アナーキー小池の反体制日記

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#3919 記し継ぐべきこと ⑩ 滝川市の負の遺産(吉岡分・4)

2021年11月05日 | マチの事件簿

30年も40年も前の市長だった吉岡清栄の本質に迫ります。
ボクが就職した時にはすでに滝川市長は吉岡清栄でした。
そしてその後十数年間、吉岡清栄が滝川市長だったのです。
ボクが就職して数年は吉岡清栄と話したこともなく、田舎の首長はこんなもんなんだろうな、って思っていただけの存在でした。

ただ、だんだんと田舎の首長としては吉岡清栄の評価が高いことがわかってきました。
しかしボクは吉岡清栄が古い価値観・倫理観を持った輩(やから)なことに気付いていました。
ムリもありません、彼は戦前に生まれ戦前の教育を受けてたんですから。
当時の職場の上司もみな戦前生まれで戦前の教育を受けている者でしたので、それほどの違和感を持たなかった、のが本音ですが。

大昔の吉岡市長は当時、田舎の首長にしてはずいぶんと評価の高かった首長でした。
田舎マチは公共事業での国庫補助金頼りです。
なにせ国庫補助金で職員の給料まで出してくれるんですから、大助かりです。

その国庫補助事業補助金を、早く大きな額で分捕(ぶんど)ってくるのが吉岡清栄は上手だったんです。
しかし最初に記したんだけど、早くて大きい国庫補助金を得る事業選択がベストとは言えません。

例えば、このマチの公共下水道整備事業です。
類似のマチに比べ、このマチは国庫補助事業による取り掛かりが早かったですし、年間に投入する金額も大きかったのです。
ですから、類似のマチに比べて公共下水道整備率は常に高かったものです。

・・・
ボクが就職したのが昭和49年(1974)です。
都市計画課に配属されました。
ボクは公園緑地係に配置されたんだけど、都市計画課には下水道係があって10人ほどもいる大きな勢力でした。(ボクの公園緑地係は係長を含め4人しかいませんでした)

建設部はどこも忙しい時代でしたが、下水道係は特に忙しく活気にあふれてたんです。
もちろん下水道工事の発注はたくさんありましたが、そのほかに下水道事業を市民に知らしめる説明会が毎週のように行われていました。
その説明会って結構モメたのです。
下水道区域に指定されると、下水道受益者負担金の支払いが義務付けられます。
そして、下水道管の敷設が終わると各々の家は下水道排水設備工事を行うことも義務付けられるのです。
下水道受益者負担金も下水道排水設備工事も各々数十万円を要しますから、庶民にとっては大きな出費です。

今では考えられないことですが、当時は「今のままで何の不自由をしていないのに勝手に下水道受益者負担金の支払いや下水道排水設備工事を行うことを義務付けられるのは納得できない。」とする意見が結構出たのです。
先進的に事業を行うと、田舎マチでは余分な軋轢(あつれき)が生じるのです。
早くに事業展開したことによる弊害?ですが、こんなのは些末(さまつ)なことです。

下水道工事も類似規模のマチに比べ、早くに取り掛かり、それも高評価の要因となりました。
ところが早く取り組んだことが禍根を残すもとになったんです。

下水道事業には合流式と分流式の2種類があります。
元は合流式が主だったんだけど、途中から分流式に変更されたのです。

合流式は汚水も雨水も一緒に処理場に流し浄化する方式で、分流式は汚水と雨水を別な管にし(本来は)汚水のみを処理場で浄化する、というものです。

このマチは早くに取り組んだものだから、旧市街の多くは合流式で出来上がってしまったんです。
今になって旧市街の道路を掘り返し、下水道管の入れ替えを行っています。
早く予算を分捕ったゆえに、大きな無駄が生じたのです。
今でも旧市街で細々と合流式から分流式への切替工事が行われています。

その他、下水道事業には下水処理場の問題もありますが、次回にします。

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