道内に住む長兄の承諾を得たんですが、他二人の兄弟は聞いていなかったそうです。ただそのことを責めても仕方ありません。たいていは兄弟に意思疎通が出来ている、って考えるもんです。
ただ、五十嵐威暢氏はロサンゼルスに住んでいましたのですから・・・
アート好きな市内のメンバーは、そんな事情があることを知ってか知らずか石蔵改修のための資金調達を試みます。
商工会議所や市をとおし北海道から補助金を得る手はずが整ったのだそうです。
そして、音楽好きの連中総出で何十年分のほこりがたまった石蔵を清掃したんだそうです。大変な作業だったそうです。実際そう思います。
清掃し簡単な修理を終え、ライブを開いたのかもしれません。
しかしその時、五十嵐威暢氏から"待った"がかかったのです。
五十嵐威暢氏曰くはこうです。
「あの石蔵は兄弟3人の共有になっている。ボクはあの石蔵については大変愛着を持っていて、いつかは改修して利用しようと思っていた。だから、兄からその話を聞いたときにストップして欲しいと申し入れた。」
五十嵐威暢氏は「兄からその話を聞いたときにストップして欲しい。」とのみ言っただけなのです。いろんな経緯ぬきに。
ストップがかかった連中は何とかならないかと、動いたんだろうけど結局ダメだったようです。
その時のわだかまりが延々と続いているのです。
そしてその時の連中は、役所の文化教育部局の中枢を占めていました。
また、商工会議所も一枚かんでいるものだから、会議所の人、市の商業部局の担当者もわだかまりを持っている者が存在します。
結局、それらの協力を得られない、ないしは邪魔をされることにより、NPO A・C・Tは孤立無援状態が続いたのです。
組織的な支持を得られない中、当時の田村弘前市長は当初、支持してくれました。
その市長の指示が他の理事者・幹部たちに伝わらないのです。
ボクは田村弘前市長に対し厳しい見方を示しています。
しかし、このNPOの件に関しては、市長は市のためにとの思いが強かったと思います。
実は、市長も当時商業関係の部局にいて、嫌な思いをしたはずなんですがおくびにも出さず支援の姿勢を示していました。ただこの頃すでに、市長の影響力は落ちて来ていたんではないか、と推測できます。
また、この件で嫌な思いをさせられた連中の中にも、このNPOを積極的に応援してくれた人がいることを申し添えます。
滝川市の悪態、まだまだ続きます。