マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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天理市柳本町・新町の太神宮祭

2023年08月30日 07時36分07秒 | 天理市へ
7月16日と伺っていたが、前週の日曜日に移った天理市・武蔵町の「郷神さん」

行事調査は、来年廻し。

その足で調べておきたい天理・柳本の太神宮祭。

コロナ禍の時代に、さまざまな行事は中止されているが、ここ柳本はどうされているのだろうか。

天理市の柳本の民俗調査をしていた際、ネットに見つかった史料がある。

見つかった史料は、PDF形式の『やまとし美し(※うるはし) 柳本』。

柳本町の略歴史に、年中行事や観光施設を案内する観光マップである。

柳本町自治連合会町づくり推進委員会と奈良県地域デザイン課が共同作成したマップは平成27年3月に発行したとある。

これまで調査したことがある県内事例の一つに「だいじんぐう(太神宮)」がある。

大方の地域で行われている「だいじんぐう(太神宮)」行事は、毎年の7月16日。

行事場は、地区に建つ「太神宮」石塔、若しくは「大神宮」石塔である。

地区に構成する伊勢講、若しくは村自治会が営む「だいじんぐう(太神宮)」行事。

かつてというか江戸時代に流行ったお伊勢参り。

集団、あるいは講中から選ばれた人たちが、伊勢を目指す行幸の出発に、行程の安全を願い、無事に戻ってこられるよう拝んだとされる「だいじんぐう(太神宮)」石塔である。

「伊勢街道(※古来は上ツ道と呼ばれていた上街道)沿いに建つ常夜灯の前に参集。江戸時代から続いている伊勢行きの安全を祈願する行事(※若干補正)」とある「だいじんぐう(太神宮)」参拝の日程は7月下旬とある。

平成30年7月10日に訪れた柳本

五智堂傍に建つ薬師堂行事を尋ねていた

話者は、上街道と新道が交差する十字路角地に建つたばこ屋さんの奥さんだった。

7月16日に行われる太神宮祭は、伊射奈岐神社宮司が出仕される。

上街道はお伊勢さんに参る道。

ここ柳本は、上街道沿いに、太神宮石塔は何カ所かに建っているが、祭礼をしているのは新町、鳥居、戎、片原、上長岡になる、と話していた。

それから4日目の7月16日も訪れた柳本。

伊射奈岐神社を西に下った上街道と交差する地に、四方竹を張っていたのだ。

上街道辻に近い位置に建つ石塔は常夜灯。

その並びにあった石塔。

欠損ではないが、風化激しく彫った文字は判断できないが、状況からみれば大神宮石塔。

通りがかりに撮っていた時間は、午後4時半。

もう少し待っておれば、お供えなどが拝見できるのだが、この日は予定がある。

これから向かう先は、明日香村豊浦甘樫垣内の大神宮行事

聞き取り調査する時間もなく立ち去ったが、16日は確実にしているとわかったから、武蔵町の「郷神さん」を外した次の行先と思って車を走らせた。

ところが、先に見つかったのは、新町の太神宮祭だった。

上街道を通り抜けようと思ってハンドル切りかけた辻。



お供えをしている状況に、取材チャンスを見捨てるわけにはいかない。

地区代表の新町自治会自治会長他、長老らも許可をいただき、早速の突撃取材。

17軒の新町自治会。

口々にしゃべりはじめた「まめんどう」。

ここにある建物が「まめんどう」に果てさて・・。

「まめ」みたいなお堂なのか、それとも「めんどう」な建物なのか・・・。

ここがそうやと、指さしたその建物は珍しい形態の傘堂。

「まめんどう」をキーにネットをぐぐったら「五智如来を表す不思議建築の『長岳寺五智堂』・・」が、一本足で建つ不思議な建造物は、国の重要な文化財。

真ん中の柱は心柱。

一本の柱で支える建造物は、どっちを向いても正面に見えることから。

「まめんどう」と呼ばれている、と話す。

充てる漢字が「眞面堂(まめんどう)」。

管轄は、東に数キロメートル離れた地に建つ長岳寺

心柱上部に、四佛の梵字額があり、全体で五智如来を表しているそうだ。

今日の目的は、「眞面堂」でなく、辻際に建つ石塔である。

西に「太神宮」、南に「天満宮」。

北に「永代常夜燈」。

それぞれの方角から拝礼する石塔。

「太神宮」は、伊勢神宮に。

「天満宮」は、柳本の氏神社である伊射奈岐神社に・・・。

かつては、まめんど川と呼ぶ小川の傍に建っていた。およそ50年前。

この辻から東を南北に走る国道19号線と結ぶ拡幅新道の工事。

それまでの道、つまり村の里道は、石塔の際々を東西に向かう旧道が一般道であった。

新道を地図で見ればよくわかるが、もともとある里道から、大きくうねって作道されたバイパス道である。

86歳のNさんがいう。

75年前のここは小学生のころの集団登校の集合場所。

柳本小学校に集団登校していた3地区(※笠堂とも呼ばれる真面堂”まめんどう”村と新地に新町地区)の子どもらが集まる場だった。

当時の子どもらは、太神宮塔の周りをぐるぐる廻ったり、石塔に攀じ登って遊んでいたそうだ。

また、現在は、ここに石塔はあるが、実は移築したもの。



元の位置は、四つ辻のど真ん中に建っていた、という。

台座に「新町中」。

東の面に「天保八年(1837)」□□建之」とある歴史建造物。

今から185年前の住民。

新町中の人たちが、「文政のおかげ参り」が流行った8年後に建之したもようだ。



さて、お供えを並べて、祭主を待つ新町地区の人たち。

予定時間を、少し過ぎたころに到着した笠松健宮司。

本社の伊射奈岐神社行事の大神宮祭を終えてからやってきた、という。



宮司の到着を待ってローロクに火を灯した。

コロナ禍の今年は、新町中の厄払いも兼ねて行われた太神宮祭。

神式に則り、祓詞に修祓。



蝋燭を灯した祭壇に供えたお神酒の口開け、献饌、祝詞奏上、代表者による玉串奉奠。

撤饌を経て神事を終えたらお神酒を口にする直会。



その場で立ったままの直会。

コロナ禍の今年は、あっさりと締め括られた。

祭壇などを片付け、すぐに解散された。

宮司は、次の祭典場に直ちに移動。

次の場の取材に、車で後を追っかけた。

(R3. 7.16 SB805SH/EOS7D撮影)


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