mほどの低山で、山歩きとして

は 面白くもない山ですが、見るもは 色々あり 楽しい山歩きでした。 飯盛山は、春日山城跡で、後藤又兵衛の伯父・

後藤基信の居城でした。  八千草山は、八千なので、七種山の七より 格上?

 八千草山から 東へ回って、峠(弥勒峠)に降りて、東の加西市吸谷町へ降りると、蛙(岩)の親子が居て、その先

には 吸谷廃寺跡(慈眼寺)があり、近くに 石彫宛・酒庵があり、面白い石の彫刻(仏像?)が たくさんあり、修布

(すふ)の井戸もあります。  帰りに、姫路市山田町下山田の清盛塚(古墳)に寄り、観音山 93.1mに登り、三

角点は、飯盛山、住吉山、八千草山、福井谷、清盛塚の五つを踏むことができました。

 

 まず、福崎町の南東部・姫路市との境界近くにある 飯盛山 197.5m に登ります。 西麓にある 春日ふれあい

会館前に車を停めて、南から 登ります。 飯盛山は、春日山城とも呼ばれ、山頂一帯は、春日山城跡です。

 春日山城は、建武年間(1334~6)に 築造され、播磨の守護 赤松氏の幕下であった 後藤三郎左衛門尉基明が 初代

城主として 現在の福崎町全域と姫路市、加西市の一部を統治していました。   応仁の乱には、赤松政則の部下と

て 出陣し、山名の軍勢を破って 軍功を立てました。 天正六年(1758) 9代目 後藤伊勢守基信の時に、中国征伐

向かう羽柴秀吉によって 城は 攻め落とされました。 落城してから 長い年月が経ち、いまは 城跡が残るのみです。

   

 飯森山から 北へ降りて、県道を横切り、若宮神社を通って北へ歩くと、正面に 住吉山があり、八千草山への尾根

が見渡せます。 南の登山口から 住吉山へ登り、住吉山から 尾根道を八千草山へ縦走します。 八千草山の東の分岐

を南へ進み、弥勒峠に降りて、峠から 東の吸谷町へ廻ります。 

       

 蛙岩は、峠から吸谷町に降りたところにあった思っていましたが、福崎町と 吸谷町との境界尾根、峠の手前

にもあったようです。 2匹の蛙は 親子? 1年に 数ミリずつ近づいているとか・・・。

  

 加西市吸谷町は、「播磨国風土記」に 記載されている「修布の里」で、「修布の井戸」は、今も吸谷町の民家に

残っている井戸です。

 この村に井戸がありました。一人の女が 水を汲んでいて、そのまま井戸にスイ込まれてしまいました。 そこで、

スフという名がつきました。 御当主の話によると、その井戸は現在も使われていて、しかも 三軒の家が、この井

戸からポンプで水を汲み上げて、使用しているとのことです。

     

 加西市のHPによると、吸谷廃寺(加西市指定文化財)は、慈眼寺廃寺跡から 7世紀後半のものとみられる

金堂の土台跡が 確認されたと発表した。 これまで 廃寺跡からは 講堂や塔の遺構が見つかっているが、金堂

位置関係から、廃寺跡の建物配置は 現在の法隆寺(奈良県斑鳩町)と 同一と考えられるという。  

     

 山から降りて、県道を歩いて 車を停めた ふれあい会館へ戻り、車で 南の姫路市山田町北山田へ移動します。

道路の角に 北山田の道標があります。 北山田の道標は、明和2年(1765)造立で、高さ1m余の自然石に 地蔵

坐像を浮彫りにしたもので、姫路市内の道標としては 2番目に古いものです。 正面に 「右たじま」、背面に 「明

和二年酉 谷口・・」と刻印があり、法華山一乗寺巡礼の帰途を示すものと考えられます。 背後の自然石型の一石

一字 法華塔は 小石に 法華経を一字ずつ 書写して埋納したもの(天明八年造立)

 

 飯盛山の南約1.5kmのところ 姫路市 北山田には、古墳時代に 築造された清盛塚や 御大師山古墳があり

ます。 北山田村の氏宮 天満神社の祭神は 菅原道真。 創立年代は 不詳。

 清盛塚は、標高93mの観音山の山頂に位置する全長約40mの前方後円墳で、竪穴式石室を有す。 名称の

由来は、北山田出身の清盛の乳母が 清盛の信仰した観音の像を山頂に祀ったといい、清盛が 乳母のために 法華

経を山田法華堂に納めたことから 後世に 清盛塚と呼ばれたのであろう。 法華堂池もあります。

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